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5−4

 視界が一瞬にして真っ白に染まる。

 アルフレッドが最後に聞いたのは、マダム・ファタールの高笑いだった。


 シンはもはや動けない。このままでは体をズタズタにされる――はずだったが、そうならないであろうことは予想できていた。

 寵愛契約による守護が発動し、光の刃による攻撃を相殺する。

 しかし衝撃のすべては殺しきれず、アルフレッドは紙屑のように吹っ飛んだ。


 ワイングラスが弾けたとき、飛んできたガラス片を防げなかった理由がわかった。

 この力は運命をねじ曲げて『死』を否定するが、それ以外の事象に干渉することはできないのだ。


 吹っ飛ばされたとき、そのまま入り口近くにあった階段から転げ落ちたらしい。

 今やテラスは見あげるほど高い位置にある。

 ファタールを追いかけるのは不可能だ。

 というより、今はもっと優先すべき問題があった。

 

 ぞっとするような冷気が肌をなでる。

 同時に、豪奢な彫刻が施されていた手すりが見る見るうちに朽ちていく。階段に敷かれていたカーペットの隙間から毒々しい紫色の蔦が伸びてきて、ひび割れた壁にまとわりついていった。

 シンが今どうなっているか、想像すらしたくない。


 あのクソ女……とんでもない置き土産を残していきやがった。

 やるだけやって逃げだすとは、実に上流階級らしいやり口である。

 ほとぼりが冷めたら町に戻ってきて『みんなで力を合わせて再興しましょう』だとか、涙ながらに訴えればいいと考えているのだろう。


 よろよろと立ちあがる。

 残念ながら自分には、逃げるという選択肢すら与えられていなかった。

 

 ルヴィリアが破滅すれば、アカデミーでの実績もチョコレート作りの苦労もなにもかもが瓦礫の山に埋もれてしまう。隷属から寵愛に契約が変わったとしても町の外に出られないのは変わらないだろうし、そもそも暴走したシンは地の果てまで追いかけてくるはずだ。なにせ今のあいつを苛んでいるのは甘美に対しての渇望ではなく、俺にもっと愛されたいという人間じみた欲望なのだから。

 

 ……つくづく嫌になってくるぜ。

 お前は本当に、はた迷惑な化け物だな。

 

 エーテル結晶のペンダントを握りしめ、ゆっくりと階段を上っていく。

 テラスの入り口まで近づいたところで足がどぽんと床に沈み、果物が腐ったときのような甘ったるい異臭が漂ってくる。ほんのちょっと吸いこんだだけなのによろけそうになり、体の奥がじんじんと熱くなる。

 食虫植物の香りに誘われる虫になったような気分だ。

 

 我を失ったシンの力によって、空間そのものが侵食されている。

 しかも、前に屋敷で見たときよりずっとひどい。室内のあらゆるものは禍々しい植物に蹂躙されていて、ガラス張りだったテラスの天井は数百年の時を経たように朽ちて崩壊している。


 相手の姿が見えないので視線を眼下に向けると、綺羅星城が高台に建っているからか、ルヴィリアの町並みを一望することができた。

 悪夢のような光景だった。

 空間の侵食はテラスだけではない。町のいたるところにまで進んでいる。


「楽園の、破滅か」


 ファタールが予言し、本来なら回避すべきだった未来がそこにはあった。

 蔦がまとわりついたガス灯は禍々しいエーテルの燐光を放ち、地中から湧きでてきた亡霊や妖精が周囲を漂っている。

 綺羅星城の付近にあった建物はすべて、侵食の影響に抗いきれなかったようだ。

 瓦礫と化した家屋から抜けだしてくる、住民たちの姿が見えた。

 彼らは松明を片手に構え、暗がりから迫りくる儚き怪異たちを必死に追い払おうとしている。

 今のところは大丈夫そうだが、もっと危険な連中が現れたらひとたまりもないだろう。

 

 視線を星空に向けると暗雲の狭間から黄金色に輝く竜が現れ、西のほうに消えていく。そのあとに無数の妖魔の群れが続いた。蜃気楼のような巨人が町をゆっくりと横断しようとしているのを見て、強大な怪異であるほどいち早く破滅の予兆を嗅ぎつけ逃げだそうとしているのだとわかった。


 一方のアルフレッドは、悪夢の中心に向かって歩を進める。

 空間は侵食によって間延びしていて、テラスは屋外のように広々としている。しかし本来の面影もちらほら残っていて、ファタールとやりあったときに蹴倒された円卓がそのままの姿で転がっていた。


