⒘ 未来
手をのばしたカデンツァは空気を押し出すように掌を外側へ向けた。空気の僅かな温度差をその指先で感じながら。彼はその空気が流れる様子を思い描いた。
「風吹かん(トゥセラーデ)」
一瞬冷たくなった彼の掌から緩やかに風が吹いて、正面に立っていたジェシカの二つに結いたをなびかせた。
「やったじゃない!」
成功した魔法に彼女は朗らかな笑みを浮かべる。カデンツァも嬉しくなって、綻んだ顔で勢いよく頷いた。
「よし、基本的な風の使い方はこれで習得できたな」
監修としてジェシカに連れて来られていたスクラグは、彼を見るとニッと笑った。
「〝攻撃的〟な風の使い方はおれから教えるべきことではないし、もうおれから教えられることはないだろう。応用術はジェシカから教わるといい」
「うん、ありがとう」
カデンツァはニコッと微笑むと、彼に向かって握手の手をのばした。もうスクラグの挨拶に慣れたらしく、二人は握手をした流れでハグをして、互いの背中を叩き合った。
「今陽日教えたその感覚を忘れないようにな。おれは何度教えても構わないんだが、ジェシカが二度目は禁止って言うか——」
「ちょっと、聞こえてるんだけど?」
彼女は挨拶を終えた二人の間に割って入ると、スクラグを見た。ハハッと笑う彼をなじるように見ていた彼女は、ふっと笑みを浮かべた。
「ありがと、スクラグ。おかげで助かったわ」
「なぁに、この間の季節変えで手伝ってもらったし。あの時はティアサーのおかげで季節変えがやり易くもなってた。助けられた礼だ」
彼は微笑を湛えるとわざとらしく恭しい礼をする。ふわりと吹いた風に乗って彼は飛び去った。
「さてと」
ジェシカは振り返ってカデンツァを見遣った。
「あたしたちも今陽日はおしまいにして、ホームに戻ろっか」
カデンツァは頷いた。思えば昼休憩を挟んでから今まで、ずっと基本の風魔法の練習をしていて、彼はくたくただった。もう既に陽は斜めに傾き、夕暮れ色に辺りを照らしている。二人は飛び立つと、ホームへの帰途を並んで飛行した。
「光魔法の基礎もこの間使えるようになったし」
呟いた彼女は前方からカデンツァへと視線を動かした。
「次回から応用術ね。楽しみだわ」
「うん!」
ようやく少しずつでも魔法が使えるようになってきて、カデンツァはつい大きな声で答えた。弾んだ彼の様子にジェシカも笑みをこぼす。赤い夕焼けが少しずつ弱まり、青く落ち着いた光が照らす高原を飛びながら。修練が始まって以来、初めてのゆったりとした時間が過ぎていた。
「他の魔法はどう? どんなのを教えてもらってる?」
「この前はエリーから〝夢遊想〟を教えてもらったよ」
ジェシカの眉が疑うようにぎゅっと斜めになった。
「夢遊想? このタイミングで教えるには変な精神魔法ね」
彼女の話にカデンツァは頷きながらも苦笑した。
「いい? 今陽日は夢の中に入る魔法を教えるから」
カデンツァがエリーの部屋に着くと、彼女は早々に宣言した。
「精神魔法の呪文は独特だって前にも話したけど、夢の中に入る『夢遊想』は特に変わってるから、ちゃんと唱えないと成功しないわ。呪文は寝ているターゲットの耳元で囁くの」
わざとらしく咳払いをすると、エリーはその呪文を唱えた。
「真実なる出来事も偽りの蜜の味。夢の中で生きる者よ、そのとば口の鍵を我にもたらさん」
カデンツァは忘れないように必死になってその呪文を口ずさんだ。というのも、エリーはその長い呪文を一度しか伝えなかった上に、すぐに部屋を後にしてしまったのだ。おかげで彼は急いで彼女を追いかけながら、この長々とした呪文を何度も復唱しなければならなかった。そして、この呪文を使う相手、夢の世界にいるターゲットは——。
「——はぁ? ルアンの夢に?」
呆れ果てた声色でジェシカは大きな声を上げた。
「なによそれ!」
「絶対に怒るからやめた方がいいって言ったんだけど、エリーが気づかれなかったら平気って——」
「そこじゃないのよ。あいつちゃんと魔法を教えるつもりないわけ?」
いつの間にか[誘惑の森]に着いた二人は、目前に現れた木を左右反対方向に避けた。
