⒙ 旅立ちの時
[唄う野原]は、最初にカデンツァとティアサーが魔法試験を受けた時よりも、より多くの妖精で溢れていた。初回は生物の妖精しかいなかったその顔ぶれは、風の妖精や光の妖精をはじめ全ての妖精がそろっている。張られた血の輪の外の小高い丘には、エレガノ女王にルエナにルジェラ、それから既に試験を終えて、休憩しながら血の輪を見守るティアサーの姿があった。地面に座り込んでいる彼は、組んだ足越しに妖命樹と戦っている兄の姿を見ていた。初回の試験と比べると危なっかしさはなくなり、魔法が使えるようになった分、逃げ腰ではなくなっている。むしろ、カデンツァは敵の攻撃を避けながらも真向から戦っていた。
妖命樹の攻撃を避けた彼は、間合いを取るようにさっと飛び退くと、妖命樹に向かって掌を向けた。
「歪もたらさん(レジア)」
彼の掛けた圧力魔法に妖命樹は聞くにも耐えない悲鳴のような音を上げる。四方八方に伸びていた蔓は地面に叩きつけられ、キシギシと痛みを上げながら地面にめり込んだ。一部の蔦は圧力魔法から逃れたらしく、大地をボコボコと隆起させながらカデンツァの背後へと迫った。大地から勢いよく飛び出た蔦は、背中を向けているカデンツァへと襲いかかった。しかし——。
カデンツァが妖命樹の攻撃を浴びるその寸前に、彼は掌をさっと動かして結界で蔦を弾いた。彼の結界はルアンとの特訓の末、ようやく物質的な攻撃をも弾き返すことに成功したのだ。
彼が弾き返した蔦は圧力魔法を掛けている一帯へと放り込まれた。彼は自分への影響がないように、妖魔との間に結界を広げてから、大きな声で唱えた。
「霧と(ナ)散れ(イシュ)」
呪文と共に妖命樹は一瞬にして木っ端微塵になった。それでもカデンツァは結界の手を緩めず、続けて次の魔法を作り描く。
「火炎放たれん(マディファーレ)」
彼の掌から火炎が渦を巻きながら溢れ出し、まるで放水するかのごとく妖魔を焼き尽くさんと広がっていく。炎が消えた時には、妖命樹が燃えた跡も灰すらも、すっかり消えてなくなっていた。
ピシビシピシ、バリン。
血の輪の割れる音を聞いて、カデンツァは血の輪の中央から外側の観衆へと振り向いた。少し疲れた様子の彼だったが、試験を終えて迎えてくれた溢れんばかりの歓声や拍手に照れくさそうに笑みを浮かべる。彼は丘の上にいる魔法使いの妖精たちの面々を見ると、にこっと笑ってお辞儀をした。そんな彼の目前に泡が現れる。微笑を打ち消した彼は神妙な面持ちでそれを割った。
【カデンツァ・ベクレル。魔法試験第二回。結果、ランクEs。速度値Es、戦術D、技術Es、損傷A】
試験の結果を聞いた妖精たちからの拍手や指笛が[唄う野原]に響いた。二人の試験を見ていた彼らの興奮に満ちた声は、鳴り止むことを知らなかった。女王やルエナたちも満足そうに頷いているものの、カデンツァは一人溜息を吐いた。
先に試験を受けていたティアサーのランクはF。またしてもティアサーの方が秀でていたのだった。
「まずはお二人とも、魔法試験お疲れ様でした」
エレガノ女王の言葉にカデンツァとティアサーは深く礼をした。試験を受けた[唄う野原]から場所は移り、ここは[輝きの入江]に建つ女王の栖。その謁見の間に初めて足を踏み入れたカデンツァは、最初落ち着かない様子で周囲を眺めていた。まるで彫刻のようにレリーフが施されたガラスの壁は、その向こうにある海の穏やかな美しさを半透明に現して、謁見の間の床や天井に美しい光の模様を描いている。ルエナに睨まれなかったら、もう少し細部まで見てみたかった彼だったが、今は落ち着いて話を聞くことにしたのだった。
「——ので、任務についてご説明しますね。任務は基本、ペアで臨むことになります。行先は地球の過去か未来のいずれか、討伐する妖魔がいる時間と場所に合わせることになります。過去の場合は[沈む湖]から、未来の場合は[神秘の滝]から、それぞれ出発します。任務中は以下のことを遵守してください。一つ目は、地球で起きる出来事に干渉しないこと。もう一つが、不用意に人間と関わらないことです」
カデンツァの隣からするりと手が挙がった。女王は挙手をしたティアサーを見ると、微笑を湛えた。
