4−6
アルフレッドは夢を見ていた。いつもの、幼いころの記憶だ。
父親や兄たちに殴られたあとは大抵、庭の隅っこにある物置小屋に隠れてひとりで泣いていた。
これまた情けない話だが、自分が屋敷のどこにもいないとわかると姉さんがすっ飛んできて、いつも優しく抱きしめて慰めてくれるのだった。
母親はアルフレッドが生まれてすぐに屋敷を出ていってしまったので、ほとんど捨てられたようなものだった。姉さんだってまだ幼くてつらかっただろうに、自分が抱いている寂しさや悲しさを弟に感じさせまいと、気丈に振る舞っていたように思える。
無償の『愛』というものがあるとすれば、あのころの姉さんから感じたそれが最初で最後だっただろう。幼いがゆえにすっかり甘えきっていて、男としてのプライドに邪魔されず、ただ一方的にぬくもりを求めることができた。
もちろん、大人になった今は気恥ずかしくてそんな真似はできない。
死が、間近に迫っている。
だから未練が、俺にこんな夢を見させるのだろう。
姉さん。もう一度、抱きしめてくれ。
強がっている部分も。情けない部分も。
すべて受け入れた上で、愛してほしい。
天才錬金術師でもなく。ショコラティエでもなく。
ただのアルフレッド・ワーグナーを――。
「もちろんだとも。私は君のご主人様だからね」
◇
ぎょっとして目を覚ます。冷たい石の、感触。
ひどい夢だ。動悸で息が詰まりそうになる。
――心臓?
そうだ、俺はペトロに撃たれたはずだ。
しかしマダムの姿はどこにもなく、アルフレッドは倒れたときと同じ姿勢で床に転がっていた。
銃やペンダントもテーブルに放置されていて、石と化したマエッセンも無事だ。
コレクションルームの扉は豪快に開け放たれたまま。
まるで急な用事ができて慌てて出ていったような雰囲気である。
とりあえず起きあがる。
痛みはない。媚薬の効果も切れている。
ただ首筋に、じんじんと響くような熱を感じた。
銃で撃たれたあの瞬間、隷属契約の力によって守られたのか?
しかしなぜ今になってそんな効果が発現したのだろう。死にかけたことは何度かあったし、そもそも不完全な契約を交わしたせいで、綻びが生じているとも言われた覚えがある。
今になって思い返してみると、ペトロの屋敷に襲撃をかけたあたりは刻印の力動をまったく感じなかった。なのに目を覚ましたら急に、これまで沈黙していたぶんを取り返すように主張している。
押しつけがましく、まとわりつくように。
アルフレッドは顔をしかめる。
状況的に見て、刻印の力に助けられたことは間違いない。
だとしても、首筋から伝わってくる熱に不快感を抱かずにはいれなかった。
それはちょうど誰かに抱きしめられたときのようで――そんな連想をしてしまうのは、姉さんだと思っていたらクソ吸血鬼だった、なんて悪夢を見た直後なせいもあるかもしれない。
無償の『愛』だって? 笑えない冗談だ。
あの冷血で身勝手な王様が、そんなものを与えてくるはずがない。
鼻で笑ったところでふっと我に返った。
呑気に構えていられるような状況ではない。ペトロがいないうちに逃げなければ。
しかし銃とペンダントを持って部屋から出ようとしたところで、バタバタと足音が響いてくる。
「招集!? こんな時間に!?」
「すぐに戦える準備をしとけだとよ! ただの来客じゃなさそうだな!」
鉢合わせたらまずいと思って扉の前で足をとめるも、マダムの家来と思わしき男たちは慌ただしく通りすぎていった。
直後、屋敷全体がぐらぐらと揺れる。屋根に雷が落ちたかのような衝撃。
タイミング的に、シンが空飛ぶ馬車で乗りこんできたと見るべきか。
ペトロの口から語られた展開とはまったく異なっているものの、ファタールの予言した未来に進んでいく可能性は捨てきれない。攻撃に巻きこまれるリスクを避けるために、現場からなるべく離れておいたほうがよさそうだ。
マエッセンのことだけは気がかりだったが……ばかでかい石像を担いで逃げるわけにもいかない。
今はとにかく早く事態を収束させることを、最優先にすべきだろう。
そう思い家来たちが走っていった先とは逆に足を向けると、廊下の暗がりに蛍のような光がぽうっと漂っているのが見えた。
なんだあれは。出口の明かりか?
