⒖ 修練
結局、谷底を見ることはできなかった。あまりにも深くてそこまで到達できなかったのだ。カデンツァは結界を押し広げて地へと目指したが、途中でセテアスの話していた「力が抜けていくような感覚」が分かって、急いで引き返した。影に染まった谷間は凍てつくように寒かった。炎魔法を試みても指先に炎が灯らない。いくら指を鳴らそうとしても音すら鳴らなかった。渓谷は全くの無音。真の静寂は少しの恐怖を伴っていた。渓谷へ飛び込む前に聞こえた何かの音も、しばらくの間は聞こえなかった。それが聞こえるようになったのは、彼が谷底へと一番近づいたその時だった。音は声のようなものだった。それも誰か一人ではなく、数えきれないほど多い。声の主は誰もが囁くような小さな声でバラバラなことを話すので、まるで何を話しているのかは聞き取れなかった。ただ何となく、彼に感じ取れたのは、共通して聞こえてきたものが何かに対する悲しみであること。それだけだった。
カデンツァ
『結局、何も見えなかったし、分からなかった』
地上に戻った後、目に涙を浮かべたセテアスに彼はひどく叱られた。
「結界があるからって、あんな風に急に飛び込むだなんて!」
カデンツァが[後悔の海崖]に戻るなり、彼女は怒鳴った。
「気になったから、つい」
「君にもし何かあっても、誰も助けに行かれないんだよ? ボクの注意も甘かったかもしれないけれど、危うく死んでいたかもしれないんだよ!」
髪と同じ青い瞳を真っ赤にして涙ながらに訴えた彼女に、彼の好奇心はすっかり萎んで反省の色へと変わっていった。しょんぼりと肩の落ちた彼を抱きしめたセテアスは、ほっとしたように彼の背中でゆっくりと息を吐いた。
カデンツァ
『存在はみんな知ってるって、セテは言ってたけど、ジョシュアは知ってるのかな? ルアンは? 知っていて、手の施しようがないからあのままなのかな』
彼は谷底に近づいてから聞こえてきた声を思った。
『あれは誰の声なんだろう。何の声なんだろう。ティアサーが火事の時に見えたって言ってた幻想と同じ出来事に対する声なのかな。あまりにも報われない出来事だって言ってたから、きっと悲しいのはそれのせいなんだろうけど。でも、それって一体——』
カデンツァ
「カデンツァ!」
ようやく呼びかけに反応したカデンツァは、ビクッと身体を震わせた。そっと視線を上げたその先にはジョシュアがいて、隣に腰かけているティアサーは不思議そうに彼を見ている。季節変えから一陽日経った今、彼がいるのは弟の部屋だった。修練を開始する前に任務について話そうと、ジョシュアから呼ばれて再びティアサーの部屋に三人で集まったのである。
「どこまで聞いてた?」
心配するような弟の口調に彼は苦笑いを浮かべる他なかった。
「ごめん、何にも」
はあ、と深く溜息を吐くジョシュアに火事で負った損傷の痕はなかった。すっかり元気を取り戻した様子の彼は、カデンツァをなじるように見つめた。
「いいか? 朝話した通り、今陽日から修練を開始する。何か考えがあるんだとしても、まずはオレの話をちゃんと話を聞いてからだ。分かったな?」
カデンツァは小さく頷いた。ジョシュアに怒られるのはもう何度目かだが、兄が本当に怒ると怖いのはよく知っていたので、彼はひとまず思考の海から離れて兄の話をきちんと聞くことにした。
「二陽日前に話したように、魔法使いの妖精の任務は地球に行って妖魔を討伐する、または更生させることだ。だが、妖魔を更生させることは難しく、実現できた例も少ない。何よりも任務は常に危険と隣合わせだから、無理に更生させようとしてその身をかえって危険にさらさないこと。できるかできないかの見極めが大切だ。任務には必ず二人以上で行くことになっていて、任務においての戦略や行動判断は、任務に行くメンバーの内、魔法試験のランクが高い者に課される。だから任務で自由な行動を取りたかったら、魔法試験のランクを上げること、文句はそれから。分かったな?」