「どうなさいましたか?」
「任務にため地球の過去へ行くのは理解できます。現在軸で存在しないはずに妖魔が現れたことによる影響を防止するためだって。しかし、未来にいくのはなぜです? 未来が現在になった時、妖魔は存在できないのではなかったのですか?」
疑問に満ちた彼の問いかけを受け止めるようにエレガノ女王はゆっくりと頷いた。
「その通り。正確にお伝えするのであれば、地球の未来に誕生した妖魔は、現在になると妖魔としての姿を保てなくなります。代わりに妖魔は本来存在しなかったはずの病に姿を変え、あらゆる生物に影響を及ぼすことが分かったのです。未来への任務はその防止が目的となります」
「なるほど、未来に行く理由は分かりました」
ティアサーはそう答えたものの、まだ少し何かを考えるように耳たぶを引っ張った。
「じゃあどうして現在になると妖魔は姿を変えるの?」
「波長が合わないからよ」
カデンツァからの問いに今度はルエナが答える。
「そもそも地球の波長は、完全な生命体ではないわたしたちや妖魔にとって、相性が悪い。未来や過去でしか妖魔も妖精も知覚されないのは、そのせいね。対してヴェルスヴィーナの現在の波長は妖精にも適合する。精霊が棲まう場所として造られただけあって、色々特殊なんでしょうよ」
「だから妖魔も来れてしまえる」
ティアサーの一言に謁見の間の空気がピリッと引き締まった。
「そうね。あんなの、できればもうご免だわ」
冷ややかな声で彼女は呟いた。空気を変えようと女王は咳払いをした。
「他にご質問はありますか? なければ、今回の任務説明に話を進めますが」
彼女の声にカデンツァとティアサーは揃えて首を横に振った。彼らの様子を見た女王は「それでは」と話を続けた。
「カデンツァ・ベクレル。ティアサー・ベクレル。あなた方二人に渡します最初の任務は——」
エレガノ女王の掌から細やかな光が溢れ出る。カデンツァはその手元をよく見ようと、前屈みになった。彼女の掌から溢れ出た光は、謁見の間全体を一瞬明るく満たすと、兄弟と女王の間に青白く光る妖魔の姿を形造った。
「現在から二七三周季先のラレンダに現れた妖魔アクババを討伐すること」
青白い光で造られたアクババは、一見、禿鷹のような頭部に羽毛の少ない有翼生物に見えた。違う点を挙げるとすれば胴体の部分が丸々と太っていて、曲がった爪にはギザギザと棘のようなものが付いていること。全体的に大きく、その嘴は前に立つカデンツァすらも飲み込めてしまいそうな程だった。
「これは実寸大ですか?」
「あなた方が人間と同じ大きさだとした場合の実寸大です。妖精としての大きさで比較すると、この建物に収まりきりません」
女王の返答を聞いたティアサーは、この妖魔の幻の周囲をクルクルと飛び回った。一方、カデンツァはじっと観察するように妖魔を見つめた。恐ろしい見た目ではあるが、どこか何かを嘆いているような、そんな不思議な感覚を受けたのだ。
「特徴は、誕生間もない産子を食べて生きながらえること。攻撃力や守備力が高いわけではありませんが、口は立つようです。ランクはEsですが、本来の実力だけを考えればDの方が妥当でしょう。ランクをEsとしたのは、思考を聴く力があるためです」
「思考を聴く?」
驚いたカデンツァは思わず声を上げる。彼はサッとティアサーを見遣ったが、弟はピクリと反応しただけで、なにも言葉にはしなかった。ティアサーは女王の話の続きを待つように、じっと彼女を見つめた。
「生まれ持った力なのか、それとも後から得た力なのかは不明です。ですがその力は、ティアサーやジョシュアの持っているものと同じものだと想定されます」
言葉を切った彼女は、ルエナとルジェラを見遣った。
「お二人をお呼びしたのは、任務へ赴くことへの相談をするためです」
「なるほど。相手が思考聴力者では、わたしやルジェラが同行するのは賢明ではないからね」
ルエナの言葉に女王は頷いた。
