壊れかけの価値
⚠ 本作品には以下の表現が含まれます
流血表現・過激な暴力
性的暴力・性的搾取描写
精神的・心理的圧迫
閲覧の際は十分にご注意ください。
黒は、アジトの奥へ迷いなく歩みを進める。夜気の中、足音だけが乾いたリズムを刻む。
辿り着いたのは、打ち捨てられた廃ビル。外壁はひび割れ、剥がれたコンクリートの隙間から鉄骨が覗く。
どこからか水が垂れ、壁面には黒ずんだ染みが広がっていた。入口の奥で、白色灯が不規則に点滅している。
一瞬暗くなり——また戻る。それを、ただ通り過ぎる。
任務は——全滅。対象も、周囲も、すべて処理した。一つを除いて。
——わずかに、残してしまった。
足は止まらない。振り返ることもなく、そのまま奥へ進む。
廊下の奥から、視線が集まる。気配だけで同業者とわかる。
壁にもたれた影が、ゆっくり顔を上げる。
「……随分派手にやったな」と低い声が覗く。
別の方向から、嘲笑が降り注ぐ。「それで? 取り逃がしたんだろ」
冷淡な足音が一つ、にじり寄る。「しくじったってわけか」
言葉の奥に、わずかな期待が滲む。試すような気配が醸し出す。
「いいねぇ。今回は“どこまで壊れるか”見ものだ」
誰かが小さく笑う。畏怖。興味。嘲り。それらが空気に混ざっている。
だが——黒は止まらない。視線を向けず、ただ歩く。言葉も気配も、意味を持たないまま流れていく。
靴音だけが、乾いたコンクリートを一定の間隔で叩く。迷いはなく奥へ、さらに奥へ。
やがて——最奥の扉の前で、足が止まる。今から起こる事象を予測するかのように。
黒は立ち止まり、呼吸も心拍も変えず、ただ手をかけ——扉を開けた。
錆びた蝶番が軋み、重たい音が室内に広がる。
閉じ込められた空気が流れ出し、湿った匂いが肌にまとわりつく。
古い煙、アルコール、乾ききらない血——それらが層となり、部屋を沈める。
部屋の奥に男が一人。この組織のボス。椅子に深く沈み、だがその存在だけで空間の重さを変える。
大柄な身体。無造作に露出した腕には幾重にも傷が走り、古いものも新しいものも混ざり重なっている。
グラスの中で琥珀が揺れ、葉巻の先が暗く赤く明滅する。その視線だけが——黒を捕らえていた。
「……一人、残したな」低く押し潰すような声。責めるでもなく、確認する響き。
黒は動かない。視線も返さない。存在だけがそこにある。
ボスが視界に黒を捕える。表情に執着が滲む。壊れかけで、傷だらけで、なお最強の殺し屋として存在する黒。
その儚さと強さに、男は触れずにはいられない。触れる指先に陶酔が香る。息を吸うたび、黒の存在に酔う。
「まあいい」息を吐き、グラスを揺らす。「逃げ場はない」
その刹那、衝撃が響く。頬が弾け、床へ叩きつけられる。硬さが骨の内側にまで響く。
間を置かず腹に蹴りが入る。体の空気が押し出される。しかし黒は微動だにしない。
痛みは単なる感覚として処理されるだけ。
もう一度。同じ場所。角度だけを変え、正確に叩き込まれる。
鈍い音が一定間隔で重なる。躊躇も加減もなく。
床を滑り、蹴り、転がし、踏みつける。重さが乗る。
骨が軋む。沈み込む感触を確認するように力が重なる。
——黒はただ処理する。与えられた衝撃を自身の空白に流し込むかのように
離して——また踏む。位置を変えながら、何度も。
首を掴み、持ち上げる。視界が揺れ、逃げ場を残さない速度で締める。
呼吸が途切れる。視界が暗く滲む直前で、離し空気が戻す。
しかし——すぐにまた掴む。形を変えながら計算された暴力を繰り返す。
どれほど時間が経っただろうか。黒は抵抗せず、逃げない。
暴力の連鎖は、ボスの執着そのもの。黒の無反応が、さらに狂気を煽る。
ボスの動きが変わる。叩きつける暴力から——触れて確かめる行為へ。
グラスが落ち、割れる。男は破片を拾い、指先でなぞり黒の胸元へ押し当てる。
布が裂け、繊維がほどける。一度で終わらせない。何度も、線を刻むように。
破片が滑り、皮膚が開く。血が遅れて滲む。浅く、だが確実に。
露わになる身体。異様なほどに細く、骨の輪郭が浮かぶ。
皮膚の下に厚みはなく、無数の傷。古いものも新しいものも縫合跡と重なる。
雑に閉じられたであろう痕が、歪に残っている。腹部は不自然に落ち込み、明らかに“あるはずのもの”が欠けている。
男の呼吸が変わる。「……いい」「やっぱり、お前は——これだ」欠けた部分を確かめるように指が這う。
乱暴に、しかし確かめるように。「壊れかけで止まってる」「だから、価値がある」と低く歪む。
「俺が作った」「全部だ……他の誰にも触れさせていない」
ベルトを引き抜き振り下ろす。乾いた音が何度も位置を変え、響く。
首を掴み、締め、緩め、その隙間に何度も振り下ろされ肌をえぐる。
一頻り空気を裂く音を響かせ振り下ろすと、叩きつけるように黒を押し倒す。
重さが逃げ場を塞ぐ。ボスはニヒルな笑みを浮かべたまま自身のズボンへ手をかける。
肉の裂ける嫌な音が響き、黒の中へ容赦なく侵入する。
突き動かすたびに鈍く濁った水音が残る。
確かめるように、壊れていないことをなぞるように。
「……ほら、壊れてない」深く一気に押し込む。
抵抗のなさを確認する。「どこまでやっても崩れない」
指が腹の凹みに食い込む。「削っても、抜いても、まだ残る」「だから——いい」
身体はただそこにある。押し広げられ、揺さぶられ、内側をなぞられても——何も返さない。
背などとうに床から離れ、意志とは関係なく幾度となく揺さぶられ、吐き出され、再び揺れる。
感覚は流れ、誰にも掬い上げられず、残らない。
押し込まれる圧も、裂ける感触もすべて通り過ぎる
——そこに「自分」はない。だから反応もない。空白のまま黒はこの歪を受け続ける。
やがて動きが荒くなり、幾度目かの痙攣とともに——止まる。
男が深く息を吐く。欠片も残さず吐き切ったかのように。
黒から自身を引き抜き、腕を掴み、引きずる。
床を擦る音が長く続き、隅へ放る。黒は動かない。
ボスの呼吸だけが残る。
黒の血が床に広がり、内側から滲む白濁と混ざる。
男は何事もなかったかのように服を着て葉巻に火を戻す。煙が空間を満たす。
外の足音が乱れ、扉が乱暴に開く。
声が、叫びが、怒号が——空気を引き裂く。
「ボス——!」「来た……!」「……あの男が」
空気が張り詰める。男はゆっくり、確かめるように黒を見下ろす。
その瞳に揺れはなく、動きもない。全ての音、痛み、暴力を吸収した空白。
「……来たか」男の声は、湿った闇に溶ける。
足音が増え近づく。視界が振れる。
黒は、切り裂かれた衣服に手を伸ばす。光も、恐怖さえも——置き去りのまま。
衣服など今更形を成していないのに、それでも変わらずいつもの行動のように。
呼吸も、心拍も、揺れも、空気すら空白に抜け落ちたかのような通常の静寂。
しかし、血を這う空白の瞳だけが、ほんのわずかに
——遅れて揺れていた。