 無力な錬金術師はふうと息を吐き、一縷の望みを賭けて近づいていく。

 ワイングラスや瓶の残骸。ファタールに奪われた銃。

 それだけではない。

 この場にあるとは思っていなかったものが視界に入ってきて、目を見張る。


 ――チョコレート。


 しかも、かつてシンに提供したものとまったく同じレシピ。

 作ったときの余りをドットが修行に行く際に手土産として持たせていたが、その一部が闇オークションに横流しされていると聞いた覚えはあった。

 無惨な姿と化したテラスの中にあっても、カカオの宝石たちはどれも完璧な姿のまま床に転がっている。超常の力で時間を止められているのだろう。


 ファタール的には秘蔵のコレクションといったところか。

 まるで天才ショコラティエの熱狂的ファンのようだが、そんな女が俺を抹殺しようとしている張本人なのだからよくわからない。


 ともあれ、今のアルフレッドにとっては銃やペンダントよりずっと心強い武器である。

 心血注いで作ったチョコレートさえあれば、暴走したシンを元の姿に戻すことだってできるかもしれない。

 おあつらえ向きに宝石箱が転がっていたので、ボロボロになっていたカフタンの裾を破いて腰に括りつける。


 オペラにトリュフ、そしてシンプルな板チョコレート。

 床に転がっているものをすべて詰めて、即席ポーチの出来上がりだ。 

 ファタールもこの場に『切り札』が残されていることは承知していただろうし、となるとルヴィリアの破滅を防ぐ手立てをあらかじめ用意しておいたと考えるべきか。


「あいつのために命を賭けろってことかよ、ちくしょうめ」


 それとも明確に「死ね」と言われているのかもしれない。

 チョコレートが手元にあるとしても、正気を失った吸血鬼の王に戦いを挑むなんて自殺行為だ。

 ペトロにすらまったく歯が立たなかったのだから、瞬殺されるのがオチだろう。

 

 だとしても、やるしかない。

 俺には最初から、選択肢なんて与えられちゃいないのだから。


 ◇

 

 暗がりを歩きながら、今のシンの状態について考える。

 吸血鬼の王は死を恐れない。むしろ自らの終わりは最高の瞬間となりうる。

 では彼らが感じる最大の恐怖とは、いったいどんなものであるのか。

 

 かつて今と同じように禁断症状から限界を迎えたとき、シンは柄にもなく意気消沈しながらこう語った。

 生き恥を晒すことこそが、人間にとっての『死』に等しい苦痛なのだと。

 シンだって体の変調に気づいていたはずだ。ファタールの攻撃からアルフレッドを守るとき、もはや寵愛契約の代償に耐えられないことだって理解していたに違いない。


 しかしあの男は躊躇しなかった。俺を失うことよりも自らが苦痛を受ける道を選んだのだ。

 たとえそれが、死よりも耐えがたい屈辱であっても。


 愛されていると自覚するのは最悪の気分だった。

 全力で拒否したいものの、一方的に結ばれてしまった契約はどうすることもできない。

 首筋に手を当てる。

 刻印からどくんどくんと、心臓の鼓動めいた力動を感じる。


 寵愛の加護はいまだ有効なようだが、吸血鬼の手にかかった場合でも発動するかもしれないと期待するのはやめておいたほうがよさそうだ。あいつの攻撃を弾き返すとしたら笑えるが、そうでなかったときはすぐさま干からびた死体に変わるはめになる。

 複雑に考える必要はない。

 できるかどうかはさておき、今からやることは実に単純だ。

 

 暴走した吸血鬼にチョコレートを食わせて、元の姿に戻すだけ。

 命を捨てる覚悟さえ決めてしまえば、シンを見つけるのは簡単だった。

 

 仮初の姿を失い、黒い獣に変貌している。

 ぞっとするほど禍々しくて、絶対者だとか王様だとか呼ぶにはためらわれるほど醜悪な化け物。

 はじめて見たときは恐怖で震えたものだったが、今はどうしようもなく哀れに感じられる。

 周囲に甚大な影響をもたらしているわりに、本体からは以前ほどの凶暴性を感じられなかった。

 

 ルヴィリアを滅ぼすほどの力があっても、その『本質』は飢えて弱っているだけの矮小な存在だ。

 テラスの隅でガタガタと震え、外から受けるあらゆる刺激に怯えている。


『まだ……いたのか。君らしく――ない、な』

「その姿でお喋りできるとは驚きだな。俺もまあまあ性格が悪いもんでね。お前が今の姿を見られたくないことはよく知っているから、指さしてケラケラと笑ってみたくなったのさ」

『そう――長くは保たない。早く――逃げ――ろ』

「契約で縛っているくせによく言うぜ。なけなしのプライドでお上品に振る舞っていやがるが、本音じゃそんなこと微塵も思っていないだろうが。チョコレートを味わいたい。それから俺の命も味わいたい。人間の身からするとまったく理解できないが、吸血鬼にとっちゃ最高の食い合わせなんだろうな。ファタールがワインのおつまみにしていたみたいに、優雅な晩餐のワンセットか」


