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⒕ 終焉の始まり

 (いびつ)な形をした胡桃(くるみ)にカデンツァは(かじ)り付いた。サクザクとした食感と共に少しのえぐみとナッツ特有の濃厚なコクを感じながら。雨にさらされてびしょ濡れだった衣服や身体は、水魔法で乾かした後だった。季節変えを行っている[後悔の海崖]から移動したここは[移ろいの松林]。空は晴れ渡り、少し冷たい空気の中を強い日差しが照り付ける。松の枝に座り、幹に身体を預けながら二人は並んで座っていた。

「毎回こんなに大変なの? 季節を変えるのって」

 カデンツァは口に含んだ胡桃を食べ終えると尋ねた。

「そうだね、段々厳しくなってきた感じかな。特にここ数十周季くらいの間で、一気に大変になった感じだよ」

 手にした胡桃を頬張って、セテアスはまっすぐに遥か前方を見つめた。

「本来、ヴェルスヴィーナも地球も、ボクらが季節変えをする必要なんてないのさ。季節は自然の摂理で循環するものだからね。数百周季前のボクらは、季節変えなんてしてなかったくらいだよ」

「じゃあ、何をしてたの?」

 齧った胡桃を脇に置いて、好奇心に駆られたカデンツァは彼女を見遣った。そんな彼の様子に彼女はふっと笑みをこぼした。

「水の妖精は水を綺麗にしていたかな。色んな生物が水を飲んだり排泄したりするからね。それを綺麗にして、大地や空や海に還していたんだ。それがボクらの務めだった」

「他の妖精も? 風の妖精や炎の妖精も?」

「炎の妖精は大地や山の奥深くにあるマグマの制御をしているんだ。今も昔も変わらずね。とても繊細で気を遣う作業だから、彼らは滅多に地表へは出てこないけれど、最近は制御がなかなか大変だって聞いたな。風の妖精は昔の方がもっと自由だったかもね。今は下手に風を吹かせると竜巻になってしまいやすいから、注意してるんだってスクラグに聞いたことがあるよ」

 彼女は彼を見遣ると小さく溜息を溢した。

「魔法使いの妖精は変わらなさそうだね。地球に行って妖魔と戦って、戻ってきたら次の任務まで休息と修練を繰り返している。ボクらとはまるで違うよ」

 ふっと視線を逸らした彼女の語り草に、カデンツァはどこか陰りを感じた。

「どういう意味?」

「君らの現場は地球で、ボクらの持ち場は聖星。だから見えてくる問題も、感じることも違う。それだけのことさ」

 胡桃を再び齧った彼女は水の衣を引っ張ってその身に巻き付けた。

「ボクは思うんだ。本来必要とされないはずの季節変えをわざわざするのは、地球も聖星も上手く呼吸ができていないからって補助しているようなものだってね。補助するのは構わないけれど、呼吸がしにくくなっている原因を取り払うべきじゃないかって。まあそれが簡単なことじゃないから、こうして百周季も季節変えをしているんだけれど」

 話が見えなかったカデンツァは、きょとんと首を傾げた。

「魔法使いの妖精は気づいてないけど、セテは気にしている問題があるっていうこと?」

「気づいていないわけじゃないよ。存在自体は皆知ってる。魔法使いの妖精はヴェルスヴィーナよりも地球にいる時間の方が長いから、あまり問題視していないっていうだけで」

 彼女の語り口にはどこか含みがあるように感じられて、彼はじっと彼女を見つめた。

「何があるの?」

 最後のひとかけらになった胡桃を口に含んだ彼女は、ゆっくりとそれを咀嚼した。

「地球と聖星のつながりがもたらした苦しい傷跡だよ」

 まっすぐに前を見ていた彼女は彼を見遣った。

「まだ休憩中だし、見に行くかい?」

 彼女の誘いに彼は立ち上がった。


 すっかり地上も寒くなってきた[後悔の海崖]を二人はずっと北へと飛び続けた。ザァザァと降り続く雨に降られて再びすっかりびしょ濡れになりながら。[後悔の海崖]に草木は生えておらず、雨に濡れた岩場がひたすらに続いている。飛び続けている間に見えたその景色は、崖地と雨をもたらす暗い雲だけだった。その地へと向かっている間、セテアスはずっと無言だった。もし話しかけていたのだとしても、雨音にかき消されてカデンツァには聞こえなかっただろう。彼は前を飛ぶ彼女を追いかけるのに必死だった。崖地から見える海は荒れて白波が立ち、風は冷たく彼の頬を走る。白く息を弾ませながら、ひたすらに彼女の後を追いかけていた彼は、不意にそのスピードを緩めた。目的の場所に着いたらしく、彼女は立ち止まっていた。

