修羅の沈黙、凍てつく宣戦布告
神戸中華街・王家私邸「奥の間」
その部屋は、中華街の喧騒から切り離された、墓所のような静寂に包まれていた。
壁に掲げられた「義」の一字の下。
中華街の重鎮・**王子龍(王僑領)**は、目を閉じたまま、指先で数珠を一つ、また一つと繰っていた。
「……老師。海岸通りでの強襲事件、詳細が入りました」
影のように現れた懐刀、**燕 凛**の声に、王の指が止まる。
新興の中華系マフィアがK-UNITをパトロンとして飼い慣らし、生体兵器「ブートレグ」を闇市場への『商品』として売り込むためのデモンストレーションを画策していることは、王も掴んでいた。
「若造どもが……わしの庭を、血生臭い商い(ビジネス)の場に変えるか。静観も、毒にしかならんな」
王の声は低く、平坦だった。
自らが命じた『静観』が、結果として街の秩序を歪めていることへの、首領としての静かな不快感であった。
「犠牲者が出たそうだな、凛」
「はい。一般車両を巻き込んだ強襲により、数名が負傷。山崎総合病院へ搬送されました」
「一般人を巻き込むとは。凛、これ以上街の雑音を野放しにできん、早急に処理を頼む」
凛は沈痛な面持ちで、一枚のメモを差し出した。
「……これが、被害者のリストです」
王は何気なくその紙に目を落とした。
だが、最上段に記された名を見た瞬間――老いた重鎮の周囲から、一切の「音」が消えた。
『岸本 景(17) 右肩貫通銃創、緊急搬送』
王の指先で、数珠が「……ミシリ」と、悲鳴のような音を立てた。
脳裏をよぎるのは、数ヶ月前の黄金色の放課後。
スモークガラスの境界線の向こう側で、負傷した登夢を健気に支えて笑っていた、あの『光』そのものの少女の姿だった。
(……あの日、わしは『光』を濁らせぬことが報恩だと信じた。影の住人が近づかぬことこそが、彼女を守る唯一の術だと……!)
だが、その『静観』という名の傲慢が、彼女を二度までも地獄に引きずり込んだ。
新興マフィアどもは、老師の恩人の血を、自分たちの「商品のデモンストレーション」という下劣な目的のために利用したのだ。
数秒の、完全な沈黙。
だが、凛はその沈黙に、肌を切り裂くような鋭利な殺気を感じ取った。
部屋の温度が物理的に数度下がったかのような錯覚さえ覚える。
「……凛よ」
王の口から漏れたのは、地獄の底で氷が砕けるような、低く、掠れた呟きだった。
手にしていたメモは、握りつぶされることさえなく、老師の指の間で音もなく塵のように崩れていく。
「わしの不明であった。報恩と称して目を逸らしたわしの臆病が、あの娘の歩む道に、これほど汚らわしい石ころを放置させたのだな」
王はゆっくりと顔を上げた。その瞳に宿るのは、燃え上がる炎ではない。すべてを無に帰す、底知れぬ深淵のような「闇」だった。
「……今すぐ病院へ向かえ。『草薙』に、わしの名代として伝えよ」
王は立ち上がった。
その動作には一点の乱れもなく、恐ろしいほどの静寂を纏っていた。
「『王家は、自らの不明を恥じる。落とし前は、我ら自身の手でつける。……明朝、草薙の庭(異人館街)にて会談の場を』とな」
王老師の瞳から、もはや人間としての色は消え失せていた。
あるのは、恩人の日常を『商品価値』に変えようとした不浄なゴミどもを、一族郎党、歴史の表舞台から完全に抹消するという、極冷の殲滅意志だけだった。
「……一人も残すな。この街から、奴らの痕跡をすべて『消毒』してこい。……行け」
「……御意」
燕凛は、主が放つ圧倒的な「静かなる怒り」に戦慄しながらも、深く一礼し、影のように消えた。
夜の中華街。古き王の沈黙を破ったのは、慈悲を切り捨てた修羅の、静かなる絶滅の宣告だった。