「それにヴェルスヴィーナに残る魔法使いの妖精の確保も必要です。不測の事態が起きた時や任務に出ている魔法使いの妖精から、助けを求められた場合に動ける者として、常に魔法使いの妖精二名は、ヴェルスヴィーナに残ることがしきたりとなっています。ジェシカとエリーは、レベッカたちの任務の応援に加わっていただいたので、ヴェルスヴィーナに残る魔法使いの妖精は現状、ここにいる者しかいません。つまり、今回の任務に出られるのはこの中から二人だけ」
エレガノ女王はカデンツァとティアサーにも分かりやすく話をすると、眉間に指を突いて悩まし気に声を漏らした。
「わたしかルジェラのどちらかが、カデンツァかティアサーと任務に行ったとして、任務に行ったクライス家は思考を読まれて迷惑を掛けるし、残った方は不測の事態が起きたとしても、対応しきれるか分からない。万が一、任務中の誰かからか助けを求められたとしても、そもそもランクA級の任務に出てるルアンたちの元にどちらかを連れて行くわけにも、既に五人も動員してるウィルソン家の任務に連れて行くのも難しいでしょうし。どっちの任務もまだまだ時間が掛かりそうだしね」
ルエナはぼやくと溜息混じりに女王を見た。
「他にもっとやりやすそうな妖魔はいないの?」
「慣れているならともかく、他は初戦には厳しい相手かと」
ほとほと参った様子の女王から、彼女は隣にいる妹へと視線を動かした。
「ランクを考えれば無理な相手じゃないし、共倒れするんだったら、今回の任務はベクレル家の二人で行った方がいいってわたしは思うんだけど。ルジェラはどう? 何か視える?」
ルジェラは静かに首を振った。
「何も。カデンツァが関わるから全体的に霞掛かって何も視えないの。でも、一人の人間の姿は視える」
「人間?」
怪訝そうに尋ねたルエナに彼女は頷いた。
「この人間をどう扱うかどうかが鍵になりそうね。それ以上のことは不明確すぎて言えないわ」
「人間、ねえ」
ルエナは呟くとカデンツァとティアサーを見遣った。
「二人はどう? この任務、あんたたち二人で行くか、それとも今任務に出てる誰か——できればジョシュが戻るまで待つか」
カデンツァとティアサーは顔を見合わせた。もう既に二人の答えは決まっていた。
「もちろん行くよ」
「ランクはEs、僕もカデンツァも討伐できるランクだ。行かない理由はないよ」
二人の答えに息を吐いた女王は頷いた。
「それでは、今宵の暁時に[神秘の滝]へ来てください」
任務の準備を終えたカデンツァは、どさりと寝台にもたれた。仰向けになって見えた天井は夕暮れ後の薄暗い光を宿している。魔法試験を終えた身体はクタクタで、もう一歩も動きたくなかった。息を吐くと、彼は瞼を閉じた。真っ暗になった視界の中には声が響き渡る。ルエナの声、エレガノ女王の声、ルジェラの声、ティアサーの声——。女王の栖で話した言葉が切り取られて、頭の中を交錯していた。二人の初陣を心配する女王の声や、自信に満ちたティアサーの言葉。二人で任務に出ると決めた時の、興奮に少しうわずった声が。目は瞑ったまま、彼の口端が綻んだ。ようやく任務に出る時が来たという、その事実が嬉しくて。どっと疲れの溜まった手足とは裏腹に瞼は異様なまでに軽かった。興奮が彼の中でひとりでに騒ぎ立て、はやる気持ちを抑えきれずに、彼はパチっと瞼を開いた。寝返りを打って見えた視界の先には小さな台があり、任務用に用意したポシェットが乗っている。中には念のためにとルジェラに分けてもらった浄化石や、ルエナにあると便利だからと渡された針が入っていた。
『どんななんだろう、任務って。地球って』
彼は再び瞼を閉じた。地球や任務に出る様子を想像してみたくて。
『地球はヴェルスヴィーナの兄弟星って言うし、似てるとは思うんだけどな』
彼の脳裏にはセテアスの悲嘆に暮れた表情がよぎった。[終焉の始まり]を嘆く彼女の姿が。
『地球に行くのは妖魔を倒すため。だけど、向こう側からも何かできることはないのかな?』
考えたところで彼には分からなかった。彼はまた瞼を開いて、今度は陽入戸を見た。
『ティアサーはもう寝たのかな? なんだか気分が落ち着かないのは、やっぱり俺だけなのか』