いや違う。鬼火のような物体はふよふよと消えていく。その動きには明確な意思のようなものが感じられた。
吸血鬼が使役する眷族だろうか。逃げ道まで案内してくれるとは用意がいい。
街灯に誘われる蛾のように、漂う光を追いかける。
◇
アルフレッドが目を覚ます二十分ほど前。マダム・ペトロは来客の対応に追われていた。
あまりにも急だったので、ほかのことはすべて放ったらかしにするしかなかった。
当然、コレクションルームに戻る余裕だってない。
「お初にお目にかかります。マダム」
「こんな夜更けに、王の従僕がなんのご用かしら」
「主は大変お怒りです。即刻、隷属者の身柄を解放いたしなさい」
首なしの少年、名はクリムといったか。
呪われた元人間の分際で、マダムと対等以上の立場であるかのように振る舞っている。実に気に入らない。
しかしいったん冷静になって、周囲を確認する。
相手はひとり、手ぶらで屋敷の門前に佇んでいる。
不意を突くためにわざわざここまで歩いてきたのだろうか。
応対するために慌てて外に出るはめになったので術中に嵌っているといえるのだが、どこかに馬車を隠している可能性も捨てきれない。
そういえば……。
ペトロは夜空をあおぐ。
紫色の燐光を帯びた馬車が、屋根の上を旋回するように走っている。
霊馬フォシーユ。かつてルヴィリアに攻めこんだセーブルの軍勢数千を、たった一騎で壊滅させた王の懐刃。
まさか王自らが馭者を――と思いきや、運転席にいるのは狼の耳を生やした少年だった。
馬を制御しているというよりは逆に引っ張られているような感じで、遠目から見てもあきらかに慣れていない。
「気になりますか? アルフレッド様のお弟子様が、どうしても手綱を引いてみたいとおっしゃるので任せてみたのですが」
「ちょちょちょっ! そんなに暴れんなって! オレ実はけっこう乗り物に弱くて、このままだと限界……おげえ」
少年がなにやら叫んでいると思ったら馬車が空中でピタッと停止し、やや間があってから霊馬が激昂したようにヒヒンといなないた。
次の瞬間、夜空を裂くように凄まじい雷光がほとばしり、屋敷の屋根に直撃する。
「ちょっとぉ! 今すぐあれをやめさせなさいっ!」
「まあまあ。子どもがやることですから」
クリムはひらひらと手を振った。
あからさまな挑発、いや威嚇か。
連中は最初から喧嘩をふっかけるつもりでやってきている。
しかも家来だけとなると、王が相手をするまでもないと侮られていることになる。
ファタールが予言した未来と展開が異なっているのは気になるが、そもそもアルフレッドを撃ち殺してしまった時点で計画はすでに破綻しているのだ。
ペトロはふうと息を吐く。
そうこうしているうちに屋敷の中からぞろぞろと部下たちが現れ、クリムが立っている門の周りを囲うようにして陣形を組む。
事前に号令をかけておいたから、合図を出せばすぐさま攻撃を仕掛けられる。
「あたいも覚悟を決めるしかないようね。マダムのひとりとして、こうも舐められているのに引きさがるわけにはいかないわ。……そうよ。アルフレッド・ワーグナーは屋敷の中にいる。でも残念、さっき殺しちゃった」
「本当に?」
「銃で心臓を撃ち抜いたんだもの。普通の人間が生きているわけないでしょ」
口にしたあとで、引っかかりを覚える。
間違いないと断言できるほど、死体を確認しただろうか。
血は、出ていたか?