「というか、そもそもどうやってルアンの部屋に入ったっていうの? 本人じゃないから扉は開かないでしょ?」
再び会話ができる距離感に戻ると、ジェシカは矢継ぎ早に尋ねた。
「陽入戸を細工しておいたって」
「あぁ、そう。エリーったらほんと……」
彼女は途中で声を失ったかのように言葉を切ると、溜息をついて何かを振り払うように手を振った。
「まあいいわ。過ぎたことに文句を言ったところで始まらないし。それであなたはどうしたの?」
「俺が夢の中に入ったのを確認したら、『成功したし、これから先は自由行動ね、扉を開ければ夢から出られるから』ってだけ言って、エリーはどこかに行っちゃって」
カデンツァの話に彼女は悪態をつく。苦笑いを浮かべたカデンツァは話を続けた。
「そもそも夢遊想が上手くできたのか、偶然できたのかも分からなかったから、ルアンの夢を出てジョシュアの夢に入ってみたんだ」
どうやらその答えもあまり良くなかったらしい。ジェシカは何も言わなかったものの、じろっと横目に彼を睨んだ。
「ジョシュアの部屋は陽入戸が開きっ放しだったんだ」
慌てたカデンツァが口早に話すと、彼女は「不用心ねぇジョシュも」とだけ呟く。彼女の視線が再び前方を捉えたのを見て、彼はほっと息を吐いた。ルアンが自分の思考を聴かれて怒っていたから、カデンツァは彼に対しては気にしたものの、他の妖精に対して夢遊想を使う事は、特段気にしていなかった。他者の夢に勝手に入り込む夢遊想が、とんでもないプライバシーの損害であることに気がついたのは、ジョシュアの夢に入り込んだその後のことだった。
ジョシュアの夢の中。そこで彼はエリーと幸せそうに過ごしていた。夢の中に入ってきた本物のエリーではなく、ジョシュアの夢で作られた幻のエリーと。その光景があまりにも幸せそうで、カデンツァは夢の中のジョシュアに話しかけられなかった。少しだけその様子を見届けた彼は、胸に罪悪感を抱えながら、入ってきた時と同じようにひっそりと夢の扉を開けてその場を後にしたのだ。
本物のエリーはルアンの夢に遊びに行ったというのに。カデンツァはジョシュアが不憫に思えて、深く溜息を吐いた。
ホームに着いた二人は下降して速度を緩めた。暗がりの森の中を暖かな光のオーブが照らし出すホームは、たくさんの妖精で溢れている。その中にセテアスやインファの姿を見つけて、カデンツァはにっこりと手を振った。
「こんなに賑わってるホーム、初めてかも」
彼は一人呟いて周囲を見回した。光の妖精や風の妖精、水の妖精。大地の妖精に炎の妖精まで。魔法使いの妖精以外の全ての妖精が集ったかのような光景に小さく口笛を吹く。彼ら二人のように何処からか戻ってきて食事処へ向かう妖精もいれば、食事処から樹へと帰る妖精もいた。
「ルエナじゃない!」
食事処に着くなり、ジェシカは大きな声を上げた。
「それにルジェラも! もう任務から帰って来てたのね!」
キノコの上に向かい合って座るショートヘアの二人組の元へと、ジェシカは勢いよく飛んだ。急いでその後を追いかけたカデンツァは、彼女の隣に並んだ。
「久しぶり、ジェス。相変わらず元気そうね」
ルアンと同じ白亜色の中に鈍色の束が混ざった髪をした彼女は、ジェシカに微笑みかける。鈍色の瞳をふっと動かした彼女は、カデンツァを見た。
「ルアンから何度かアパレスをもらっててね、話は聞いてる。ルエナ・クライスよ。聞いてると思うけど、ルアンの双精で天操能力者。こっちは——」
ルエナが示した先。彼女の向かいに座していた妖精は、カデンツァをじっと見つめた。頭の天辺から爪先まで見つめて、小さく息を呑む。驚いたかのように目を丸くした彼女は、ぽっかりと開いた口を隠すように手を添えた。
「ルジェラ? どうかした?」
ルエナが声を掛けたものの、彼女は相変わらず声を失ったままだった。彼女の手にしていたブルーベリーがボトリと落ちて、大地に青く染みをつくる。よろけるように立ち上がった彼女は、その瞳を涙で潤ませてカデンツァに抱きついた。
「え? あっと——」
