⒗ ルアン
ジョシュアによると、[踊る草原]は[輝きの入り江]の向かい。[清らかな浜辺]を左手に飛び続けた先にあるという。樹を飛び出したカデンツァはまず西に向かって飛ぶことにした。
ホームのある[誘惑の森]は、相変わらず秋の心地良い澄んだ空気に満ちていた。カデンツァはゆるりと空を飛びながら、その日差しで温められた冷たい空気を味わっていた。しばらく飛び進めていくと、体つきのいい複数の妖精の影が——風の妖精の姿が目に留まった。
「よぉカデンツァ!」
スクラグは彼に気が付くと大きく手を振った。過陽日の季節変えでティアサーをサポートしてくれていた彼に、カデンツァは敬愛の念を込めて微笑んだ。
「やあスクラグ。今曜日は何をしているの?」
「過陽日は季節変えをしたからな。これから生物の妖精の手伝いで、渡り鳥が飛びやすい風道を作るんだ。今陽日は一人なのか?」
「これからルアンと合流するところなんだ。[踊る草原]で待ってるって」
「そこまで行ったことはあるのか?」
不思議そうに尋ねたスクラグに彼は首を横に振った。
「なら道を教えてやるよ。ここから行くには——」
「あ、ダメなんだ」
善意で教えようとしたスクラグは、彫りの深い眉頭に皺を寄せた。抗議を示すようなその表情にカデンツァは焦って苦笑を浮かべた。
「ルアンが道順を訊いちゃダメって」
「なるほどな、あいつらしい」
「あいつらしいって?」
どこか納得した様子のスクラグに彼は尋ねる。再び穏やかな表情に戻ったスクラグは、彼を見ると微笑んだ。
「セテのような水の妖精や、おれ達風の妖精は調和を重んじるから、分かりやすく優しく教えることを心掛けている。だが、魔法使いの妖精は誰もが厳しい。修練も相当きついって話だ。ルアンはこれまで苦しい思いをたくさんしている。自分のようになってほしくはないから、その分他の妖精よりも手厳しいんだろう。だが、魔法使いの妖精にとっての厳しさは愛なんだ。誤解しないでやってくれよ」
カデンツァは目を丸くしながらも頷いた。スクラグからそんな話を聞くとは思ってなかったのだ。
「それで? いつまでに行かなきゃならないんだ?」
「お昼まで」
「それなら急がないとだな」
スクラグはカデンツァの背を力強く叩いた。彼なりの励ましだろうとは思いつつも、カデンツァは思い切り叩かれて背中が痛かった。
「くじけずに頑張れよ」
「うん、頑張る」
スクラグはもう一度彼の背中を叩くと、仲間たちと共に東に向かって飛んで行った。独り残ったカデンツァは、じんじんと痛む背中をさすりながら再び西へ向かって飛び進めた。
それからはどの妖精と会うこともなかった。落ち葉で満ちた地面の上をリスが走る音や、ホーホーと鳩が鳴く声を聞きながら、彼は森の中を悠々と飛んで行った。ひたすらに飛び続けて行くと、徐々に木々が少なくなっていって開けた草原に出た。
『ここかな?』
緩やかに吹く風が青い草原を波立たせる。踊るように波打つ郡草は、陽光にきらきらと輝いていた。息を吸うと、[唄う野原]の甘い匂いとは違った、爽やかでスッとする香りがする。カデンツァは高度を落とすと、キョロキョロと見回してルアンを探した。しかし、自分の背丈と同じくらいのカマキリや、丸々とした真っ赤なテントウムシはいるものの、ルアンの姿は見つからない。
「ルアン、どこにいるの?」
草を掻き分けながらカデンツァは草原の中を飛び回った。いくら探しても見つかるのはアリやダンゴムシ。空を何かが舞っていると思えば、白い羽を広げたチョウだった。草に囲まれて右に左に飛び回っていた彼は、方向も分からなくなっていた。ただ一心不乱にルアンを探していた彼は、草を掻き分けて進んでいくうちに草原の端に来ていたらしく、スポッと草の壁から抜け出た。