この話は既にしていたらしく、兄はティアサーには目もくれずにカデンツァに向かって話した。
「分かった」
「よし、それじゃあまずは、預かっていた魔法試験の結果を返そう」
ジョシュアがパンと手を叩くと、彼らの目前には大きな泡が現れた。
「アパレスみたいなものだ。該当者が触れば音が溢れ出る。結果は低い方からC、D、Es、F、G、A、Hだ。まあ初回だからCかDが多いだろうな。カデンツァ、お前から聞いてみろ」
カデンツァは頷くと、人差し指を出して言われた通りに泡に触れた。
【カデンツァ・ベクレル。魔法試験第一回。結果、ランクD。速度値C、戦術C、技術C、損傷F】
カデンツァは何となく予測はしていたものの、その結果の低さに唇を噛んだ。一番低い結果ばかりが出て、また心の泉に黒い雫が落ちて淀んでいったような感覚がした。
一方、ジョシュアがティアサーに目配せをすると、弟は自分の前に浮かんでいる泡を割った。
【ティアサー・ベクレル。魔法試験第一回。結果、ランクD。速度値D、戦術Es、技術D、損傷C】
ティアサーは顔色一つ変えずにその結果を受け止めた。
「二人ともランクはDか」
「でも内容がまるで違うな」と続けてジョシュアは呟く。どう考えてもティアサーの方がバランスの取れた強さを持っていることにカデンツァは少しの劣等感を感じていた。
『それでもお前は「無力だ」って言うのか?』
カデンツァはじっとティアサーを見つめた。そんな彼の注意を逸らすようにジョシュアは咳払いをした。
「いいか? 試験前にも話した通り、あくまでもこの初回は資質を確認するための試験だ。ティアサーは戦略が比較的得意なバランス型、カデンツァは防御に秀でていることが分かるだろ? 修練では二人とも自分に欠けている部分を補うようにしていけばいい。二回目の魔法試験は次の満月に行う。そしてその結果のランクを元に初の任務が女王から渡されるんだ。二回目の魔法試験は二人とも頑張ってEsを取れるようになってくれると、オレも嬉しいんだけどな」
「そういえばレベッカはランクGだったね」
思い出したように話したティアサーはジョシュアを見た。
「ジョシュアはランクいくつなの?」
「オレはAだな。ルアンも同じだ」
「Hは誰か取ってるの?」
「シュエルとデュエルが」
答えるなり兄は溜息を吐いた。
「それ以降はまだ誰も成しえていない領域だ」
「次の満月っていつ?」
カデンツァが訊くと、ジョシュアは数えるように指を折った。
「前回の満月がお前たちの誕生した時で、今陽日がそれから五陽日経ってるから……あと二十四陽日だな」
兄は答えると、カデンツァを見遣った。
「カデンツァ、ティアサーの能力についてだが、お前にも知っておいてもらいたいことがいくつかある」
「なに?」
いつになく真剣な眼差しのジョシュアにカデンツァは少し戸惑いながらも兄を見た。
「もう聞いてるかもしれないが、ティアサーの能力は四つある。そして、お前の祝福とは違って、ティアサーのは完全なる〝呪い〟だ。まず浄化能力は体内に含んだものを全て浄化する。つまり毒も浄化するが、何を食べても味や風味すらも感じないんだ。他のに比べたらまだ良い方かもしれないが、それでも食事をして味わえないのはつらいことだ」
カデンツァはショックのあまり弟を見た。
「本当に?」
彼の言葉にティアサーは頷いた。
「食感はあるのがまだ救いかな」
「二つ目はオレと同じ思考聴力者の悩みだ」
ジョシュアは会話に割り込むと話を続けた。
「もう思考を聞かないで済む方法は教えてあるが、ずっとその状態を維持し続けるのも大変なものだ。だからたまには、思考の聞こえないお前が話の聞き手になってく——」
「言われなくてもそうするよ」
若干食い気味に答えたカデンツァにジョシュアは笑った。