はあ、と息を吐くと、カデンツァは起き上がった。足は寝台から床へと下りる。陽入戸を開けて空気を入れ替えようと思ったのだ。それで寝られるようになるかは分からなかったが、何もしないよりはずっとよく思えた。立ち上がった彼は壁面へと歩むと、円形を描いた戸をガタリと引き上げた。驚くことに、陽入戸を開いたその向こう側の縁にはティアサーがいて、彼はぼうっと夜空に浮かんだ満月を眺めていた。彼は陽入戸が開いたことに気がつくと、振り向いて驚いたように目を細めた。
「もうとっくに寝たのかと思えば」
彼は呟くと兄に微笑みかけた。
「寝れないんだよ」
「そっか」
彼はふっと笑うと、再び月を見上げた。
「僕もさ」
カデンツァは闇夜を銀色の光で照らし出す月を、じっと見つめた。その月の向こう側に弟が見ている何かを見つけようとして。
しばらくの間、二人はそうして月を見ていた。夜の静かな空気の中をゆるりと風が吹き込む。
「いつからそこにいたの?」
「兄さんが陽入戸を開ける少し前かな」
再び柔らかな風がふわりと吹いて、ティアサーの雪花石膏色の髪を銀色に煌めかせた。
「任務に行ったら、こんなふうにしてられないだろうなって思って」
彼は穏やかな時を愛でるようにゆっくりと息を吸い込んだ。空気が抜けていくようにその肩が下がっていくのを横目で見ながら、カデンツァは冷えてきた足先を手で温めた。
「還ってきたら、いくらでもまたできるよ」
兄の言葉に彼はふっと笑った。
「そうだね」
それでもなお惜しむようにティアサーは月を見ていた。結局カデンツァには月の向こうに何があったのか分からなかった。
ようやく昂る気持ちが落ち着いて、カデンツァが眠りに落ちたのはそれからしばらく経ってからだった。ティアサーが自室に帰った後、陽入戸を開け放したまま寝床に潜り込んだ彼は、徐々に白ばんできた空の明るさに目を覚ました。
「水よ(オス)」
欠伸混じりに唱えた呪文は起き上がった彼の前に水球を浮かべる。彼はもう一度欠伸をすると、水の中に顔を埋めた。朝日を浴びる前の空気から作った水は身震いするほど冷たく、一瞬でスッキリと起きた彼は、水球から顔を離すと同時にブルッと震えた。
「霧と(スパ)なれ(ルジャン)」
水球と顔を濡らした水を空気に還すと、彼は履物を履いてポシェットを腰からぶら下げた。大きく伸びをしながら陽入戸に近づくと、開き放していた戸を閉めて、部屋の戸口へと向かった。
地球の未来につながるという[神秘の滝]。その滝裏は洞穴になっていて、カーブを描く岩肌を無数の鱗のようなカケラが覆っている。浮かべられた光球の明かりを七色にキラキラと反射するそのカケラを手に取り、女王は呪文のような言葉を唱えた。
「これはヴェルスヴィーナと地球を往来するために必要となります」
エレガノ女王はそう言うと、そのカケラを一つずつ兄弟に手渡した。
「空間だけなら往来に危険性はありませんが、時間も超えることになるので、お一人ずつに必要です。決して失くさないよう、地球に着いたら仕舞っておいてください。いいですね?」
彼女の言葉に二人は頷いた。カデンツァは渡されたカケラの角度を変えながらじっと見た。キラキラと絶えず光輝くそのカケラ自体は色を宿しておらず透明で、パッと見ただけではツルツルとした光沢感があるように見えたが、実際は指先で僅かに感じる程度の細やかな凹凸が広がっている。
「それでは、ただ今より途を拓きます」
彼は顔を上げて女王を見た。穏やかなその表情の奥には、心配そうな翳りが見えた。
「途を拓けば後戻りはできません。二人とも、ご覚悟はよろしいですね?」
カデンツァとティアサーは互いに顔を見合わせた。もう何を話す必要もなかった。互いの表情が任務に向かうことへの興奮と緊張を雄弁に物語っていた。
「では、途を拓きます。わたくしが呪文を唱え終えたら滝壺へ向かって飛んでください」
彼女は双精が頷くのを見て取ると、瞼を閉じた。
「まだ未ぬ先を歩む者たちよ——」
呪文に呼応して、洞穴のカケラは波を打つように煌めいた。
「——今この地にありし者にその行末を携え渡らせん」
急に光が消えて洞穴は真っ暗になった。ただ一箇所光が灯っているのは水音のする滝壺だけだった。
「充分に気をつけて行ってきてください。ご武運を」
暗がりの中、女王の声が洞穴内に響き渡った。カデンツァは一歩下がると、助走をつけて滝壺へと飛び込んだ。




