エピローグ
翌日の朝。
工房でひと仕事を終えたあとでアカデミーに向かおうとすると、廊下の途中でシンとばったり出くわした。
たまには散歩へ行かないか――歌うように誘う声。
普段ならしかめっ面を浮かべて断ったはずだ。
しかし今日にかぎっては、アルフレッドのほうもこの男に話しておきたいことがあった。ある意味では錬金術の実験よりも日課のチョコレート作りよりも、早めに片づけなければならない問題が残っているのだ。
冬とあって外は肌寒かったが、そのぶん空気が澄んでいる。
ひさしぶりの穏やかな朝だ。
失踪した友人を探すこともなければ、命を狙われる心配をすることもない。
嵐のようにめまぐるしく過ぎ去った日々を思うと、なにごともない時間というのが最上の幸福なのではないかとさえ思えてくる。
もっともすぐにまた波乱が訪れるだろうが。
あるいはその前に、自ら飛びこんでいくかもしれない。
平凡な生活を、退屈に感じて。
「君が作ったチョコレートを口にしてから、失われた記憶についてずっと考えていた。聖ハナーン祭のような鮮烈な出来事はなんとか思いだすこともできるが、君とどんなふうに言葉を交わしただとか、どう感じたかになると、まるで虫に食われたかのようにすっぽりと抜け落ちている。そして思いだそうとすればするほど、胸の奥がちくちくと痛んでくるのだ」
「別に忘れたままでいいんじゃねえの。お前にとっちゃたいした『価値』もないだろ」
「本気で言っているのだとしたら、君は吸血鬼に負けず劣らずの人でなしだな。たとえ迷惑に感じていたとしても、私にとっては『本物』の感情だったのだ。ならばこそ価値がないなどと決めつけないでおくれ。ほかでもない、アルフレッド・ワーグナーが」
返事はしなかった。
俺はお前との思い出に『価値』なんて感じちゃいない。
どうせまたろくでもないことをやらかすだろうし、そのたびにうんざりするのは目に見えているのだから。
ただ……相手が忘れているのに自分だけ覚えているというのも、それはそれで釈然としないところはある。
究極のチョコレートを作りあげてこのクソ野郎が最高の終わりとやらを迎えたとき、日頃の恨みつらみを吐き捨てようにも「はて?」と返されたら手応えがない。
だとすればやはり失われた記憶のほうも、取り戻してやるための努力をするべきだろう。
そのうえで地獄に蹴落としてやれば、さんざん不愉快な思いをさせられてきた溜飲だって下がるというものだ。
「俺は俺で、なんでお高くとまった吸血鬼様が人間ごときを特別視するのかを考えていた。天才だから。チョコレートを作る腕前があるから。レオナルドにしたってそうだったんだから、理由としちゃそんなところかもしれない。だが実はもうちょっと、根っこの部分で執着するような『なにか』があるんじゃないかとも思えてきた。それはたぶんお前が長年にわたり抱えてきた孤独にも関係することだ」
「話してみたまえ。その推測が正しいと証明するためにも」
「お前は誰かに理解してもらいたかったんじゃないか。自らの理解できない衝動を」
「すなわち――」
そこで、お互いの声が重なった。
『チョコレートだ』
結局なんだかんだ文句を吐きながら、俺はチョコレート作りに心血を注いでいる。
お前を殺すためでもあるし、お前を満足させるためでもある。
しかし一番の理由は、ほかでもない自分が味わってみたくなったからだ。
究極の、甘美とやらを。
「まったく……どいつもこいつも、チョコレートにイカれてやがる」
「それを作りだしている君が、ある意味ではもっともイカれている」
否定はしない。
だからお前は、俺という人間に執着していた。
たぶんチョコレートを作り続けるかぎり、その呪縛からは逃れられないだろう。
アルフレッドはため息を吐いた。
これからやろうとしていることを考えると、本当に気が滅入ってくる。
だが、逃げるのはやめだ。
俺らしくないし、真っ向から向かえうってこその天才だろう。
「契約をしよう、吸血鬼」
「まさか……正気かい? ショコラティエ」
「願ってもないことだろ。俺が提案しなくても、お前はその機会をうかがっていたはずだ」
言ったあとで、歯を立てて手首を切った。
前にやったところは完治していないから、今度は左のほうを。
「ファタールはまだ諦めちゃいないはずだし、ほかの怪異だって俺の命を狙ってくるだろう。なんの備えもなしってのはさすがに危ねえし、命を守る保険くらいはかけておきたい」
「もちろん。それは確かだが」
「今回なんで俺たちがしくじったかっていえば、不完全な契約のまま放置して力の在りようを歪めちまったからだ。愛情だなんだとまたおかしくなられても面倒くせえし、だったら最初から強固でケチのつけようがねえ契約を交わしちまったほうがいい」
「なるほど。実に錬金術師らしい合理的な選択だ」
吸血鬼の王はにやけ面をうかべながら、血が滴る左手にかぶりつこうとする。
アルフレッドはムッとして、無防備な頬っぺたに平手打ちをかました。
「なんで……ひどいじゃないかっ!」
「直接はだめだ。気色悪いからな」
「そんなわがままが許されると思うかい」
「お前のほうこそ勘違いするなよ。これから交わすのは主従の契約じゃない。というよりそもそも、俺たちの関係は常に対等だったはずだ」
では、どう名づけるべきか。
そんなのはとうに決まっている。
お前は覚えていないだろうが、出会ったときからずっとな。
「これは隷属ならぬ『宿敵』契約だ。俺はお前を殺すために、チョコレートを作る」
「ならば私は、最高の終わりを迎えるまで君を守ろう。愛ではなく、ただ甘美のために」
吸血鬼の王は、床に垂れた血痕を舐める。
その表情は美しく淫らに、恍惚としていた。
まるでチョコレートを、味わうときのように。
これにてシーズン2完結になります。
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