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「お館様を部屋から連れだしてこい、ですか? 侍従にすぎないぼくに無茶を言わないでくださいよ。しかもこんな夜更けに……いや、吸血鬼にとっては昼みたいなものですが」
「俺だって暇じゃないからな。たとえばチョコレート作りをいったん引きあげて、アカデミーでまた錬金術の探究をするとしてだ。何日もかけて大規模な実験の準備して、さあやるぞってときにいきなりお前が拉致ってきたりしないというなら別に今日でなくても構わん」
クリムはあからさまにうろたえる。
アルフレッドはうんざりしたような表情を浮かべたあと、甲高い声を出してこう続けた。
「はっはっは! ようやく君のことを思いだしたよ! さあチョコレートを作りたまえ! でないと私はあと数秒で爆発してしまう! ……みたいなことない?」
「あー、目に浮かびますねそれ」
「だろ? それでブチ切れるくらいならせめて自分でタイミングをコントロールしときたいわけよ。どうせ今に目をギラギラさせて――」
会話の途中で、弾き飛びそうな勢いで工房の扉が開く。
あまりのことにふたりが唖然としていると、
「チョコレートが食べたい。君が誰なのかはやっぱりさっぱり思いだせないが、我が友レオナルドに匹敵する腕前であるとは聞いている。今すぐ作りたまえ。でなければ首を刎ねる」
「ああ……そうくると思っていたさ、吸血鬼」
「嬉しそうですね。アルフレッド様」
返事の代わりにクリムの尻を蹴っ飛ばす。
そうこうしているうちにドットが修行から戻ってきたので、食堂で深夜の試食会をはじめることにした。
◇
「お前はチョコレートのことをどこまで覚えている?」
「これまでに味わった『甘美』のすべては、今でも私の脳髄に深く刻まれているよ。口にしたときの状況、香り、そして味わい……屋敷に保管されていたレシピに目を通すだけで、そのときの衝撃と感動をありありと思い浮かべることができる」
「なのに、俺と出会ってからの一年間のことは綺麗にすっぽり抜け落ちているのか?」
「不思議なことにね。たぶんなんらかの代償によるものだろう」
アルフレッドとしても同じ考えだった。
あのときのシンの意識を繋ぎとめていたのは寵愛契約、すなわち隷属者に抱いていた愛の渇望だった。
それをチョコレートの感動で上書きした結果『本来の自分』を取り戻すことはできたものの、代わりにそれ以外の記憶が失われてしまったのかもしれない。
周囲の視線を感じてか、忘却の王は紅茶のカップを傾けながら穏やかに笑う。
「そう悪い気分じゃないよ。絶対者である私が人間ごときに愛情を抱いていたなんて、やはりどこかおかしくなっていたと考えるべきところだからね。歪みは正され、本来あるべき自分に戻った。忘れられてしまった側としては気分が悪いかもしれないが……」
「いや、むしろ清々しているよ。このままぜんぶなかったことにしちまっても構わんさ」
「ふうん? 残念がっているように見えたのだけどな。クリムはどうだい」
「ぼくは寂しいですよ。アルフレッド様と過ごした一年は、お館様にとってもかけがえのない宝物だったはずですから。チョコレートと同じくらいの『価値』を感じるほどに」
シンはむっとしたような顔をする。
穏やかな空気から一転、周囲にぴりぴりとした冷気が漂いはじめる。
「チョコレートと同等の価値を持つ宝なんて、存在しない」
「申し訳ございません……。以後、口を慎みます……」
その様子を見てドットが鼻で笑う。
まさに本来あるべき王の姿だなと、嘲るように。
首なし侍従は哀れにもすっかり縮こまり、アルフレッドはシンの態度にどこか懐かしい空気を感じていた。
思えば最初に究極の『甘美』にいたるチョコレートを提供したときも、しくじれば命を刈り取られかねないような緊張感があった。
それがいつのまにか定期的に催される楽しい試食会に変わっていた。
アルフレッドには相手を満足させうる作品を生みだせるという自信があり、対するシンもチョコレートの出来に並々ならぬ期待を抱いていた。積み重ねてきた『成功体験』によって、両者の間に信頼ともいうべき安心感があったわけだ。
しかし吸血鬼の中からこの一年の記憶が抜け落ちたことによって、本来あるべき挑戦の姿が甦りつつある。
チョコレートの仕上がりに満足できなければ、事前の宣告どおりアルフレッドの首は床に転がることになるだろう。甘美に対する飢餓感からか短絡的に『死』で脅しをかけてくるあたり、隷属契約を持ちかけてきた前回よりなお悪い。
おまけにチョコレートにまつわる記憶だけは、ばっちり残っているわけだ。
ぜんぶ忘れているなら過去に提供したレシピを流用する手もあったが、カカオの『可能性』を味わいつくした舌を持っているとなると、やはり今できる『究極』を提供する以外に手はないだろう。
――そうでなけりゃ、面白くないしな。
契約が再び破棄されて自由の身となり、なおかつ吸血鬼の王が自分のことをすっかり忘れている状況下にあって、なぜ逃げなかったのかという理由はそこにある。
チョコレート作りを心の底から楽しんでいて。
最大の強敵であるシンをあっと驚かせて。
拍手喝采を浴びながら、殺してやりたいのだ。
「そうだぜ、吸血鬼。俺たちの間に必要なのはチョコレートだけさ」
