5−5
それは一瞬の出来事だった。
黒い獣は猛烈な勢いで突進してくる。
血まみれの手首にしか目がいってなかったから、人間ごときの反射神経でもなんとか躱すことができた。
もっとも無様にごろごろ転がるはめになったが、迎えうつにはベストな位置を取れたからよしとしよう。
計算違いだったのは、手首を深く切りすぎて感覚がなくなってきたことだ。
残ったほうの左手は使えるものの、ルヴィリアを丸ごと火の海に変えられる化け物相手に片腕で応戦するのは無謀にもほどがある。
黒い獣は姿を変え、背中とも尻とも言えない位置から無数の触手を伸ばしてくる。
あっという間に縛りあげられた。巨大な頭が手首にかぶりつこうとしている。
アルフレッドは抵抗しなかった。
が、かぶりつかれた瞬間に思いっきり前に体重を乗せる。犬に噛まれたときの対処法だ。
黒い獣はげっと吐きだした。
俺の手首はどんな味だ? 美味いとは思えねえけどな。
また、笑いそうになってしまう。
いよいよ頭がおかしくなってきたのかもしれない。
俺が欲しいか?
血が欲しいのか? それとも愛が欲しいのか?
だったらぜんぶ、試してみろよ。
『アル――フレッ――ドォオオ!』
黒い獣は馬乗りになり、頭からかぶりつこうとする。
今度もあえて抵抗しなかった。
しかしその口もとには、転がったときに拾っておいた板チョコレートが咥えられている。
喜べ。ショコラティエ様からの口移しだぞ。
今を逃したらもう二度と、殺されたってやらないからな。
そのうえで、自信を持って告げてやる。
お前が欲しいのは、アルフレッドじゃない。
――チョコレートだろ? クソ野郎。
◇
ルヴィリアの破滅は阻止された。
シンはチョコレートを貪った。口移しされた板チョコレートも、床に転がったままのトリュフも拾い食い、潰れて泥の塊のようになったオペラでさえ、ぺろりときれいに平らげた。
吸血鬼の王にとってもっとも『価値』があるものがなんであるかを思いだし、暴走することなく本来の自分を取り戻したのである。
しかし、すべてが元どおりになったわけではない。銀髪の貴公子は恍惚の表情を浮かべたあと、手首から血を垂れ流しながら笑っているアルフレッドに目を向けた。
それから不思議そうな顔で、こう呟いたのだ。
「誰だい、君は?」
◇
がちゃん。鍋が床に落ちる。
どろどろに溶けたチョコレートが血だまりのように広がっていく。
アルフレッドは何度目かのため息を吐き、ドットに掃除道具を持ってこいと告げた。
手首を深く切ったせいで、いまだに握力が戻らない。
調子を取り戻すまで今しばらく時間がかかるだろう。
そもそも俺はなぜ、こんなところでこんなことをやっているのか。
「逃げなかったことを後悔しているのですか」
「お前は自分の行動が理解できなかったことはあるか? クリム」
「ぼくなりに仮説を立ててみましょう。ひとつ、俺は約束ごとを途中で投げだすような無責任な人間ではない。ひとつ、あいつのことだからどうせすぐに思いだすに違いない。今さらばっくれたところで前みたいに拉致られるのがオチだ。ひとつ、長くいっしょにいすぎたせいで情が移っちまった。やれやれ」
「可愛い弟子のために今後もチョコレート作りを続けよう……って線もあるぜ。あーでもそれだったらわざわざルヴィリアに残ることもねえな。いっそ忘れられているうちに町の外に逃げだしちまうってのも手だ。なんなら今からオレと駆け落ちしちゃう?」
無言で尻を蹴っ飛ばす。ドットは犬みたいにギャンと鳴いた。
「八つ当たりすんなよ! 最近ずっとイライラしてんじゃん」
「してねえよ。なんならかつてないほどご機嫌だぞ。あのクソ野郎は俺のことをけろっと忘れて、ついでに寵愛契約も破棄された。おかげで晴れて自由の身ってわけだ」
「でしたらなぜ、今のうちに逃げださないのですか」
アルフレッドは黙りこむ。最初の問いに戻ってきたな。
お前は自分の行動が理解できなかったことはあるか? クリム。
「あのクソ野郎はどうしている」
「今日は気分がすぐれないとのことで、自室に引きこもっておられます」
「最近ずっとその調子だな。記憶を失った影響か」
「かもしれません。アルフレッド様と出会ったころから今日までのことをほとんどお忘れになっているようですから、お館様なりに思うところがあるのでしょう。一応ぼくのほうで経緯をざっとご説明しておきましたが……なんというか、あまりピンときてないようで」
「たとえば、どんなふうに?」
「――私が人間を愛した? お前がそんな冗談を言うようになるとはな」
なるほど。俺としてもまったく同感だよ、吸血鬼。
今になっても信じられないくらいだからな。無償の愛を捧げるなんて。
しかし生きていれば、自分の行動が理解できないなんてことはざらにある。
焦って、不安になって、優先順位を履き違えて。
それでとんでもないヘマをする。
人間ごときを助けようとして、危うくチョコレートのことを忘れそうになるとかな。
逃げるなら絶好の機会なのに、なぜか律儀にチョコレートを作っているとかもそうだ。