「あらカデンツァ。どうしましたか?」
草原を抜けた先に見えたのは女王の栖だった。栖の出入り口とは反対側の海辺で風に吹かれていた女王は、彼を見ると微笑を湛えながら柔らかな声で尋ねる。
「しかも一人で。ティアサーやジョシュアはどうしたんです?」
「ああ、えっと。俺、今陽日はルアンに魔法を教えてもらうことになって、ルアンを探しているところなんだ。[踊る草原]にいるって聞いてたんだけど」
「なるほど、修練を始められたのですね」
エレガノ女王はにっこりと微笑むと、カデンツァの後ろを指さした。
「[踊る草原]なら、今貴方が出てこられたその場所のことです。ヴェルスヴィーナの各所には、地球や聖星への影響を気にせず魔法使いの妖精が修練に使える闘技場があるのですが、きっとルアンは[踊る草原]の闘技場にいるのでしょう」
「闘技場?」
初めて聞いた単語にカデンツァは訊き返した。女王はゆっくりと頷いて、風になびいた横髪を耳に掛けた。
「[踊る草原]の闘技場には、一切草が生えていません。なのですぐに分かると思いますよ」
「分かった。ありがとう!」
ようやくルアンが見つかりそうな手がかりを聞いて、カデンツァは顔を綻ばせた。
「カデンツァ、ルアンに会ったら一つ伝言を頼まれてもよろしいでしょうか?」
高度を上げるために一度地面へ舞い降りた彼に女王は尋ねた。
「なに?」
「ルエナとルジェラは帰還しているところです。二人が戻られたら、ジョシュアとルアンには任務に出ていただきます、と伝えてください」
「はーい。伝えるね!」
カデンツァは元気よく返事をすると、思い切り地面を蹴って天高く空へと舞い上がった。[踊る草原]は[輝きの入り江]よりも広く、高く飛び過ぎた彼には草の生えていない闘技場がどこにあるのか、全く見えなかった。そこで彼はクルクルと旋回しながら少しずつ高度を落とすことにした。そして見つけた[踊る草原]の中央から少し外れた場所。そこは周囲に生い茂る郡草がまるで嘘のように一切生えていない砂地だった。彼は高度を落とすと、その闘技場の中央にルアンが佇んでいるのを見つけた。
「ルアン!」
空から舞い降りたカデンツァにルアンは顔を上げた。彼らの影は真下より少し西に傾いている。
「まずは合格ラインとしようか」
地面に降り立ったカデンツァを一瞥すると彼は呟いた。
「ちゃんと道を訊かずにここまで来られたかい?」
カデンツァは大きく頷いた。彼の様子にルアンはフッと笑みを溢した。
「なら、修練を始めよう。修練は日替わりで四陽日毎に行う。今陽日はぼくが君の相手をするけれど、未陽日はエリー、その次はジョシュ、四陽日目がジェシカだ。その後はまた僕からエリーに、って順番だね」
「分かった。今陽日はルアンから殺傷魔法を教わるんだよね?」
期待に瞳を輝かせたカデンツァに彼は首を振った。興奮に爪先立っていたカデンツァは、彼の思わぬ反応にシュンと踵を下ろす。
「違うの?」
どこか寂し気な声で尋ねたカデンツァにルアンは静かに頷いた。
「たしかに殺傷魔法はぼくから教えるけれど、それは次回から。多少は魔力が戻ったけれど、まだ全力とはいかないしね。それに今回は君の能力を検証したいと思っていてね」
彼はそれだけ言うと、背後から氷の鎌を取り出した。
「俺の能力の検証って何?」
火事の時にルアンがジェシカに頼んで作ってもらった氷の鎌は、全く溶けることなくルアンの手に馴染んでいる。鎌を構えたルアンから逃げるようにカデンツァは一歩後退さった。