戸惑いにカデンツァは声を上げて仰け反った。彼は助けを求めるようにジェシカを見たが、彼女は眉間に皺を寄せているだけで、助けに入ってくれるような素振りは全くなかった。抱きついたルジェラは、彼の肩に顔をうずめてカデンツァの群青色の上着を藍色に染めた。
「ルジェラ?」
ルエナが詰めるように声を掛けると、ようやく彼女は我に返ってカデンツァから離れた。
「あ、ごめんなさい。わたし……」
涙に腫れた瞳を煌めかせて彼女は数歩後退ると、そのまま後ろ向きに飛び去ってしまった。
「なんだったの、あれ?」
どこかピリついた声でぼやいたジェシカは、悪態をつきながら食事処の中央へと飛んで行った。カデンツァは何が起こったか全く分からず、その場に立ち尽くしている。姿の見えなくなった彼女の後をじっと見ていたルエナは、首を横に振った。
「驚いたと思うけど、気にしないで。あの子、未来が視えるんだけど、たまにそのせいでちょっと変だから」
彼女は補足するように話すと、はあ、と息を吐いた。
「そういえば、名前を聞いてもいい?」
気を取り直すように尋ねた彼女はバツが悪そうに笑った。
「ルアンから聞いてたとは思うんだけど、名前覚えるの苦手なのよね」
「会うのは初めてだしね。俺はカデンツァ・ベクレル。よろしく」
彼は微笑むとルジェラが座っていたルエナの向かいに腰かけた。
「ルエナたちが戻ってきたってことは、ジョシュとルアンは任務に出るんだよね」
「そうかな。任務報告に行ったときにエレンもそんな話をしてたっけ」
彼女は半分ほどまで食べていたブルーベリーを齧った。ブルーベリーの青い汁は滴ると同時に宙へ浮く。彼女はそれをジュースのように飲んだ。
「食事に来たんでしょ? いいの? 取りに行かなくて」
「そうだね」
立ち上がろうとした彼の目前に真っ赤な果実が差し出される。カデンツァが見上げた先にはジェシカが立っていた。
「はいこれ」
「あ、ありがとう」
片方のイチゴをカデンツァに渡すと、彼女はもう片方のイチゴを手に二人の間に座り込んだ。
「へぇ、あんたが世話を焼くなんてね」
ルエナは彼女を見るとニヤッと笑った。
「なによ」
「べつにぃ?」
二人のやり取りにカデンツァは首を傾げながら、ジェシカからもらったイチゴを頬張った。酸味の効いた甘酸っぱい味が口の中にじゅわっと広がる。溢れた果汁をルエナのように飲むことのできなかった彼は、キノコの上に甘酸っぱい雨を降らせた。果汁の伝った跡を手の甲で拭った彼は、そのおいしさに微笑を溢した。
「だから早く戻ってきてって言ってるんじゃない!」
突然、食事処中に響き渡った声に彼らは一斉に振り向いた。見ると、食事処の入り口でエリーがルアンの腕にしがみついている。その光景はもはや珍しくないのか、カデンツァ以外の妖精はすぐに日常へと、それぞれの会話の中へと戻っていった。齧ったイチゴに残る固い果実を噛みしめながら、彼はぼうっと二人を眺めた。
「言ってるじゃないか、相手はAランク級なんだ。すぐに倒せるような手合いじゃないって」
「そんなのルアンなら一ひねりで簡単に倒せちゃうでしょ!」
「バカを言わないでくれよ。そんなに強かったら困ってはいないさ」
ルアンはエリーを振りほどこうとしながら、一歩一歩足を引きずるように飛んでいる。対してエリーは彼が逃れようとするほどに、きつくしがみついた。
「やあルエナ。戻ってきたようだね」
すっかり疲れた様子のルアンは、三人の前に舞い降りるとそのままその場に座り込んだ。
「ええ、変わらず大変そうね」
「だってルアンったら今夜発つって!」
同情するというよりも、他人事のように呟いたルエナにエリーは食い掛かる。ルアンは溜息を洩らした。
「少なくとも、今夜って決めたのはエレンであって、ぼくではないし。今でなくとも、いずれ来ることだから、文句を言ったところで仕方ないだろう?」
「だから任務に行くならわたしも一緒がいいって言ってるのよ!」
「ならランクを上げなさい。言っておくけど、今のあんたじゃAランクなんてほど遠いわ」
ルエナは突き放すように冷たく言い放つ。対してエリーも不満があるらしく、さっきまで離れずしがみついていたルアンから手を放して腕を組んだ。