「ならばよろしい。ではさっそく、君が作る『究極』とやらを提供してもらおうか」
待ってましたとばかりに、クリムが準備をはじめる。
しかし卓に置かれたのはフルーツの盛り合わせだけ。期待に満ちたまなざしを向けていた吸血鬼は一転して眉をひそめる。肝心のチョコレートがどこにもないのだから無理もない。
とはいえ、主役は遅れてやってくるものだ。
アルフレッドがパチンと指を鳴らすと、食堂の隅っこに隠しておいた荷台をドットがガラガラと運んでくる。
うえに載っているのは尖塔のような形をした金属製の『装置』だ。
「ずいぶんと大がかりな代物だね。まさか錬金術の実験をはじめるわけではあるまいな」
「いいや。今からここにチョコレートを流す」
「……なんだって?」
シンは驚きのあまり目を剥いた。
スイッチを入れると、中央の装置はブゥーンと音を立てて動きだす。
アルフレッドはそこに、備えつけの電熱機で温めておいたチョコレートを注いでいく。
どろどろの液体は銀色に輝く突起の表面を包みこむように流れはじめる。
その姿はさながらチョコレートの『噴水』だ。
次に使うのは長い串。フルーツを適当に選んで刺したあと、噴水のような装置にくぐらせる。
表面がカカオの膜に包まれたところで、串にかじりつくようにして口に運ぶ。
「名づけてチョコレートファウンテン。今回ご用意したのは究極の逸品ではなく『体験』だ。お前は自らの手で甘美を選びとり、完成させることができる」
「つまり私にも、同じことをやれと」
「創意工夫が苦手な吸血鬼様にも、組み合わせを考えるくらいはやってもらおうかなと思ってな。意外な食材がマッチするかもしれないし、失敗したらしたで『うへえ!』と騒いで笑い飛ばしゃいい。それにこのやりかたなら、冷えて固まる前のディップだって楽しめる」
「なるほど。確かにそれは魅力的な提案だね」
シンは椅子から立ちあがるとフルーツを吟味し、自分なりの組み合わせで串に刺しはじめた。
そしてカカオの噴水にくぐらせ、横笛を吹くときのような手つきでかじりつく。
直後、感嘆の声。
「不思議だな。ただチョコレートを絡ませただけなのに」
「そこに新鮮な『体験』が乗っているから、より美味しく感じられる」
「然り。思えば、聖ハナーン祭のときもそうだったな」
吸血鬼は感慨深そうに呟く。そのあとで、はっとしたような顔をする。
アルフレッドとしても相手がそこまで覚えていることは驚きだった。
とはいえチョコレートにまつわる記憶だけは残されているのだとすれば、そこに付随する『体験』が頭の隅っこにこびりついていたとしても不思議はない。
聖ハナーン祭で味わったミントチョコレートの『感動』は、コンテストという状況下での高揚や一体感、そして空から降ってきたときの衝撃と切っても切れない関係にある。
だとすれば案外、この男はすぐにこの一年間の記憶を取り戻してしまうかもしれない。
思い返してみれば俺たちがやってきたことなんて、ほとんどがチョコレート絡みなのだから。
「お前はもはや自分で語ったことすら覚えちゃいないだろうが、甘美ってのは『体験』が重要なんだとよ。もちろん作品単体の味わいを深く追求していくやりかたもあるだろうが、俺としちゃひとりで黙々と作っていても楽しくねえ。渡されているほうだって感想を語りあう相手がいなけりゃ、口にしたときの喜びが半減しちまうだろ」
アルフレッドはそのあとでこう続ける。
「この世でもっとも『価値』があるのはチョコレートだ。しかし甘美として楽しむうえでは、ほかのあらゆる要素も極上のスパイスとなりうる。わかりやすく言うなら、ひとりきりの食卓は味気ないってことさ。俺の場合、実家のメシは最悪だったな」
「私としてはできれば静かなところで味に集中したいのだけどね。とはいえたまにはこういう催しも悪くはないか。これまでにない新鮮さというのは間違いなくあるだろうから」
「チョコレートファウンテンにせよ、ひとりでちまちま串に刺して絡ませてってやっていても楽しくもなけりゃ美味くもねえだろう。やっぱりこういうのはみんなでワイワイやってこそだ。なあ、ドット」
「俺もやっていいの? 一応邪魔しちゃ悪いと思って我慢していたけど」
「普段から頑張っているぶんのご褒美は必要だろ」
「構わんさ。感動のお裾分けは望むところだよ。クリムも――」
「食べられませんけど、お館様の許可をいただけるなら試してみたくはあります」
そんなわけで揃って、チョコレートファウンテンを楽しむことにする。
アルフレッドは菓子職人ではなくあくまで錬金術師なのだから、あっと驚くような仕掛けを用意するほうが得意である。
それにファタールとの一件を経てシンが孤独を抱えていることは知っていたので、こんなふうに大勢で喜びを分かちかうことによってよりよい『変化』が現れるのではないかと考えていたわけだ。
ところが最初こそシンもワイワイガヤガヤと楽しんでいたが、次第に不機嫌そうというか釈然としていないような表情になってくる。
アルフレッドは首を傾げながらその様子を眺めていたものの、やがて納得したように呟いた。
「お前はなんでもかんでも独り占めにしないと気が済まないらしいな」
「当たり前だろう。私は生まれながらの王なのだから」
だとすれば、もう二度とあんな姿になってほしくないところである。
お前に分け与える愛情なんて、ひと匙ほどもないからな。