「火事の時、結界を広げた君は炎の威力に耐え切れなかったんだろう? 魔法試験で妖命樹と戦った時にも結界が使えなかったと言っていたじゃないか。第一の試験で妖魔が散布した毒からも逃げ惑っていたようだし、もしかして、物質的な攻撃には弱いんじゃないかと思ってね」
彼の話にカデンツァはハッとした。言われてみれば、最初から結界があったにも関わらず、第一の試験で毒のような気配を感じて逃げていた。結界が限界を伝えたのも火事の炎と妖命樹を相手にした時だけだった。霞掛かっていた視界が急に明瞭になったかのような気持ちで彼は頷いた。
「物質的な攻撃に弱いんだったら、まずはそれを鍛えないといけない。いざと言う時に気絶してしまうようじゃ、能力を使えるとは言えないだろう?」
腰の引けていた彼は、彼の話に頷くと前傾姿勢になった。
「何をすればいいの?」
「まあ、そう慌てないでくれ。確かめることは、もう一つある」
「それってな——」
急にカデンツァの声が途切れた。腹部に激痛が走り、視界は白ばむ。突然の痛みに彼は屈み込んだ。ぬるっとした厭な汗が首筋を通る。うずくまった彼は寒気すらも感じて浅い呼吸をした。ふわっとした意識の中でルアンが何かを呟くのが耳に入った。その次の瞬間、痛みも何もかもが消えた。
「悪いね、少し強すぎたかもしれない」
ルアンは座り込んでハァハァと息を整えている彼の向かいに腰を下ろした。腹部の猛烈な痛みはなくなり、白ばんでいた視野も元に戻ったものの、彼はまだ動けそうになかった。
「何を、したの?」
「殺傷魔法の一つ。表には表れていない内側の局部を握りつぶすようなものだね」
平然と答えたルアンを彼は睨んだ。ようやく呼吸の荒さはなくなったが、腹部はまだ少し痛かった。
「恨まないでくれよ。これがもう一つの検証さ。結界は君の内側まで守るのか、それとも、その表面までなのかを調べなくてはいけないと思ってね。どうやら表面までのようだから、内部を守るためには、結界を基本のサイズより収縮させる術を身に付けないといけないようだ」
カデンツァはまた心の泉に黒い雫が落ちて、淀んでいく感覚を覚えた。それと同時に泉はまるで熱を持ったかのようにふつふつと湧き上がる。
『能力の検証だからって、何も言わずに急に始めるなんて』
じわじわと痛む腹部に手を当てながら、彼は苛立ちに片方の眉を上げた。
「内部を守るって、そんなの必要なの?」
「必要だよ」
苛立った声を上げたカデンツァに対して、ルアンの声は冷ややかだった。同じくらい冷たい視線で彼はカデンツァを見遣った。
「実際、君は殺傷魔法を受けてうずくまった。その怯んだ隙に追撃をされたら、君は即死んでいる。ぼくが指導するのは、そこら辺の妖魔相手の戦い方じゃない。君やティアサーがいずれ決することになるであろう、カナンとの戦い方だ」
ようやく痛みが引いてきて、カデンツァは手を腹部からどけた。
「カナンを想定しておけば他の妖魔は問題ないさ。そして、カナンさえ倒せれば向かうところ敵なしだ」
他人事のように話すルアンは、どこを見ているのやらそっぽを向いていた。カデンツァはそんな彼をじっと見つめた。
『そういえば、ルアンはデュエルを——』
ジェシカに聞いたカナンの話を彼は思い出した。ルアンはデュエルを助けようとしたが、結果的にデュエルがルアンを助けるためにカナンに取り憑かれてしまったのだというあの悲しい話を。
そよいだ風にルアンの白亜色の髪がなびいた。カデンツァの中で湧き上がっていた泉はすっかりと蒸気をなくし、再び穏やかな水面に戻っている。彼の瞳から怒りの念も消えて、吊り上がっていた眉は、悲しむように下がった。カデンツァにはルアンの鈍色の瞳の中にいくつものそうした悲しい過去が写っているように見えたのだ。
「ルアンは前にカナンと戦ったことがあるんだよね」
