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さて一方のショコラティエ様はといえば、危機が間近に迫っていることなんて露知らず。
いつものように工房でチョコレート作りに精を出していた。
気がつけば早いもので、シンの屋敷で暮らしはじめてから丸一年。
本来なら、いまだ究極の甘美にたどりつけずにいる己の至らなさを歯がゆく思うべきかもしれない。
だが今は焦りを感じるどころか、呑気に鼻歌なんぞを歌っている始末である。
気難しい師匠のらしからぬ姿にドットは耳と尻尾を逆立てて警戒し、近頃は工房にご無沙汰だったクリムも様子を見にくるほどだった。シンに対してのストレスが臨界点に達してついにおかしくなったか。
ひそひそと囁きあう怪異の少年ふたりを見て、アルフレッドはようやく仏頂面を取り戻す。
だがその目もとは相変わらず、だらしなく緩みきっている。
「前に作ったチョコレートが軍用のレーションとして正式に採用されたのさ。今のところ評判も上々で、セーブル王家から感謝状も届いている。面汚しだの落ちこぼれだの散々罵ってきた実家のクソどもがそれを知ったらどんな顔をするか……想像するだけで笑いがとまらねえよ」
「なるほど。聞いてみりゃ兄貴らしい理由だな」
「だから工房にいるときは先生と呼べって。まあ今日は特別に許してやろう。アカデミーの事情通から聞いたところによると、地下闘技場での一件も内々で評価に影響を与えたらしい。人狼を甦らせるほどのパワーを秘めた野戦食――テンゼルにいる連中の首を縦に振らせるには十分すぎるほどの『箔』になる」
「サングリア教やカレドアの台頭によって昔ほどの影響力はありませんが、ルヴィリアの神秘はセーブル王家にとっても特別な価値を持ちますからね。他国にはない独自の『資源』として有効活用できないかと、議会でもたびたび話にあがっているようです」
「たとえばエーテルとかな。この世ならざる力ってのはどうにも安定感がないから、実用化させるとなるとまだまだ改良の余地がありそうだ。なもんで今のところはチョコレート作りで結果を出すのが一番の近道だったわけだ」
アルフレッドは鼻を鳴らしながら、褒めてほしそうな顔をしていたドットの頭を撫でてやる。
気持ちよさそうに目を細める可愛らしい犬っころ。
我ながら現金なもので……いざ望んでいた結果が目の前に転がってくると、嫌々ながら取り組んでいたことなんて忘れて喜んでしまうのである。
錬金術師としての才能を評価されていたものであれば、なおよかった。
だがそんな実績はあとからナンボでも積みあげられる。そもそも探究の道を進む中で培った経験がなければ、チョコレート作りの腕前が開花することもなかったはずだ。
ならば錬金術師であるかショコラティエであるかなんて、瑣末な差でしかない。
「ふっ……。歴史に名を残す天才になる日も近いな」
◇
そんなわけでアルフレッドはかつてないほど調子に乗っていた。
大抵の場合、派手にすっ転ぶのこういうときである。
暗殺者は物陰にじっと身を潜め、死神は地獄行きの切符に鋏を入れる。
ましてや今いるところは魔都なのだから、死を象徴する存在なんてそこら中にいる。
ルヴィリアで注目を浴びるというのは、よからぬ者たちの羨望や嫉妬を一身に受けるということでもある。
だからほんのちょっと脇道にそれただけで。
歴史よりも先に、墓標に名が刻まれることになる。
◇
アルフレッド宛に小包が届いている。
そう伝えられたのは実験を終えて研究室でくつろいでいるときだった。
現在の所在はシンの屋敷になっているのだが、吸血鬼の住処とあって敬遠する業者も多い。
なので時折、アカデミー経由で渡されることがある。
姉からの届けものも前に住んでいた工房に放置されていたというし、もしかしたら未配達のままになっている郵送物はまだあるかもしれない。遠方の業者に道具や部品を発注することもあるので、地味に厄介な問題である。
それはさておき。校舎の入り口付近にある受付に向かい、事務のおばちゃんから郵送物を受け取る。
奇妙なことに差出人の名はなく、紐で縛られた茶色い包みに『汝に幸いあれ』とだけ記されていた。
最近の躍進ぶりに感銘を受けたファンからの差し入れだろうか。
とりあえず開けてみればなにかわかるだろう。
以前のアルフレッドなら送り主も中身もわからない小包に警戒心を抱いたはずである。
しかし隷属者としての暮らしも長くなっていたころだったので、とくになにも考えずにびりびりと破く。
自分の身に危険が迫っているのなら、首もとの刻印が知らせてくれるからと。
小包に、中身と呼べるものはなかった。
びりびりと紙を破いた瞬間――もわもわと黒い煙が湧きあがる。
不穏な気配を感じてとっさに手を離すものの、すでに遅かった。アルフレッドの右腕に無数の蛇だかムカデだかわからない黒い物体がまとわりつき、皮膚を裂いて体の内側に潜りこんでこようとする。
「くそ、がっ!」
こういうとき、アルフレッドは躊躇しない。
無事だったほうの左手で胸もとのペンダントを握り、アーク放電で正体不明の物体を焼く。
バチバチと火花が散り、激痛とともに肉が焼ける臭いが漂う。
右腕はひどい有様だ。
しかしあと一秒でも判断が遅かったら、命のほうがなかったはずである。
そう思わせるほどの、不気味な『なにか』だった。




