影の盟約、黄昏の異人館
神戸、異人坂の最上部。
急勾配を上り詰めた先に、その高級中華料理店は城砦のように鎮座していた。
白塗りの下見板張りと赤い煉瓦の煙突――明治の異人館が放つ独特の威圧感は、ここが法の支配の及ばぬ「聖域」であることを無言で告げている。
案内された応接間は、上海の租界時代を彷彿とさせるアール・デコ様式で統一されていた。
真鍮の鈍い光を放つ幾何学模様の照明が、深い黒漆の円卓に円形の影を落としている。
ジャスミンの香る湯呑みから、細く湯気が立っている。
先に口を開いたのは、草薙家当主――草薙 明だった。
「……王僑領。遠いところを、よう来なさったな」
中華街の重鎮、王子龍は、ゆっくりと頭を下げた。
深く、静かに。その動作には、かつてアジアの闇を統べた王としての、飾りのない重みがあった。
「本来なら、このような形でお目にかかるべきではなかった。だが……私の不始末が、あなたの血筋に――子供にまで及んだ」
一瞬、室内の空気が氷点下まで下がったかのように重くなる。
隣に座る草薙 正が、わずかに視線を伏せた。
握りしめた拳が微かに震えているが、彼は何も言わない。
明は、王をじっと見据えたまま、問いだけを投げた。
「……不始末、とは?」
王は迷わず答えた。
「K-UNIT。あなた方が、かつて切り捨てた“異端”です。彼らは国外へ逃れ、わが組織の一部――新興の中華系マフィアの庇護下で生き延びた」
正の指が、ぴくりと動いた。
13年前、自分の兄である元……登夢の実父を奪った忌まわしき名の再来に、内なる修羅が疼く。
「……そして、私の“同胞”が、彼らを使った。ブートレグ(生体兵器)を闇市場の『商品』として売りさばき、勢力を広げるために。そのデモンストレーションとして、子を攫い、この街の秩序を揺さぶった」
明は、ふう、と短く息を吐いた。
「……愚かなことを」
その一言に、怒りはない。
ただ、断定があった。
王は、さらに深く頭を下げる。
「登夢殿と景殿が、命を賭してそれを止めた。……私は、それをスモークガラスの向こうから“遠くから”見ていただけでした」
正が、低く問いかける。その声には地を這うような殺気が混じっていた。
「……それで? 今さら、何の用だ」
王は顔を上げた。
その瞳には、慈愛を塗りつぶすほどの冷徹な「掃除」の意志が宿っていた。
「謝罪に来ました。……承知しています、言葉で済む話ではないことは。だから――清算を行います」
明が、初めて視線を細めた。
「清算、とは?」
王は、はっきりと言い切った。
「K-UNITのパトロンとなった組織。その指示系統。資金源。関与した者、すべて――私の名で、“粛清”します」
正の表情が、硬くなった。
「……それは、貴殿の世界を削ることになる。自らの手足を斬るも同然だぞ」
「ええ」
王は、わずかに微笑んだ。
その笑みは、凍てつく宣戦布告のようでもあった。
「だが、子供を巻き込み、恩人の血を商品の価値に変えようとした時点で、彼らはもはや“私の世界”の住人ではない。不浄な石ころは、掃き出すのみです」
沈黙。
湯呑みの湯気だけが、ゆらりと揺れる。 やがて、明が重い口を開いた。
「……遅かったな」
王は、その言葉を真正面から受け止めた。
「はい。それは、否定できません」
「だが」
明の声が、さらに一段低くなる。
「……子供に、血を見せるな」
王は、深く、深く頷いた。
「それが、私の望みでもあります」
正が、ゆっくりと顔を上げた。
「登夢には?」
「何も知らせません。名も、影も、業も。彼は、もう十分に戦っています。あの子には、あの娘が灯す『帰る場所』がある。そこを汚させはしない」
正は、しばらく黙ってから、小さく、しかし確かな声で言った。
「……そうだな」
明は卓に手をつき、立ち上がった。
「ならば、話は終わりだ。……王僑領。この街からゴミの一つも残さぬ」
王も立ち上がり、最後の一礼をした。
去り際、その背に向かって、明が静かに告げた。
「……孫たちは、もう私たちの背中を見ていない。傷を負いながらも、“前”だけを、光だけを見ている」
王は一瞬だけ目を閉じ、誇らしげな、そしてどこか寂しそうな表情を浮かべて答えた。
「ならば――私たちは、影になりましょう」
異人館の重厚な扉が閉まり、二つの勢力の首領たちは、それぞれの「修羅の道」へと戻っていった。
子供たちが歩む黄金色の日常に、二度と黒い影が差さぬように。