呟いたカデンツァの声からは刺が消えていた。
「デュエルはどんな妖精だったの?」
ルアンはじろっとカデンツァを見ると、溜息を吐いた。
「ジェシカから聞いたのかい?」
「そんなところ。でも、シュエルもデュエルも俺は会ったことないし、二人がどういう妖精だったのかも分からないから」
ルアンはカデンツァから再び視線を逸らすと、ずっと遠くを見つめた。
「シュエルは今どうすればいいかを考えるようなタイプだった。対して、姉のデュエル未来思考。これからどうするかを念頭に行動するタイプだった。魔法使いの妖精はもちろん、他のどの妖精も何か問題が起きると二人にすぐ相談して、どうすればいいか一緒になって考えた。二人に相談して解決できない問題はなかったよ。誰も思いつかなかった答えが見つかるんだ」
当時のことを思い出してか、彼は穏やかに微笑んだ。初めて見るルアンの表情にカデンツァは思わず彼を見つめた。そこには普段の真面目な硬さはなく、ふわりと広がった口角は彼の本当の優しさを表しているように見える。その朗らかな微笑は、彼の肩が下がると同時に消えてしまった。
「二人がずっとヴェルスヴィーナを支えてくれていた。惜しい二人を失ったよ」
「でも、デュエルはまだ生きている。でしょ?」
ルアンはふとカデンツァを見遣った。
「そうだね。君らには申し訳ないけれど、だからこそ急いてしまうぼくがいるんだ」
溜息を吐いた彼は再びカデンツァから顔を逸らすと、じっとその手を見つめた。
「禁忌の天珠を巡る戦いでも、その後に何度か挑んだ時も。ぼくは何度も自分の不甲斐なさを思い知ったよ。圧倒的な力の差もね。カナンに対抗できたのはシュエルだけだったけれど、あいつも時の呪いのせいで長くないって分かっていたから、〝V〟という強行手段に出たのさ」
ルアンの肩は何かを嘆くようにゆっくりと上下した。
「デュエルは禁忌の天珠が先々の禍になると、シュエルと二人で封印していたんだ。正確にどこに封印したかを覚えていては危ないと、お互いの記憶を消してまで。それなのにぼくらは禁忌の天珠をカナンの手から護れなかった。禁忌の天珠が暴かれてすぐに意識が戻ったデュエルは、ことの次第を知って独りこの地を去ってしまったんだ。これ以上自分が禍をもたらすことのないように」
手をぐっと握りしめて。ルアンは震える息を吐いた。
「ぼくはただ、デュエルにもう一度会いたいだけなんだ。本当の彼女に会って、少しでいいから話を……いや、会えるならそれでいい。それだけで構わない」
力が抜けてルアンの掌がふわりと開いた。ゆっくりと動いた彼の視線はカデンツァを捉えた。
「さっきは悪かったね。君のためを思ってだけれど、急に攻撃魔法を仕掛けたのは良くなかった」
「ううん、もう怒っては——」
「長くなってしまったな。そろそろ修練を再開しよう」
彼はカデンツァの声を遮ると、地面に手を着いて立ち上がった。
トントントントン
陽入戸を軽く叩く音がして、カデンツァはその丸い戸を斜めに引き上げた。
「やあ兄さん」
カデンツァの部屋に灯った黄色い明かりがふわっとその姿を照らし出す。闇夜の深い暗がりから顔を覗かせたティアサーは、もう慣れたように陽入戸をくぐってその縁に座り込んだ。
「どうしたんだ?」
「べつに、ただ話をしに来ただけだよ」
「そっか」
ティアサーはうーんと大きなのびをすると、ニコッと微笑んだ。カデンツァは陽入戸の斜め向かいにある寝台に腰掛けた。
「今陽日はなんだか大変だったな」
彼はルアンとの最初の修練を思い出して苦笑した。無意識のうちに右手は腹部をさすって、左手は右腕を掴む。もう痛みは消えて傷痕も残っていないにも関わらず、違和感があるようにすら思えた。
「どんなことをしたの?」