隷属者は、普通の人間か?
やがて、クリムの肩に一匹のコウモリが舞い降りる。
王の使い魔か。こちらの様子をうかがいながら、ヒソヒソと囁きあっている。
「アルフレッド様は無事にお屋敷から抜けだしたみたいですよ。詳しい状況はよくわかりませんが、ひとつだけ確信を持って言えることがあります。あなたがたの計画は失敗した。なので残るはぼくの仕事、つまり後始末ですね」
再び、頭上から稲光がほとばしった。
人狼の少年がキーキーわめきながら馬車を駆り、屋根の周りを旋回しながら雷撃の雨を降らしてくる。
よく手入れされた薔薇の花壇が爆ぜ、ルヴィリア随一の石工職人に作らせた噴水が跡形もなく粉砕された。屋敷のあちこちから火の手があがり、夜空は昼間のように明るくなった。
ペトロが合図を出すまでもなく、家来たちは襲撃者に攻撃を仕掛けた。
ほとんどが古くからマダムに仕える従順な私兵、怪異の傭兵もいれば魔狩人くずれの人間もいる。総じて武器の扱いに長じていて、セーブルの軍人に横流ししてもらった最新式の装備を揃えている。
数十人の兵士が隊列を組み、空飛ぶ馬車めがけて発砲する。
彼らが用いるライフルは軍用の精度に優れた物というだけでなく、エーテルの力によって威力を底上げすることができた。雷撃に対抗するように、淡い燐光をまとった弾丸が花火のように夜空を舞っていく。
「――あっぶねえ! 飛び道具なんて卑怯だぞっ!」
人狼の少年が頭を屈めながら悪態をつく。
しかし卑怯といえば空から雷の雨を降らせているほうがよっぽどである。
弾幕から逃れるために霊馬がさらに空へ上昇しようとすると、それを見越したように巨大なオーガ族の男が屋敷の奥から鎖に繋がれたなにかを引っ張りだしてくる。
臼砲。城壁を破壊するときに使うような大口径の大砲である。
家主のペトロですら、はるか昔に闇商人にそそのかれて買ったまま忘れていた仰々しいにもほどがある攻城兵器。もちろん直撃すれば馬車なんてひとたまりもない。
人間だけなら角度を調整するだけでも数人がかりになるが、オーガの男は巨大に似合わぬきびきびとした動きで狙いをつける。
轟音。
狙いはわずかに外れ、鉄球ほどのサイズがある砲弾は屋敷の敷地を飛び越え繁華街のほうへ消えていく。
やがて響きわたる、無数の悲鳴。
あの様子なら次は命中するだろう。
周囲の被害なんて知ったことか。今はこの憎たらしい王の侍従どもを蹴散らすのが先だ。
「余裕そうだねえ、坊や。ご主人様がいなくて大丈夫なのかい?」
首なしの少年は腰に手を当てて馬車と私兵の攻防を眺めていたが、やがてペトロに向き直ると弾むような声でこう告げる。
「普段はさほどお役に立てていませんから、こういうときこそ腕の見せどころです。ルヴィリア全域が我が主にとってのお屋敷なら、屋根裏やキッチンの隙間に住み着いた鼠や害虫を駆除するのは侍従の役目。ましてやあなたがたマダムは隷属者であるアルフレッド様に危害を加えようとしたのですから、二度と湧いて出てこないよう念入りに消毒しなくては」
「おほほ、言ってくれるじゃないの。呪われた虜囚風情が」
「ぼくはお館様のそばにもっとも長くいながら、いまだ取るに足らぬ『無価値』な下僕にすぎません。自分の中に与えられるものがなにひとつないのですから、お役に立ちたいと願うなら誰かにそれを委ねるしかない。つまりアルフレッド様のお力になることが、今できる最良の選択になるのです」
ペトロは眉をひそめる。
膨れあがる殺気。そして、エーテルの力動。
