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5−3

「マダム・ファタール。これからお前を殺すつもりでいるが、その前にアルフレッドに報告しなければならないことがある。――マエッセン・ノイマンは無事だ。ペトロの呪いで石になっていたが、今はすっかり元どおりになって馬車の中で休んでいる。クリムがあの蛇女に生き地獄を味あわせてやったからね。最後はずいぶんと素直になったらしい」

「本当か?」

「ああ、愛しいアル! 私はずっとその表情が見たかったのさ! 君が嬉しいと私も嬉しい。今ではなぜああも過去の友人に囚われていたのかも理解しているよ。傷つけたくなかった。わかりあいたかった。なのにお互い意地を張って、不幸なすれ違いが起きてしまった。同じ失敗をしたからこそ、その苦しみが自らのことのように感じられるのだ」


 シンは熱っぽい調子でまくし立てたあと、アルフレッドの肩に手を置く。反射的に身を引きかけるが、この吸血鬼のおかげでペトロに殺されずにすんだことを思いだす。


 ここは我慢だ、我慢。

 どうせいつもの薄っぺらい友情ごっこ。真に受けるだけ馬鹿を見る。

 ところが、


「本当にすまなかった。愚かな私を、許してくれ」

「……今、謝ったのか? お前が」

「そうだよ。こうでもしないと、いつまで経っても自分を変えられない気がするのでね」


 アルフレッドは耳を疑った。

 本気か? いや、正気か? 

 頭のおかしい吸血鬼が急に真っ当な人間みたいなことを言いだすと、なにか裏があるのではないかと逆に不安になってくる。


 実に厄介な状況だった。本能がこの『キラキラした吸血鬼』を猛烈に拒否している。

 しかし今こいつを邪険にすると、自分のほうが恩知らずのクソ野郎になってしまう。

 それにファタールの言葉が真実なのだとしたら、こいつの中に本物の愛情とやらが芽生えているらしいのである。

 アルフレッドはいったん深呼吸する。そして、合理的な思考に切り替えた。


「俺のほうこそ大人げなかった。意地を張って無茶をしたし、そのせいでこうしてお前に助けられちまっている。だから今までのことはすべて水に流そう」

「口づけしても?」

「いいわけねえだろ。ぶっ飛ばすぞ」


 シンはクスクスと笑った。

 その白い手はそっと肩に触れているだけなのだが、ひどく重たいものを背負わされているような気分だった。

 

 こいつの性格はだいたい把握している。

 たとえばもし、俺に好きな女ができたら――。

 迷わず殺すだろうな。

 そのあとで、俺を殺して自分も死ぬとか言いだすのだ。


 想像するだけでうんざりしてくる。

 悪意でも好意でも、変態的な嗜虐心でも高尚な愛でも大差はない。

 この男に『執着』されること自体が、ひどく危険なのだ。

 アルフレッドが嘆息していると、ファタールが拗ねたように口を挟んでくる。


「私の存在をお忘れのようですけど」

「安心しろ。逃げようとすればすぐにこいつが首を刎ねるから」

「そのとおり。すでに終わった問題を、あえて急ぐ必要はないというだけさ」

「本当にそうでしょうか。そのわりに、お体が震えているようですけど」


 吸血鬼の表情が変わった。

 先ほどまではなんともなかったのに、ファタールに指摘されたことを引き金にして、肩に置かれた手からかすかな振動が伝わってくる。

 動揺している? いや、これは――。


「禁断症状はだいぶ悪化しているようですわね。尊き君が見る影もなく落ちぶれていく様を目の当たりにするのは、私としても心苦しいかぎりです」

「待て。チョコレートは毎朝きちんと用意しておいたはずだが」

「であれば単純にご満足いただけなかったというだけのこと。貴方は味や品質を追求するばかりで、チョコレートにもっとも重要なスパイスをお忘れになっています。うふふ……料理は『愛情』とは、よく言ったものですね」