兄の様子にティアサーは不思議そうに尋ねる。
「どんなことって——」
「さあ、結界を広げてみて。これからぼくが鎌を下ろすから、それから守れるように」
充分に距離を取って氷の鎌を構えたルアンは声を張り上げた。カデンツァは頷くと、妖命樹と戦った時のように球形に結界を膨らませた。
「準備はいいかい?」
「いいよ」
助走を付けたルアンは勢いのままにヒュンと跳ね上がり、カデンツァの真っ直ぐに伸ばした腕めがけて鎌を振り下ろした。彼の腕にすっと痛みが走り、じわじわと広がっていく。カデンツァは堪らず顔を歪ませた。見ると、陽光を浴びてキラキラと輝いた氷の刃が彼の腕を捕らえ、彼の着ている群青色の上着は、じわじわと朱く染まり始めている。ルアンが鎌を収めると、カデンツァは痛みに耐えかねて反対の手でぐっと腕を掴んだ。
「やっぱり物質的な攻撃には弱いようだね」
ルアンは鎌についたカデンツァの血を水魔法で拭った。
「それじゃ、どうすればいいの?」
カデンツァは腕から手を離した。傷は塞がり始めたらしく、どくどくと脈打つ感覚と共に痛みが少しずつ和らいでいった。
「結界が保たない時は、何か特別に感じることがあるかい?」
彼は少しの間考えた。妖命樹と戦った時と炎を防ごうとした時の共通点を探そうとして。考えながら結界を伸ばしては縮め、伸ばしては縮めて——彼はハッとして顔を上げた。
「割れるような感覚」
不意に言葉を漏らした彼をルアンはつと見遣った。
「実際に壊れたりしてるわけじゃないんだけど、ピシビシって音が聞こえて、何かが割れてなくなったみたいに急に消えるんだ。それで同じようなタイミングで頭が痛くなって——」
「気を失う、か」
力強く頷いたカデンツァにルアンは顎に手を添えて目を瞑った。
「もしかしたら、結界が硬いのかもしれないね」
「硬い?」
ルアンは頷くと闘技場の端に自生している[踊る草原]の草を示した。
「どうしてここが[踊る草原]って呼ばれているか気づいたかい?」
「どうしてって……風が吹いて草が踊ってるように見えるから?」
全く関係性の見えない話をされて、カデンツァは戸惑いながらも答えた。どうやら正解だったらしく、ルアンはこくりと頷く。
「風の力に負けていたら〝踊る〟ことなんてできないからね。草には風の力を受け流す柔らかさがあるのさ。逆に草が硬かったら、強すぎる風には耐え切れず、強風で倒れる木のように風に負けてしまうだろう」
ルアンは草からカデンツァへと視線を戻した。
「君の結界は今、木と同じ。ある程度の力までは耐えられるけれど、限界を超えると掛かった力に負けて折れてしまう。そうならないために、草のような柔らかさとしなやかさを身につけなければならないね」
「——ってわけで、身体をほぐして柔らかくするのと同じで、結界もほぐしてみようって話になって」
「ちょっと待って」
カデンツァはふと顔を上げて話を止めたティアサーを見た。まじまじと兄を見つめた弟は、心配そうに眉をハの字に傾げている。
「まさか、結果を柔らかくするために何度も切り付けたわけじゃないよね?」
「違うよ」
ティアサーの話に思わずカデンツァは笑いながら答えた。ほっと息を吐きながらも、ティアサーは照れたように顔を赤らめる。
「だってルアンならやりかねないと思って」
「さすがにそこまでひどくないよ」
「じゃあ具体的にはどんなことをしてたの?」
ふくりと頬を膨らませて彼は尋ねる。カデンツァはふっと笑った。
「結界を限界まで伸ばして、限界まで縮める練習をひたすらに繰り返してた。まあ、途中でルアンが魔法を使って、どこまで結界が効いているか確認してたけど」