怪異としての本能が、目の前にいる少年は危険だと告げている。
判断は一瞬だった。
指で印を切り、渾身の一撃をお見舞いする。
黒蛇の呪い――暗殺に用いられる術を白兵戦闘用に改良したものだ。
呪念を込めたエーテルをそのまま撃ちだすことで、対象を即座に死にいたらしめることができる。呪符を媒介とする場合と異なり直に当てなければ効果がないぶん取り回しは難しいが、お互いに向かいあっている状況なら問題ない。
「お行儀が悪いなあ。ぼくはまだ、話している途中ですよ」
クリムは無数に迫る黒い触手を、軽く払うだけで相殺する。
思わず悲鳴が漏れそうになった。
隷属者の成れの果てや夜魔のような限定的な『不死』の眷族でさえ、直撃すればただではすまないというのに。
しかし内心の動揺をおくびにも出さず、ペトロはさらなる呪術で追撃する。両目から禍々しい光が放たれ、周囲に散乱していた薔薇や植木の残骸がパキパキと音を立てて石に変わっていく。
ただやはり、相手にはまったく効果がなかった。
愕然とし、そのあとで致命的な事実に思いいたる。
――王の怒りを買い、呪われてしまった少年。
「残念ですが、あなたの攻撃は効きません。すでにもっと強い力で呪われているので、ちょこちょこ術をかけられても勝手に弾いてしまうのです」
「そんな……馬鹿な……!」
「フォシーユもじゃれつくのに飽きたころでしょう。最後の仕上げに取りかかるとしましょうか。あなたをぼくと『同じ姿』にしてさしあげますよ」
クリムの言葉と同時に、馬車に照準を合わせていたオーガごと臼砲が爆散する。
雷の雨というより、ほとんど渦だ。
稲妻はそれ自体が意思を持つかのように家来たちに食らいつき、閃光とともに灰燼と化していく。
ペトロは理解する。
王の力を侮っていた。
それどころか、その侍従たちの力すら見誤っていた。
霊馬の一匹にすら、持ちうる戦力のすべてを投じても歯が立たない。
長らく支配階級に君臨していたペトロにとっては悪夢のような現実。マダムとしての地位は、はるかに格上の存在である王が『興味を失った』役割を、ただ押しつけられていただけにすぎないのだ。
途方もない年月をかけて築きあげてきたプライドも意地も一瞬にして粉々に砕け散った。
そして最後に残ったのは、死に対しての恐怖だけ。
大地に手をつき、むせび泣く。
情けなく鼻水を垂らし、懇願する。
「お願いよおっ! どうか、命だけは!」
「若い男たちを惨たらしい拷問にかけてきたマダムとは思えないお言葉ですね。しかしわかりますよ。ぼくもこれからたっぷり、年上の美しいお姉さんを『わからせて』やることができる。実に下劣で、とっても気分がいい」
クリムの慇懃な物腰の奥に隠れた悪意と、苛烈な怒り。
それを肌で感じて、ペトロは半狂乱になって抵抗する。
だが、攻撃はまったく通らない。
やがてちいさな手で頭をつかまれ、そのまま地べたに押しつけられてしまう。
「我らの王は長らく孤独の中に在りました。生まれながらにして完全な存在であったがゆえに、己が内に欠けたものがあることすら自覚されておられなかったのでしょう。しかしレオナルド様と出会ったことで孤独を知り、アルフレッド様と接する中で気づきはじめている。チョコレートに勝るとも劣らない、極上の甘美について。ぼくはそれを、非常に喜ばしいことだと考えています」
メキメキと軋むような音が、耳元から響いてくる。
ペトロが最後に聞いたのは、少年のこんな言葉だった。
「見たくありませんか? 美しい存在が、さらに歪で救いがたいものに変貌していく様を。




