1−10
気がつくとドットは宙に浮いていた。
真下を見れば潰れたトマトみたいになった自分の姿がある。
ああ、死んだ。やっちまった。
初手でしくじったのが痛かったな。足もとにタックルを仕掛ければ体勢を崩せるかと思いきや、リングの床に根を張ったみてえにびくともしねえ。
相手は真っ白な毛皮に覆われた熊みたいなでかさの雪男。
極寒の地を生き抜くために体は分厚い脂肪に包まれている。丸太を引きちぎるほどの握力があり、一度つかまれたら最後。ドットのちいさな体なんてオリーブの実から油を搾りとるときのようにぺしゃんこにされてしまう……という触れこみだった。
自分としてはもうちょいイケるかと思っていたものの、まさか下馬評どおりの展開でボコボコにされたあげくデッドチェイスの不名誉に与ることになろうとは。アルフレッドの兄貴からチョコレート作りを教わるために不断の覚悟で群れから抜けたってのに、クソだせえにもほどがある。
「――あいつは親の仇なんだぞ!? 人狼族の誇りに泥を塗るつもりか!?」
犬みたいに吠えるんじゃねえよ、グレイ。
じゃあ群れを率いて高台の屋敷に喧嘩をふっかけてこいよ。
それとも弱っちい人間だけ狙って、復讐を果たしたって満足する気か?
お前だって本当はわかってんだろ。親父たちですら勝てなかった吸血鬼の王様を、俺たちがどうにかできるはずがねえ。そもそも逆恨みしてんのはこっちで、最初から仇もクソもねえんだってな。
ドットは目をつぶる。
再び瞼を開くと幻聴はやみ、かわりにレフリーのカウントが聞こえてくる。
……ご苦労なこった。この血まみれの状態で起きあがれたらそれこそ『化け物』だろうが。
人狼族は吸血鬼に負けないくらいしぶといって話だけど、あんなのぜんぶ出まかせだから。
俺たちの先祖が箔をつけるために、自分たちの武勇伝にすごそうなエピソードを盛ったんだろうなあ。
グレイのバカや群れの仲間はそれを信じていた。
でもオレはなんとなく気づいていたよ。こうやって対戦相手に潰される前からな。
そもそも腕っぷしが強かったからってなんになる?
親父たちは最強の傭兵団だって得意気に話していたけど、実際は人間の金持ちに雇われてうす汚ねえ仕事をこなすだけの小悪党だったじゃねえか。
しくじれば蹴っ飛ばされて。うまいことやっても足もと見られて報酬を値切られて。
最後は伝説級にやべえやつの尻尾を踏んじまって、紙屑みてえに燃やされちまった。
オレはあんなふうになりたくねえ。
親父たちが死んで群れのリーダーを任されて、みんなの将来を考えて……そんで、もうちょっとマシな生きかたがあるんじゃねえかって、そう思ったんだよ。
「――だからあの人間にチョコレート作りを教わりたいって? いいね、僕もその案には大賛成だヨ。今の時代、手に職をつけなきゃ生きていけないからネ。うまくいったらたまに、王様の近況を報告してくれない?」
ケヴィンはにこにこと笑っている。
スパイの真似ごとをする対価に、仲間たちの生活を保証してくれるらしい。
正直に打ち明けたらアルフレッドの兄貴はどう返すかな。
クソ吸血鬼の情報なんていくらでもくれてやれとか、鼻で笑いそうだけど。
ま、今となっては考えたって意味のない話だ。
再び目をつぶって、ケヴィンの幻聴も振り払う。
兄貴からチョコレート作りを教わって、そのままうまいこと弟子として居座って、親父たちとは違う真っ当な道ってのを歩んでみたかったけど……対価を払ったじゃんって言質を取るためだけに挑んだ賭け試合でうっかり死ぬんだから、現実ってのはままならないもんさ。
「――ふざけんなよクソガキが! あっさり死んで終わりかよ!」
アルフレッドの兄貴が声を張りあげている。
思っていたより情にもろいやつだったな。ちょっと知りあっただけの間柄なのに、今にも泣きそうじゃん。
おかげでなんだか気分がよくなった。
つまんねえ人生だと思っていたけど、これでちょっとは爪痕を残せたかな。
オレのことにまったく興味がなかった天才様も、しばらくは名前を覚えていてくれるだろう。
ふわりとした感覚。
繋がっていた糸がちぎれて、さらに浮きあがっていくような。
カウントがもうじき終わる。つまりいよいよってことだ。
お別れをするためにアルフレッドの兄貴を見ると、上着のポケットからなにかが転がり落ちた。
円盤みたいな形をした金色の缶。リングの端っこでぽつんと、きらめいている。
……チョコレート?
もしかして最新作か? どんな味がするのか気になるな。
最初に食べたやつも信じられないくらい美味かったし、祭りの会場で拾ったミント味のやつなんて衝撃的すぎてしばらく頭から離れなかった。
そうだ。
なんだかんだ理由をつけてみたけど、最初に感じた衝動はこれだったかもしれない。
チョコレートが美味かった。だからもっと知りたくなった。
どんな種類があるのか。どんな材料を使うのか。
どうやったら、こんなすごいものが作れるのか。
まったく……兄貴はひどいよな。
これから死ぬってときに、最新作なんて見せんなよ。
どんな味がするのか、オレは知ることができない。
驚きも感動もなにも得られないまま、終わっちまう。
――衝動。
嫌だ。
そんなの絶対、許せない!
◇
ドットはゆっくりと立ちあがる。
カウントが終わる前に、ほとんど無意識のまま構えを取る。
会場にいる誰もが息を呑んだ。
血まみれのちいさな体が、異様におおきく見える。
アルフレッドは愕然としながらも、その姿にいいようのない既視感を覚えた。
シンのときと同じだ。
あの吸血鬼が死ぬ寸前で持ち直したときと。
ギラギラとしたまなざしが、ただまっすぐに求めている。
なにを?
リングの青い床に転がった、金色の缶。
それは水面に映る満月のごとく、キラキラと輝いていた。