その時のことを思い出して彼は笑った。結界を収縮させるのは難しく、いくら繰り返してもルアンの攻撃魔法を弾くことはできなかった。何度も腹部に痛みを喰らって、彼は結界ではなくルアンの攻撃魔法のせいで気絶するかと思った程である。しかし、逆に結界を伸ばした時は、見えなくなるほど遠くまで離れたルアンが外側からエレメント魔法を仕掛けたにも関わらず、今度は結界から弾き返されたその魔法を喰らってルアンが動けなくなったのだ。
「やってみて何か変わった?」
ティアサーからの問いに彼は少し考えながらも結界を広げた。結界の白い光は彼の足元から広がり、ティアサーもその内部に包み込んでカデンツァの部屋全体を覆っていく。
「まあ前ほど結界を広げるのが難しく感じないかな。あとは単純にようやくルアンの性質が見えた気がした」
「何だよそれ」
笑い声を上げたティアサーにカデンツァも笑った。
「ティアは? どうだったんだ?」
話題を振られたティアサーは悪戯っぽく笑った。
「僕はね、これをもらったんだ!」
彼は背中からひょいと一冊の本を取り出した。本は古びていて、ページは茶ばみ、表紙もくすんでいる。表紙には文字らしきものが書いてあるようだが、カデンツァには全く読めなかった。
「なに、これ?」
「魔法薬の本だって」
「魔法薬?」
さっぱり分からず訊き返したカデンツァにティアサーは元気よく頷いた。
「呪術能力を使って魔法薬を作れるんだけど、シュエルが亡くなる前に色んな魔法薬の作り方をこれに書き残してくれたんだ。今陽日は文字の読み方をジョシュアに教えてもらった。次は実際に魔法薬を作ってみるって話だから、今陽日教えてもらったのを忘れないうちに読んでみようと思って」
彼はパラパラとページを捲った。気になったカデンツァもティアサーの元へ向かい、本の中を覗いてみた。本は絵や文字でびっしりと書き込まれている。何かの薬草らしき絵や、何かを混ぜているような絵があるのは分かるものの、何が書かれているのかは、さっぱり分からなかった。ただ一つカデンツァの頭に浮んだのは——。
「魔法薬ってことは、ルーフェンファンヨゥも載ってる?」
「ルーフェンファンヨゥ? なにそれ、どんな薬?」
ティアサーに訊かれて彼は言葉に詰まった。ジェシカから渡された時、何の薬なのかは耳にしていなかった。
「えっと、水みたいに飲むもので、飲んだらすぐに傷が治るんだ。火事の後ジェシカにもらったから、もし作れるんだったら彼女に返そうと思って」
ティアサーはパラパラとページを捲って、先頭の文字が並んでいるページを見た。
「あった、たぶんこれだ」
再びページを捲った彼は、目的のページに辿り着くなり本を広げた。そこには大きな文字で何かが記され、その下に何種類かの草花が描かれている。絵の隣に書かれた小さな文字をティアサーは食い入るように読んだ。
「これ……は、……の一つで——」
「何の一つだって?」
彼はふぃっと顔を上げるとムッとして兄を見た。
「読めないんだよ。難しい字だったから」
「ごめんごめん」
彼は再び本へと視線を戻すと、今度は文字をなぞるように目で追った。
「幾つかの種類の薬草と水、浄化石を使っているみたいだね。効きが早いのが特徴だけど、代わりに悶えるくらい苦いって書いてある」
カデンツァは苦笑いを浮かべた。思い出しただけで口の中がひしゃげたように感じられたのだ。対して弟は彼の様子に全く気がつく様子もなく、どうやら作り方が書いてあると思われる隣のページをじっと見ていた。
「まずは簡単な魔法薬を作るって話だったから、次に教わる時とはいかなさそうだけど。作れるようになったらあげるよ」
「ありがとう」
ティアサーはパタンと本を閉じるとふわぁと大きな欠伸をした。




