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修羅の厳命、影の守護

草薙邸、玄関先。

出撃のときが迫っていた。

「奥の間」の喧騒から離れた静かな一角で、草薙 治は孫を呼び止めた。

「登夢、ちょっとここにきて座りな」

治の声は、いつもの穏やかな、孫を甘やかす時のそれだった。

だが、ライダースジャケットに身を包んだ草薙 登夢が大人しく膝をつくと、彼女は孫の節くれだった大きな手を、自らの小さく細い手で包み込んだ。

「あたしゃ、草薙の跡目とかそんなことは関係ないんだよ。とにかくあんたが心配なんだ。……もう危ないことはやめておくれ」

登夢は無言で、祖母の潤んだ瞳を見つめ返した。

その瞳に宿る深い悔恨を、彼は知っている。

「……わかってるよ。それでも行かなきゃダメなんだろ。だから、これだけは約束しておくれ。ちゃんと帰ってきておくれ」

治の指先に、力がこもる。

「爺様(明)は、どんな戦場からも、いつだって帰ってきてくれた。……けれど、あんたのお父さんは……。あたしゃもう、子供が帰ってこないのはイヤなんだよ」

13年前、実子である草薙 元を失った痛みが、老婆の声を震わせる。

登夢は祖母の肩を一度だけ強く抱き寄せ、立ち上がった。

「……約束するよ、婆様」


***


玄関先。夜の闇へと消えていく登夢の背中が見えなくなるまで、治は優しく手を振り続けていた。

だが、その背中が完全に見えなくなった瞬間――小さな老婆から、周囲の空気が物理的に凍りつくような圧倒的な覇気が放たれた。

「……篠塚。南雲」

影に控えていた二人の男――篠塚 玄馬と南雲 誠司が、ビクリと肩を震わせ、反射的に直立不動となった。

治は、ゆっくりと振り返った。その瞳に宿るのは、ミステリー作家としての好奇心でも、優しい祖母の慈愛でもない。数多の死線と「修羅場」を潜り抜けてきた、草薙家の実質的な重鎮としての冷徹な光だった。

「……お前たち、分かってるんだろうね」

低い声が、プロフェッショナルである二人の男の腹の底に響く。

「『2度目』は無いからね。心してお行き」

13年前、元の死を目前にしながら、幼い登夢を救い出すのが精一杯だったあの夜の悲劇。

その重みを誰よりも知る二人は、脂汗を流しながら深く頭を下げた。

「……ハッ!!」

「それと……勘違いするんじゃないよ。『若を守るために死ね』なんて、あたしゃ一言も言ってない」

「……え?」

意外な言葉に、南雲が顔を上げる。治の瞳には、鬼のような形相と、それゆえの巨大な愛が渦巻いていた。

「……必ず、生きて帰ってきなさい。あの子(登夢)はね、優しすぎるんだよ。もしお前たちがくたばってみな。あの子はまた、自分を責めて心を壊しちまう。……いいかい」

治は、二人を射貫くように言い放った。

「登夢をこれ以上悲しませたら、あたしゃ承知しないよ。……死ぬ気で守って、死に物狂いで生きて帰んな!!」

「「御意ッ!!!!」」

二人の武人の咆哮が、深夜の草薙邸に響き渡った。

老婆の祈りと修羅の厳命を背負い、草薙の「影」たちは、次世代の「光」を追って夜の闇へと滑り出した。


***


草薙邸・奥の間(作戦指令室)。

激しい怒声を上げた後の静寂が、かえって重く部屋に立ち込めていた。

モニターの明かりだけが青白く照らす中、草薙 昭は、先ほどまで登夢の襟を整えていた自分の手を見つめ、静かに口を開いた。

「……お義母様。登夢がこの家に来た日のこと、覚えていますか?」

隣に座る草薙 治は、数珠を握る手を止め、遠い目をして頷いた。

「ああ……。雪の降る、とても寒い日だったね」

「はい。あの事件の知らせを聞いて、私はわけが分からなくて……。たいらなるが生まれて、まだ間もない時でした」

昭の脳裏に、人生で最も過酷だったあの日の光景が鮮烈に蘇る。

実の姉であるのどかを、そして義兄であるはじめと義姉のあやを一度に失った絶望。

「病院から家に帰ってくると、南雲さんに連れられたあの子が、玄関で待っていたの。……ほっぺを真っ赤にして、小さな両手をぎゅっと握りしめて」

昭の声が、かすかに震える。

「その姿を見た時、あの子は全部、何が起きたのか分かっているように思えて……。いじらしくて、愛おしくて。ああ、この子は私たちの子なんだって、そう思ったんです。平や成と一緒に、あの日、私たちの家族として生まれてきたんだって」

昭はモニターに映る、夜の神戸の街を映し出す監視カメラの映像を見つめた。そのどこかに、今まさに命を懸けて走っている息子がいる。

「あの日、誓ったんです。この子をどんなことがあっても守らなきゃいけないって。……なのに、今、あの子をあんな危険なところに送り出さなきゃいけない。……何故なの? どうしてあの子ばかりが……」

昭の瞳から、こらえきれない涙が零れ落ちた。

聖母のように穏やかで、最強と謳われる彼女も、今はただ一人の母であった。

「あの子は何も悪くないのに。三歳の時にこれ以上ない悲しみを背負わされて、ようやく手に入れた穏やかな日常まで汚されて。……どうしてまた、修羅の業を背負わなきゃいけないの? 私は嫌。もうこんな思いはたくさん……!」

治は、嫁の震える肩をその小さく力強い手で包み込んだ。

「昭さん……。わかるよ、あんたの気持ちは痛いほどね」

治はモニターの片隅で点滅する、登夢のドカティのGPS信号を見据えた。

「でもね、あの子は自分でそれを選んじまったんだ。復讐のためじゃない。景ちゃんという『光』を守るために、自らの意志でその手を汚す覚悟を決めた」

治は数珠を強く握り直し、覇気を湛えた瞳で昭を見つめた。

「あの子はもう、守られるだけの子供じゃない。草薙の男として、一人の男として、自分の足で立ち上がったんだ。……だから、昭さん。私たちにできることをするしかないよ」

昭は涙を拭い、ゆっくりと顔を上げた。

悲しみは消えない。

だが、母としての覚悟が、再び彼女の瞳に静かな火を灯した。

「……そうですね。あの子が帰ってくる場所を、私たちは守らなければ」

昭は端末に向き直り、素早い手つきで指示を打ち込み始めた。

南雲班へのバックアップ、海上ルートの封鎖状況の確認。

そして、登夢が帰還した際の医療チームの手配。

「平、成。……あなたたちの兄さんは、本当に格好いいわね」

二人の女性は、再び「草薙の司令塔」へと戻った。

愛する息子が、全ての因縁を断ち切り、黄金色の光の中へと帰ってくるその瞬間を信じて。

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