 憎まれ口を叩いてこそいるものの、内心かなりほっとしていた。言葉を交わせるだけの理性がまだ残っているのなら、思っていたよりずっと簡単に問題を解決することができる。


 アルフレッドは腰に括りつけた宝石箱を開け、中からチョコレートを取りだす。

 オペラ。今のところの最高傑作と呼ぶべきレシピ。提供したときはアンケートを渡すだけで済ませていたが、それはあえて感想を聞くまでもないと感じていたからだ。

 作りあげた甘美に対しての自信。

 あるいはこの男ならよだれを垂らしながら貪り食うだろうという、信頼だろうか。

 だが、シンの反応は実に味気ないものだった。


『アルフレッ――ド。君はなにもわかって――いない』


 どっと不安が押し寄せる。

 凄まじいまでの違和感。

 吸血鬼の王がチョコレートを見てもまったく興味を示していない。


 ギラギラとしたまなざしも。飢えた獣のような形相も。

 まるで最初からなかったかのように、ただ悲しげに虚空を見つめている。


『私という存在を――繋ぎとめていたものが、失われつつあるのさ。記憶と呼ぶべきものがばらばらに崩れようしている今、君が手にしているものがなんであるかを思いだすのは難しい。だが――自分にとってはほかのなにより『価値』があると――そう感じていたことは間違いなさそう――だ』

「お前、まさか……」

『そう、忘れるよ――歪みは正され、絶対者としての――あるべき形を取り戻す。しかし私は――歪んでいた私を気に入っていた。残念でならない――君もそう感じてくれたなら――私としては、とても――嬉しい』


 シンは朦朧としているようだ。

 その様子を眺めながら、致命的な見落としをしていたことに気づく。

 

 ファタールは去り際、私のことなんて覚えていらっしゃらないでしょうけどと言って笑っていた。王の眼中になかったことを皮肉った捨て台詞だと勘違いしていたが、今になって考えてみると違和感がある。


 シンの性格からして、格下の怪異にこうもコケにされたら絶対に忘れはしない。

 何十年何百年かかろうとも必ず報復しようとするはずだ。

 そうできない理由さえ、なければ。


 生き恥。屈辱。

 そんなものを抱えたままでは、絶対者として立ちあがることはできない。

 ならば、どうするのか。


 いったんすべてをなかったことにして、最初の状態からやり直せばいい。


「冗談じゃねえぞ、クソ野郎! お前は究極の甘美を味わうために今までやってきたんじゃないのか! なのに俺を助けるために無茶して、結局なんもかんもぶち壊しにして終わりかよ! どうにか耐えろ! 俺が今、チョコレートを――」

『やめろ! 君の存在が私を刺激する! 私は、私を失いたくない!』


 近づこうとしたら吹っ飛ばされた。

 はずみで腰に括りつけていた宝石箱が宙を舞う。

 中に入っていたチョコレートは拾ったときと同じように床に転がった。

 黒い獣と化したシンは、真っ赤な瞳を爛々と輝かせながら前足で踏みつける。

 芸術品のごとく美しいオペラが、べしゃりと潰れて泥のようになった。


 ありえないものを見てしまった。

 よりにもよってこいつが、チョコレートを粗末にするなんて。


 しかし状況を理解するには、十分すぎる有様だ。

 吸血鬼の王は不死であれど不変ではない。積み重ねてきた記憶がばらばらに崩れつつある今、床に転がっているお菓子は他のすべてと同様に『取るに足らないもの』として映っていることだろう。


 アルフレッドは立ちあがった。

 黒い獣は再び距離を取ろうとしている。

 チョコレートではなく自分が暴走の引き金となっているのは、そもそもの原因が寵愛契約による代償にあるからか。俺との間に結ばれた一方的な繋がりが、あの男の中にある記憶の残りカスをそのままの状態に留めている。


 沸々と怒りが湧いてくる。 

 優先順位がちげえだろ。クソ野郎。

 お前にとってもっとも『価値』あるものはチョコレートのはずだ。

 俺でもなけりゃ愛でもねえ。


 なのにお前はどうしようもねえ馬鹿だから、人間ごときの命を助けるためにもっと大事なものを捨てちまった。

 オペラは今のところの最高傑作だぞ? 踏んづけていいわけあるか。

 俺が作ったチョコレートより俺のほうがいいなんてこと、あるわけねえだろぶっ殺すぞ。


 笑った。

 今日ほど、この吸血鬼に腹が立ったことはなかった。


「そんなに俺が欲しいってんなら、好きなだけくれてやる。血が欲しいのか? それとも愛が欲しいのか? ずいぶんとつまんねえやつになっちまったもんだな、お前。まるでどこにでもいる化け物じゃないか。死にかけた犬みてえにぶるぶる震えてんじゃねえぞ、バーカ」

『ああ――それが君の――贖罪――なのか』

「だからそうやって都合よく解釈するな。俺は最初からずっと」


 ――お前のことが大嫌いだったよ。


 そう言いながら、歯を立てて自分の手首を切る。

 どくどくと流れだす、鮮血。

 これだけやってみせれば、我慢なんてできまい。

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