「はあ!? 今までそんなもん、求めちゃいなかっただろうに!」


 アルフレッドは非難するように吸血鬼を見る。

 だが、内心では理解していた。

 とてつもなく不愉快な真実が、暗がりの向こうから姿を見せようとしている。


「すまない、アルフレッド。私はもはや甘美だけでは満たされないのだ」


 さすがに絶句した。

 冗談じゃねえぞ。『究極』ですらはるか彼方にあるってのに。

 その足もとにすらたどりついていないうちから、新たな条件が追加されるのかよ。


「お前、どんだけわがままなんだよ……」

「私のせいではない。君がそばにいなかったせいだ」


 吸血鬼は開き直ったような言葉を返してくる。

 さっそく本来のクソ野郎に戻ってきたらしいな。まあ当然といえば当然か。謝罪したり反省したりできるようになったくらいで、根っこの部分が変わるのならば苦労しない。


 愛情が芽生えた。その結果として隷属ではなく『寵愛』による契約が新たに結ばれた。

 吸血鬼の心の内側だけで完結し効果を発揮する、一方的な守護――。


 あるわけねえよな。そんな都合のいい代物。

 強欲なこの男が、与えるだけで満足するとは思えない。

 ペトロの銃撃を防いだ力がなんらかの『契約』である以上、必ず対価が要求される。

 いわばそれが、新たに付け加えられた条件なのだ。


「甘美とは体験なのだよ、愛しいアル。私はこれまで孤独だった。それが常であったがゆえに、チョコレートを味わうだけで生の実感を満たすことができた。しかし今はそうではない。君という存在そのものが、快楽を構成する要素のひとつとなってしまったのだ」


 シンは震える手のまま肩にしがみつき、耳もとで囁くように愛を歌う。


「ひとりきりの食卓とは実に味気ないものさ。愛しい相手と楽しく語らう時間があってこそ、カカオの奥に秘められた極上の甘美を堪能することができる」

「悪いが、お前に愛情を抱くことは絶対にない」

「話を聞いていなかったのかな。君はそばにいてくれるだけでいい。私がチョコレートという名の快楽に溺れていく姿を、ただ眺めているだけで十分なのだ」


 つくづく気色の悪い話だった。

 吸血鬼が抱く愛情は押しつけがましく、どこまでも倒錯的だ。

 だが同時に、安堵したところもある。

 チョコレートを食っている姿を見ているだけでいいのであれば、命を守られる対価としてはむしろ安いほうだ。愛情云々はさておき、この構ってちゃんのクソ野郎をもうちょい丁寧に扱ってやれば解決する話なのだから。


 それともまだなにか、落とし穴があるのだろうか。

 窮地に追いやられているはずのファタールが、今なお悠然と構えているのが不気味だった。


「王の中にある『愛情』はチョコレートとも密接に結びついています。ゆえにグリンデン様のような完全性を有してはおりません。ですが、そのお体を蝕むきっかけにはなりえましょう。相手を思いのままにできないことに対しての苛立ち、自分のもとから離れていくかもしれないという不安、ある日突然に失われるかもしれないという恐怖。そして――」


 ファタールは立ちあがる。その手にはアルフレッドの銃が握られていた。

 いつのまに奪われたのか。

 シンとの会話に気を取られていたせいで完全に手元がおろそかになっていた。


 立て続けに響く、銃声。

 円卓が蹴倒され、椅子にしがみついたまま身構えていたアルフレッドを庇うように、シンが立ちふさがる。

 一瞬の静寂のあと、純銀製の弾丸がぽろぽろと床に落ちる。

 

 両者ともに、まったく意味のない行動だった。

 寵愛契約によって守られている今のアルフレッドに、銃なんて効かないことくらいファタールは承知しているはずだ。であればシンだって、わざわざ前に出て庇う必要はない。


「大切なものを守りたいという、献身。アルフレッド・ワーグナーに対して愛情を示せば示すほど、欲張りな貴方様の中に渇望が生じてしまう。結局のところ王とは奪い求める存在であり、その本質が変わることなんてありえないのでしょうね」