「ここだよ」

 カデンツァは彼女の隣に並んだ。

「ボクらはこの地を[終焉(しゅうえん)の始まり]って呼んでいるんだ」

[後悔の海崖]から続く渓谷(けいこく)。その谷は深く底が見えないほどだった。それよりも驚くべきことは、渓谷に全く明かりがないこと。ほんの僅かにも光は差し込んでおらず、雲の綿毛から入るはずの陽光はまるでこの地だけを嫌ったかのように、真っ暗な影となっている。

「ここには、ほんの僅かな草花も苔も生えないんだ。いくら雨を降らせようとしても、雨雲は空にできないし、常に乾燥している。そのうえ、光の妖精がいかに光を操ろうとも、全く光が差し込まない。炎の妖精の話では、この地の遥か下方にあるはずのマグマですら、凍えたかのように穏やかで動こうとしないって」

 そう話した彼女の声はひどく落ち着いていた。

「ありとあらゆる生命が、存在するはずの自然の理が全て消え去ってしまったように。大地ですら本来は含んでいるはずの養分を拒絶しているんだ。しかも恐ろしいことに、この影は少しずつ広がっている」

 カデンツァはじっと渓谷を見ていた。対岸の切り立った崖面ですら光が当たらず、まるで塗りつぶされたかのように真っ黒だった。

「地球に存在して、ヴェルスヴィーナに存在しない生物は人間と妖魔だけ。どちらが生命の源をこんな風に滅ぼしているのかは、地球に行ったことのないボクらには分からない」

「ヴェルスヴィーナと地球はつながっているんだよね?」

 確認するように尋ねたカデンツァに彼女は頷いた。

「だったら、地球にもこういう場所があるっていうこと?」

「いいや、女王や魔法使いの妖精たちの話では、地球にはそういう場所はない。その代わり、地球は広くその痛みを感じているはずさ。こうして一カ所に痛みを集中させているのはヴェルスヴィーナだけだよ」

 彼女は溜息を吐くとサッと彼を見遣った。

「まるで星自体が生きることを辞めてしまったかのようだよ。生命の死の範囲を少しずつ広げて、やがて星全体がこの黒い光に飲み込まれてしまい、星自体が死んでしまう。だからボクたちはここを[終焉の始まり]って呼んでいるんだ。いつか来てしまうその時への(いまし)めも込めて。少しでもこの影を広げないために」

 彼女の肩はゆっくりと上下した。

「[終焉の始まり]を留めておきたくて、何をすればいいのか必死に考えたんだ。でも答えは見つからない。結局ボクたちにできるのは自然の理から逸脱していかないように、季節を変える手伝いをして、今まで通りの対応をすることくらい」

 深く嘆息を漏らした彼女は再び[終焉の始まり]へと視線を戻した。

「何ができたんだろうね、こうなってしまう前に。ここもこんな風になる前は[風の鳴く渓谷]って呼ばれていたのに。今では風も吹かなくなってしまったんだ」

 カデンツァは渓谷へと近づいた。地面は固い岩肌から徐々に脆くなっていって、その谷底を臨む崖の真上に立つと、一歩踏み込んだだけでボロホロと崩れてしまった。彼は少し後退ると屈み込んだ。谷間から何かが聞こえるような気がして。

「誰かここの下に下りてみたことはあるの?」

 彼の問いにセテアスは静かに首を振った。

「その影に入ると、体中から力が奪われたみたいに抜けて、意識が飛んでしまうんだ。だから誰も谷底は見ていない。その影の外側からあらゆる魔法や方法を試してみたけれど、まるで効かなかったよ」

「ふうん」と声を漏らすと、彼は数十歩下がった。

「じゃあ、俺がその最初の妖精になる」

 一気に飛び出した彼は、途中で止めようとしたセテアスのことも聞かずに、飲み込むように広がった[終焉の始まり]の中へと飛び込んだ。

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