「それじゃ言わせてもらうけど、能力なしでAランク以上なんて無理な話よ。そんな風に言うんだったら、能力を使わずに魔法試験を受けてみればいいじゃない。じゃなきゃフェアでもないし、そうすれば分かるはずよ。あんたも実はわたしたちとそんなに実力差がないってことが」
反論するエリーを宥めるように、ルアンは彼女の肩に手を置いた。反発を浴びたルエナは何も言わずに瞼を閉じると、落ち着けるように深く息を吐く。ピリピリとした嫌な空気にカデンツァは口をつぐんだまま、掲げていたイチゴを膝元に下した。
「おいおい、嫌な空気だなぁ」
聞こえた馴染みある声にカデンツァは顔を上げた。
「うちには思考聴力と天操能力をもった新精がいるんだぜ? 和やかにいこうよ、なあ?」
ジョシュアはそう言うと、カデンツァにウィンクをした。カデンツァは暗闇の中に明かりが灯ったような安心感を覚えて、兄を見て微笑んだ。ジョシュアの後ろからは、ひょっこりとティアサーが顔を覗かせる。
「べつに、わたしは波風を立たせるつもりなんてなかったけど」
ルエナは立ち上がると、スカートをパンパンと叩いて汚れを払った。
「あなたがVね? 奇跡の片割れの」
彼女はジョシュアの横に並ぶと、ティアサーに声を掛けた。尋ねられた彼はこくりと頷いた。
「ティアサー・ベクレルって言います」
「そう、よろしくティアサー。わたしはルエナよ」
彼女は振り向いてカデンツァを見遣った。
「二人とも、未陽日からはジョシュとルアンの代わりに、わたしとルジェラが修練の相手をするから」
彼女は再びティアサーへと視線を戻した。
「わたしはルアンより厳しいと思っていなさい。ティアサー、まずはあなたの修練から始めるから、未陽日の暁にここへ集合するように」
「分かった」
「それじゃ」
彼女はそのまま食事処を後にした。カデンツァの隣でジェシカの、はあと小さく息を吐く音が聞こえた。彼が見遣ると、彼女は静かに首を横に振った。
「いやね、まったく」
それだけ呟いた彼女は残ったイチゴを一口で頬張った。
トントントン
扉が叩かれた音にカデンツァは驚いて振り向いた。いつも陽入戸を叩くティアサーが部屋の扉を叩いている。珍しく思いながらも彼は部屋の扉を開けた。
「あ、合っててよかった。ジョシュに訊いたらここだって言ってたから」
「え……っと。ルジェラ? で、合ってる?」
扉の向こうに立っていた予想外の相手に彼は驚きを隠せなかった。鈍色の髪に数本混じった白亜色の髪。ルエナと反対の髪色をしたショートへアの彼女は、はにかんだ笑みを湛えて小さく頷いた。
「あなたに話したいことがあるの。良ければ来てくれない?」
彼は陽入戸に目を遣った。いつもならとっくに来て、陽入戸の縁に腰かけているはずのティアサーが今陽日はまだ来ていない。彼は悩んだ挙句、弟がいつでも入って来られるように陽入戸を全開にして部屋の外へと出た。
クライス家の部屋の扉はベクレル家とは意匠が異なった。ベクレル家の扉は月の変形を表すようであったのに対し、クライス家の扉は抽象的だった。ルアンの扉は大きなダイヤ型が一つだけ。二つ目の扉は中ぐらいのダイヤ型が二つ横に並んでいる。そして、ルジェラが明けた三つ目の扉には、少し小さなダイヤ型が三角形を描くように配置されていた。
「光よ(シア)」
彼女は自分の部屋に入るなり、呪文を唱えて明かりを灯した。光によって照らし出された彼女の部屋はこぢんまりとしていて、寝台や主だった家具は隅っこにちんまりと置かれている。高い位置に設置された陽入戸はティアサーの部屋にあるものと同じくらい小さかった。
「すごく狭い部屋だね」
思わずつぶやいたカデンツァに彼女は笑った。
「部屋はそれぞれの個性を映すのよ。わたしは狭い方が落ち着くの」
小さな丸い椅子に座るように促されるまま、彼は腰かけた。
「さっきは驚いたでしょ。ごめんなさいね、わたし、つい」
「いやいいよ。スクラグのおかげで〝熱烈な歓迎〟には慣れてきたところなんだ」
彼のジョークに彼女はふふっと笑った。
「ルジェラ・クライスよ。よろしくね」
彼女は微笑みを湛えたままに彼に向かって手を差し出した。
「カデンツァ・ベクレル。よろしく」
