琥珀色の残光、聖域の再会
住吉川公園から病院へとひた走る車内。窓から差し込む琥珀色の鋭い陽光が、草薙 登夢のまぶたを優しく叩いた。
深い眠りの底から意識を引き揚げた時、鼻腔をくすぐったのは、つい先ほどまで彼を支配していた硝煙と鉄の錆びた匂いではない。
それは、どこか懐かしく冷たい消毒液の匂いと、高く澄んだ空から降りてくる乾いた秋の気配だった。
「……目覚めましたか、若」
運転席に座る篠塚 椿の声が、修羅の世界と日常の境界線を越えたことを静かに告げた。隣に座る伴隆は、持ちうる全ての「策」と「氣」を出し切ったようにシートへ深く身を沈めている。
ふと登夢と目が合うと、彼はボロボロの体で不敵な笑みを口元に浮かべた。
「よく生きて帰ったな、登夢。……安心しろ。お前はもう、光の側の人間だよ」
その言葉は、親友の「影」を制御し、彼を壊さぬよう光へと繋ぎ止める役割を完遂した伴隆なりの、最大の労いだった。
「……行きなさい、登夢くん。あなたの『聖域』が待っていますわ」
未来に背中を押され、登夢は胸の奥に澱のように残る戦いのざらつきを、深く長い吐息と共に吐き出した。
ふらつく足取りで、中庭を見渡すサンテラスへと歩を進める。
扉を押し開けた瞬間、溢れ出した黄金色の朝日が登夢の視界を真っ白に染め上げた。
かつて鳳学園の中庭で想いを通わせたあの日と同じ、プリズムのような光の粒が冷ややかな空気の中に舞っている。
その光の洪水の中心に、彼女はいた。
岸本 景はテラスの椅子に深く腰掛け、秋の風を全身に受けていた。
彼女の左肩から腕にかけて装着された無機質な金属の固定具と、幾重にも巻かれた包帯の白さが、朝日の下で神々しいほどに浮き上がっている。
足音に気づき、景がゆっくりと振り返る。 彼女の瞳は、包帯の白ささえも打ち消すほどに強く、そして澄んでいた。
「……おはよう、登夢くん」
鈴を転がすような、凛として、それでいて甘やかな響き。
その一言が、登夢の心にこびりついていた修羅の残響を、冷たい秋の露のように溶かしていった。
「……景。……ただいま」
188センチの巨躯を折り曲げ、登夢は景の前に静かに膝をついた。景は自由な方の手をそっと伸ばし、傷ついた少年の頬を優しく包み込む。
「ちゃんと帰ってくるって、わかってたもん。……おかえり、登夢くん」
景の瞳から、温かな涙が一粒、登夢の手にこぼれ落ちた。
それは愛する人を信じ抜き、自らの「帰る場所」を守り抜いた少女の、勝利の証だった。登夢は景を真っ直ぐに見つめ、静かに、しかし魂を込めて呟いた。
「……ありがとう」
その言葉を交わし、登夢が景の小さな手を自らの大きな掌で包み込んだ時だった。二人の間を、わずかに色づき始めた桜の葉を揺らす秋の風が、優しく吹き抜けていった。
「……登夢、くん」
安心感からか、景の声に深い微睡が混じり始める。
手術後の疲労と、愛する人の無事を祈り続けた緊張の糸が、琥珀色の陽光に溶かされるように解けていったのか、景の頭が小さく揺れ、やがて登夢の大きな胸元にこてんと預けられた。
規則正しい寝息が、登夢のシャツ越しに温かく伝わってくる。
登夢は、その愛おしい重みを壊れ物を扱うような眼差しで見つめた。
「……景」
登夢は静かに立ち上がると、再びその巨躯をゆっくりと折り曲げた。
そして、景の不自由な左腕に決して触れないよう細心の注意を払いながら、その小さな体を横からそっと掬い上げた。
不意に浮遊感を感じたのか、景の長い睫毛が微かに揺れた。
彼女は夢現のまま、自然な動作で登夢の首に細い右手を回し、その温もりに顔を埋める。
かつて鳳学園の廊下、倒れた消火器の前で、危なっかしい彼女を抱き上げたあの日と同じ、およそ五十センチの体格差。
あの時は、ただ彼女を救うための、無愛想で突発的な行動に過ぎなかった。
けれど、今は違う。
登夢は腕の中に収まる景の、羽のような軽さを噛み締めながら、一歩、また一歩と、病室へと続く回廊を歩み始めた。
(……あの時と、同じだな)
登夢の脳裏に、あの春の放課後の記憶が鮮やかに蘇る。
あの日の抱擁は咄嗟の「救出」だったが、今日の抱擁は、彼女と共に歩む未来への静かな「誓い」だった。
テラスの外では、伴隆や冬華、そして未来が、その背中を静かに見守っていた。
もう、避けるべき火種も、二人を阻む影もここにはない。
登夢は、腕の中で眠る景の額を自らの顎で優しく押さえるようにして、黄金色に輝く廊下を進んでいった。
**手のひらの古傷は、もう疼いてはいなかった。
**ただ腕の中にある『光』の温度だけが、登夢の心を満たしていた。
不浄な石ころがすべて掃き出された神戸の街に、本当の意味での「黄金色の日常」が、今、静かに幕を開けた。