「そうだな、それが嬉しい。三つ目は天操能力だが、これは非常に便利な能力であると同時に、感情で天気が変わってしまうのが難点だ。どうやら過陽日はスクラグたちが気をまわしてくれたようだが」
兄の話にカデンツァはふと季節変えを始める直前のやり取りを思い出した。スクラグとセテアスが話していた〝水気に満ちた空気〟が季節前を始める前に生じていたことを。
「じゃああれって」
「僕がVだから天操能力があるのを知っていて、気を遣ってくれたんだと思う」
「これからは気を付けないとね」とティアサーは続けると苦笑した。
「でも感情で天気が変わっちゃうって、そんなの……」
カデンツァはそこで口をつぐんだ。それがあまりにも辛いことなのは、自分よりもティアサー自身の方が身に染みて分かっているだろうと考えて。
「嬉しいこと、楽しいこと、幸せなこと。そうしたプラスな感情は天気に影響しない」
ジョシュアは平たい声で話したが、彼の瞳は心配するようにティアサーをじっと見つめた。
「その代わり、心穏やかに保つことが必要となる」
「大丈夫だよ、僕はカデンツァよりも冷静だし」
「言ったな?」
わざとらしく挑発するように話した弟に、カデンツァは冗談交じりに話した。そうしなければ、この呪いによる不自由さを本人以上に嘆いてしまいそうだったから。
「そして最後の呪術能力だが、これは呪いを掛ける能力だ。この能力を使う時には必ず呪いによる負荷が掛かってしまう。能力の使い方は純粋な呪いと魔法薬の二つに分類されるんだが、魔法薬に関しては呪いによる負荷が魔法薬を使用した者への副作用として現れる。だから、これはまだ問題ない。だが、呪いを掛ける時は掛ける呪いと同等の負荷がティアサーに降りかかる」
「呪いと同等の負荷って? どういうこと?」
「例えば何かを動けなくする呪いだった場合、ティアサーも等しく動けなくなるんだ」
「え⁉」
驚きのあまり素っ頓狂な声を上げたカデンツァは、両目を大きく広げてジョシュアに向かって叫んだ。
「なにそれ! そんな力、絶対ない方がいいのに!」
「ああ、俺もそう思う」
対して兄は至って冷静な反応だった。
「だが、魔法薬の方はティアサー自身に負荷が掛かることはないし、使うことができれば他の妖精も恩恵を受けられる便利な力だ。だから呪いはくれぐれも使うことなく、使わせないようにすること」
兄の話にカデンツァは力強く頷くと、ティアサーの肩に手を置いて弟の瞳をじっと見つめた。
「何かあったらすぐに俺にも話してくれ。絶対だからな」
「分かったよ」
カデンツァの熱のこもった様子がおかしいのか、薄墨色の瞳は笑っていた。
「さてと、それで今陽日からの修練だが」
ジョシュアは仕切り直すように話を始めた。
「魔法使いの妖精の領域である攻撃魔法は、三つに分けられる。力の魔法、精神魔法、殺傷魔法。修練の間、オレからは力の魔法を教えて、ルアンからは殺傷魔法を教える。精神魔法はエリーから、その他のエレメント魔法についてはジェシカから教えてもらえるように頼んである。ティアサーの能力についてはルエナが任務から戻ってくるまではオレとルアンで教える。カデンツァのは、初めての能力だから代わる代わるみんなで試してみよう」
双精はそろって頷いた。カデンツァはいよいよ始まる修練に期待を寄せると同時に、密かに誓いを立てていた。次の魔法試験ではティアサーに絶対に負けないという誓いを。
「それじゃあ——」
ジョシュアが何かを話し掛けたその時、カデンツァの目前に泡が現れた。突然のことに瞬きをした彼は、尋ねるように兄を見つめる。彼は声を出すことなく、ただ黙って頷いた。
【ルアン・クライスからカデンツァ・ベクレルに告ぐ】
カデンツァが指で割ったアパレスは、その中からルアンの声を溢した。
【これより貴殿の修練を開始する。今陽日の場所は[踊る草原]。まずはそこまで到達すること。どこにあるかを訊くのは構わないが、道は誰にも訊いてはならない。制限時間は昼まで。以上】