彼も微笑で応えると彼女の手を取って握手に応えた。
「実は任務の間、ルアンから何度もアパレスが届いてね」
握手の手を解いた彼女は話を始めた。
「わたしの能力は未来可視。ありとあらゆる未来が視えるから、よく未来に関して予言をするの。特にルアンとジョシュ相手にすることが多いけど。だから今回の新精誕生についても予言をしてたんだけど、最初にルアンから来たアパレスは【予言にはなかった妖精がいる】って話だった」
彼女はふふっと笑うと、彼を見つめた。
「その後から届いたのは【結界の使い手だ】って話。ルアンの浄化すらも跳ね返されたからってジョシュからアパレスが届いたわ。あなたのその能力、視せてもらえる?」
「たぶん、視えないと思うけど」
カデンツァはそう言いながらも結界を広げた。彼女の目の前まで。
「今、変形をさせた。俺にはルジェラの前に白い光が視えてるんだけど、どうかな?」
彼女は唇の端を広げると、首を横に振った。
「視えないわ。本当に、何にも」
彼は力を抜いてスルスルと結界を元の形状に戻した。結界の位置を確認した手元から視線を上げると、彼女が再び涙ぐんでいることに気がついた。
「大丈夫?」
「えぇ、平気よ……もう、最っ高なくらい」
彼女は破顔して答えた。言葉や表情とは裏腹に次々と零れる涙を掌の付け根で拭いながら。
「じゃあどうして泣いてるの?」
少しばかり躊躇したカデンツァだったが、好奇心には勝てなかった。思わず尋ねてしまった彼に「そうね」と応じた彼女は、ようやく落ち着いてきた涙を煌めかせて微笑んだ。
「ハメストロニスって聞いたことはある?」
「ないよ」
彼の答えに彼女は唇を噛んで頷いた。
「じゃあ、Vやカナンは?」
「カナンがデュエルを乗っ取っている妖魔で、Vであるティアサーがカナンを倒す役目を担っているってことは聞いた」
「そう」
彼女は深呼吸をすると口火を切った。
「ハメストロニスっていうのは、いつかVがカナンを倒す陽日のことよ。つまり、ティアサーがカナンを倒す時ね。それで、わたしがあなたに話したかったのは、まさにハメストロニスとティアサーについてなの」
「どんなこと?」
思わぬ話にカデンツァは前のめりになって尋ねた。
「まず最初に、これから話すことは誰にも言わないって約束できる? 変だと思うけど、未来を……特にどうなるか分からない流動的な未来について誰かに話すのって、すごく危険なことだから」
「約束する」
カデンツァはいつになく真摯な眼差しでじっと彼女を見つめた。鈍色の瞳の中では決意が固まったらしく、彼女は自分を律するように再び深呼吸をした。
「さっき、未来が視えるって言ったけれど、わたしに視えるのは幾千万もの可能性の束よ。あらゆる未来の方向に向かって、数えきれない可能性が進んでいるの。一つの未来に対して幾千もの可能性があるのよ。例えばハメストロニスの迎える未来にも一万もの可能性があったわ。その一万の内、明るい未来を迎える可能性がいくつあるのか——シュエルが亡くなってから、わたしはずっとルアンやジョシュと、その話ばかりしてきたの」
彼女の話にカデンツァの眉が傾いだ。彼女の話を疑ったわけではないが、あまりにも永い時間が経っていることに驚いたのだ。
『シュエルはもう数百周季も前に亡くなったっていう話だったけど』
「それからずっと?」
「ええ、もう疲れちゃった」
確認するように尋ねたカデンツァに、ルジェラは弱々しく微笑んだ。吐いた溜息とともに彼女の口元からは笑みが消えた。
「一万あったのよ、可能性が。そしてその内明るい未来が視えたのは、ほんの僅か——いいえ、それならまだよかった。ハメストロニスが近づくにつれて、可能性の数がどんどん減ってきたの。今じゃもう、幾らかしか残っていないのよ。そして、どの可能性も決して誰もが幸せになれるような満ち足りた未来じゃない。一番良い未来でも、少なくとも一人は誰かが死ぬことになる」
彼女の瞳は虚ろだった。あまりにも恐ろしいこの予言にカデンツァは息を呑んだ。
「その一人って」
少しの間があった後、ようやく声を取り戻したカデンツァは恐る恐る尋ねた。
