絶望の十字路、修羅の胎動
深夜、山崎総合病院・集中治療室(ICU)前ロビー。
無機質な廊下には、手術中を示す赤いランプが血の色のように灯り続けている。
ベンチに深く頭を抱え、震える指先を組む汐見 円。
壁に寄りかかり、地を這うような殺気を放ちながら目を閉じる草薙 大。
そして手術室の扉を祈るように見つめる谷神 未来。
彼らの衣服には、現場で浴びた焦げた匂いと、守りきれなかった少女たちの血痕が残っていた。
その時、エレベーターの扉が重く開き、複数の足音が静寂を乱した。
現れたのは、草薙家保安部によって急送された今沢 緑、杠葉 かれん、赤紙 燃。
美術準備室で「13年前の真実」を突きつけられた直後の彼らにとって、この光景はあまりにも過酷な「現実」の続きだった。
「……大さん。恭子ちゃんと、景ちゃんは……!」
今沢先生の声に、大がゆっくりと目を開ける。
「今沢先生、……来てくれたのか。恭子ちゃんと景ちゃんは、まだ山場だ。……環先生(伴隆の母)たちが全力を尽くしている」
「シャケも、……まだ意識は戻っていない」
「シャケまで……? 嘘だろ」
燃が絶句し、ヘッドホンを握りしめる手に力がこもる。
悪友であり、共に事件を解決してきた親友の重体。
燃の瞳には、かつて母を奪われたあの日と同じ絶望と、それを塗りつぶすほどの激しい憤怒が宿った。
その隣で、かれんは膝から崩れ落ちそうになるのを燃に支えられた。
彼女の瞳には、13年前の両親の最期とICUの赤いランプが重なり、拭い去れぬ「影」が色濃く落とされていた。
そこへ、硬質なヒールの音が廊下に響き渡った。
現れたのは、チャイナドレスにジャケットを羽織った、冷徹な美貌の女性――中華街の重鎮、王老師の懐刀・**燕 凛**。
大が鋭い威圧感で凛を睨みつけるが、彼女は怯むことなく深々と一礼した。
「……中華街の王老師の名代として参りました。主は深く悔いております。……景様を、防げなかったことを」
凛は、懐から一枚の封書を取り出し、恭しく大に差し出した。
そこには、達筆な文字で**『草薙家 御中』**と記されている。
「我が主は、深く悔いております。
ご子息たちが傷つくのを、防げなかったことを」
「……どういう意味だ?」
「手術室にいる……岸本 景様のことです」
凛は、痛ましげに手術室の扉へ視線を向けた。
「彼女は、老師にとって……孫の命を救った、かけがえのない恩人なのです」
その言葉に、その場にいた全員が息を呑む。
景が、中華街のトップの恩人だったとは。
「我々は、K-UNITの暴走を知りながら、恩人を巻き込まぬよう静観しておりました。
ですが……それが最悪の結果を招いた」
凛は再び頭を下げる。
「老師は、自らの不明を恥じております。
……つきましては、明日の夜明け前。
**草薙家の庭(異人館街)**にて、会談の場を設けさせていただきたい」
本来なら、呼びつけるのがマフィアの流儀。
だが、あえて相手の懐(異人館)に出向く。
それは、全面降伏に近い「最大の誠意」だった。
大は、封書を受け取り、短く言った。
「……爺(明)と親父(正)には、俺から伝える。……王に伝えろ。『手ぶらでは帰さんぞ』とな」
それは、「必ず協力させる(同盟を結ぶ)」という承諾の言葉だった。
凛は、微かに安堵の表情を見せ、再び深々と一礼した。
「感謝いたします。
……どうか、皆様のご無事を」
立ち去ろうとする凛を、円が震える声で呼び止める。
「……待ちなさい」
円は、震える手でベンチの背を掴み、立ち上がる。
「……中突堤の倉庫街事件。
あれは、ただの誘拐未遂じゃなかったっていうの?」
警察の記録では「不良グループによる拉致未遂」として処理されていた。
だが、被害者である登夢や景の口からは、具体的な詳細が語られることはなかった。
円の中で、ずっと引っかかっていた違和感。
凛は足を止め、振り返ることなく答えた。
「……ええ。
あの日、誘拐犯として現れた男。
登夢様が命がけで撃退したその男は……『人間』ではありませんでした」
「……は?」
円の思考が停止する。
「正確には、『ブートレグ(海賊版)』。
K-UNITが廃棄したはずの、筋肉と神経を薬物と機械で改造された、失敗作の生体兵器です」
ブートレグ。
聞き慣れない、しかし禍々しい響き。
「奴らは痛みを感じず、骨が折れても動き続け、常人の数倍の筋力を持ちます。
……登夢様と景様は、そんな化け物と、暗闇の中で対峙していたのです」
凛は、ゆっくりと円の方へ向き直った。その瞳は冷ややかで、真剣だった。
その悍ましい響きに円が息を呑んだ瞬間、横から今沢先生が絞り出すような声を出した。
「……やはり、あの日(13年前)の続きなのね。
奴らは痛みを感じず、骨が折れても動き続ける。
……人間としての感情を焼き切られた『兵器』よ」
元研究員である今沢先生の証言は、ロビーにいる全員の心に、底知れない恐怖と怒りを刻み込んだ。
「円様。貴女が追っているのは、暴走族でもマフィアでもありません。
**『人の形をした兵器』を平然と街に放つ、狂気の研究機関そのものです」
円は、殴られたような衝撃を受けた。
(……嘘でしょ)
脳裏に、数日前の未来との会話が蘇る。
『私の生徒の周りでも、不穏な空気が漂っています』
『相手は、昔の暴走族とはわけが違う』
そして、今日。
妹・恭子を襲った、あの黒いAMG。
物理法則を無視した加速。
普通の人間なら即死するような衝突を平気で行う狂気。
(あいつら……中身も車も、全部イカれてたってこと……?)