 ファタールは銃を投げ捨てると、両手からまばゆい閃光を放った。

 蹴倒されていた円卓はずたずたに引き裂かれて無惨な残骸となり、シンが身にまとっていた黒いスーツも瞬く間にボロ切れと化していく。

 もちろん、吸血鬼の体には傷ひとつついていない。

 しかし息は絶え絶えになり、体はぐらぐらと傾いている。


 その弱りきった姿を見て、ようやく気づく。

 契約による代償を支払うのは、隷属者だけではないのだと。


「まさか……寵愛による守護自体が、致命的な引き金になりうるのか?」

「当然のことでしょう。あるべき運命をねじ曲げ死を否定する力となれば、膨大なエーテルをもってしても賄いきれません。ああ、尊き君よ! その身をひとつに結びつけていたものは、絶対者としての揺るがぬ心でありましょう! しかし貴方様は変わることを望まれた。そこにいる愚かな人間を、理解したいと願ったばかりに!」


 ファタールが勝ち誇ったように高笑いをあげる。

 最初からこの状況を作りだすことが狙いだったのは明らかだった。


 シンは膝から崩れ落ち、爆発寸前の火薬を抱えるような姿勢で震えている。

 吸血鬼の王にあるまじき姿。

 悲鳴やうめき声をあげなかったのは、この男なりの矜持だろうか。


「アル――フレッ――ド……」

「今は喋るな。どう見たって大丈夫そうではないからな」


 考えるよりも先に動いていた。

 ぐったりとした体を抱えあげると、まったく重さを感じない。

 チョコレート中毒が悪化したときの様子とよく似ている。

 しかし今こいつを蝕んでいるのは、寵愛を授けたことによる代償だ。

 それが前に限界を迎えたときよりも深刻な症状を引き起こしていないのを、今はただただ祈るばかりだった。

 

 お前はいったい、俺を助けるためにどれほどの無茶をした? 

 見る影もなく憔悴し、吸血鬼の王にとっては死よりも耐えがたい苦痛であるという、生き恥を晒してまで。


「ファタール。このままだとシンは間違いなく暴走するぞ。破滅の未来を回避するのが目的だって宣言していたくせに、ルヴィリアを火の海にするきっかけを作ろうとしているのはどういうつもりだ」

「その質問には人間であることの限界を感じますわね、アルフレッド・ワーグナー。短期的に見ればまさしくそのとおりでしょうが、破壊のあとには必ず再生があるものです。王が正気を取り戻すまでに何十年、何百年かかるかはわかりません。しかし少なくとも滅びさえしなければ、怪異にとっての楽園はこの地に存在し続けるのです」


「……つまりいったん更地にして、やり直すってことか? この町にあるすべてを?」

「私としても不本意な結果ではありますよ。しかし今できる最良の選択が、必ずしも望んでいる未来に繋がっているとはかぎりません。ならばせめて最悪な結末だけは回避できたらいいなと、私は私なりにあがいているだけのことなのです」


 仮面の貴婦人はどこまでも強かだった。

 愛する者の死を避けるために力を使っていたとしても……結果としてシンが暴走してしまったなら、真っ先に餌食となるのはアルフレッドだ。しかもその間の混乱に乗じて、ファタールはまんまと逃げおおせることができる。

 目的の達成を第一に考えるのならば、今の彼女ができる最良の選択ではあるだろう。

 ルヴィリアに存在するすべてと、数十年から数百年という時間を犠牲にすること以外は。


「それではご機嫌よう。次にお会いするときは私のことなんて覚えていらっしゃらないでしょうけど、だからこその新鮮な出会いというのもあるやもしれませんね」

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