「誰なの?」
「正確に〝誰〟とは言えない。ただ、わたしに視えるのは、あくまでもハメストロニスで死す存在が一人だということ。それだけ」
含みを持った彼女の口調に彼はじっと彼女を見た。
「それじゃ、ハメストロニス以外でも……?」
「さぁ。詮索はしない方がいいわ、特に未来の話はね」
カデンツァの持つ結界とはまた違った種類の壁が張られたような感覚がして、彼は口を閉ざした。
「話した通り、わたしには未来が視える。どんな未来も。燦然たる輝かしい未来も、悲しみと絶望しかない悲惨な未来も」
それまで俯いていた彼女はパッと彼を見た。その瞳には小さな輝きが宿っていた。
「だけど、わたしがこれまで視たどの未来にもあなたはいなかった」
カデンツァの瞳が大きく見開いた。驚きに開いた口は一度閉じると、声を出すために咳を溢した。
「ハメストロニスも? その他も、一度も?」
彼女はまた嬉しそうに口端を上げて頷いた。
「誕生すら分からなかった。だからわたし、ルアンからあなたの存在を聞いて初めて希望を持てたの。もしかしたら、わたしには視えなかった未来が、ハメストロニスを乗り越えた先の未来をもたらしてくれるんじゃないかって。あなたはわたしには視えない可能性の未来を持った存在。だから、わたしは敬意を込めてあなたをこう呼ぶわ〝奇跡の妖精〟と。あなたはわたしの——未来への希望」
ルジェラの目が揺らいで、再び涙が零れ落ちていく。まだ驚きの中にいたカデンツァは、彼女から発せられたその言葉に息を呑んだ。
「誕生したばかりのあなたに、こんなことを願うのは酷いことだって分かってはいるの。でも、許されるなら——ほんの少しでいい。薄らとでも構わないから、未来を明るく描き直してほしい。わたしには視えなかった未来の可能性を見出して欲しい」
彼女から発せられた言葉は、雪のようにしんしんと降り積もっていく。カデンツァはしばらくの間、無言だった。彼は何も口にすることなく、ただぼぅっと掌を。その身に纏う結界の白い光を眺めていた。心の中の泉も頭の中の考えも真っ白で言葉は浮かんでこなかった。ただずっとどこかで引っかかっていた何かが解けたような、そんな不思議な感覚だった。
「ずっと思ってたんだ」
何をどう話そうか、そんなことも考えずにただ感じたままの言葉を彼は口にした。
「どうして俺には結界があるのかって。どうして残っている過去可視者の呪いを受けずに、結界という祝福を与えられたのかって」
カデンツァは視線を上げた。
「今の話を聞いて、なんだかその答えが分かった気がした」
ルジェラはそっと頷いた。
「ティアサーについて話すと、彼はVとして多くの呪いを受けすぎているの。その呪いは彼を容易く死へと導くわ。わたしの視た未来ではどれも、ハメストロニスまで生きられるけれど、その後はすぐに絶えてしまうの」
瞼を閉じた彼女は深く溜息を吐いた。
「過酷な運命を背負わせてしまった彼に対して、罪滅ぼしにはならないけれど。せめて彼のその運命を変えたいのよ。ハメストロニスのための道具なんかじゃない。彼には自分の人生を生きてほしいから」
彼女の想いを受け止めるように彼は頷いた。
「ティアサーは俺の弟だ」
彼はそう呟くとニヤッと笑った。
「だから俺が絶対になんとかする」
「どこに行ってたの?」
カデンツァが部屋に戻るなり、陽入戸の縁に寝そべっていたティアサーは不満げに尋ねた。
「ジョシュアが任務に行っちゃう前に話しに行こうって、せっかく誘いに来たのにいなかったし。仕方ないから僕一人で行って、戻ってきてもまだいなかったし」
「ごめんな」
謝ったカデンツァは、寝台ではなく陽入戸のすぐ横の壁にもたれかかった。月明りに照らされたティアサーの髪は雪花石膏色に煌めいている。カデンツァにはまるで、儚い命が燃えているように見えた。
「どうしたの?」
いつもとは異なる兄の様子にティアサーは違和感を感じて尋ねた。
「いいや、何でもないよ」
カデンツァはそれだけ言うと、ジョシュアやジェシカがするように、弟の頭をくしゃくしゃと撫でた。ようやく彼らがその仕草をする気持ちが分かったような気がして。