円の背筋を、冷たい汗が伝う。
妹は、そして登夢や景は、ずっとそんな「非日常の怪物」**の視線に晒されていたのだ。
「……ミラーシェード」
大が、低く呟いた。
「奴らが目を隠すのは、表情を隠すためじゃない。
改造された瞳(あるいは薬物で変色した眼球)を、一般人に悟られないためだ」
「……ッ!!」
円はハッとして大を見る。
大は知っていたのだ。
あるいは、薄々感づいていた。
「……なんてこと」
円はその場に力なく座り込んだ。
恐怖ではない。
化け物相手に、子供たちだけで戦わせてしまったことへの、どうしようもない悔恨。
「……嘘でしょ。あの時の『迷子』と、登夢くんの『両親を殺した奴ら』が同じだって言うの!?」
「じゃあ、あの子たちは……最初から、とんでもない化け物に狙われてたってこと……!?」
「……登夢くんは、そんなのと戦ってたの……?景ちゃんを守るために……たった一人で……」
円の拳が、白くなるほど強く握りしめられる。
爪が掌に食い込み、血が滲む。
「……許さない」
円が顔を上げる。
その瞳から、迷いや動揺は完全に消え失せていた。
あるのは、怪物を狩るための、冷徹な狩人の光。
「……化け物だろうが、兵器だろうが関係ない。
私の妹と、大事な子たちを傷つけた落とし前……。
人間の恐ろしさを、その改造された脳髄に刻み込んでやる!!」
凛は、修羅へと変貌した円を一瞥し、満足げに頷いた。
「……その意気です。
では、明朝、**草薙家の庭(異人館街)**にて会談の場を。……良いお返事を、お待ちしております」
凛の足音が遠ざかる。
円は、ベンチに座り込んだまま、呆然と虚空を見つめていた。
「……そうか。やっと、わかったわ」
円が、乾いた笑い声を漏らす。
「……円?」
大が怪訝そうに眉をひそめる。
「最初におかしいと思ったのよ。
登夢くんの過去を調べた時……あの中突堤の事件だけ、**『特S級閲覧制限(アクセス不可)』がかかってた」
円の脳裏に、PC画面に表示された「ACCESS DENIED(アクセス拒否)」**の赤い文字が蘇る。
未成年の被害者保護のためか、あるいは公安案件かと思っていた。
「……違ったのね。
被害者の保護なんかじゃない。
『ブートレグ』の正体を隠すためだったんだ」
円の声が、怒りで低く唸る。
「警察も手が出せないなら……これからは、私自身の正義で動く」
「……ああ。それでこそ、円だ」
「……うるさいわね」
円は涙を拭い、強く前を向く。
「……中華街だろうがなんだろうが、使えるものは全部使う。
そして、腐った連中を全員……地獄の底まで引きずり落としてやる!!」
再び重苦しい沈黙がロビーを支配したその時。
窓の外から、夜の静寂を切り裂くような二台の鉄馬の咆哮が近づいてきた。
レッドゾーンまで叩き込まれたドカティとゼファーの排気音が、病院の建物を物理的に震わせる。
「……登夢」
大が呟くと同時に、ロビーの全員が入り口へと視線を向けた。
今、まさに最悪の悲報を聞かされようとしている若き継承者たちが、修羅の待つ戦場へと滑り込もうとしていた。




