第103章
103.
たとえば、朝の駅のホームで通勤のサラリーマンたちと共に、次の電車を待つ列にならんでいる時。しとしとと降る雨の音が周囲の人々の個々を形作る音を消し去って、新聞をめくる音も軽い咳払いさえも、その存在を飲み込んでしまっているかの様な場所。自分もその場所の環境の構成要素の一つに過ぎず、他の一つ々々とは何の変わりもなく何の関わりもなく。もし自分が、ふと忘れ物でも思い出して列からはずれても、後ろの見知らぬ誰かが黙って列を埋めてくれる、そんな場所。
自分がこれから何処に向かおうとしているのか、ひょっとして自分が電車に乗らずとも、何一つ問題など無いのではないかと、そんなことを考えてしまう様な。
そんな場所。
遠い日の、朝の記憶・・・。
「今度こそ、起きたみたいよ」
雨が、降っている。
雨音が周囲を分厚いカーテンか何かの様に覆い、まるでその隙間から僅かな会話が漏れ聞こえてくる様な、そんな朝。
いや、朝、なのだろうか?
誰かが、俺の額を指で拭った。少し冷んやりとした、滑らかな細い指先。女の指だ。多分、額に掛かった前髪を、手櫛で退けてくれているのだろう。そう言えば、最近髪を切っていない。忙しいからだ。遅れている開発工程を短縮するには、予備の開発費を注ぎ込むしかないだろう。俺の権限だけでは、了承を取り付けるには不足だ。会社に着いたら、役員のスケジュールを押さえて直談判に行く必要がある。目当ての役員が出社してくるよりも早く、待ち構えていて話を聞いて貰うのだ。そうだ、今日は早く会社に行く必要がある。早く電車に乗って、けして、この電車に俺が乗らなくても良いなんて事は・・・。
「ご主人さま、大分顔色が良くなりましたね。ですが解毒薬で中和された後も、そのままにしておいて良い訳ではないんです。起きたら、たくさん水を飲んで、早く排泄して貰わないと」
違う。
朝じゃ、ない。
どうやら、俺は電車のホームにいる訳じゃないらしい。
そうか、俺が最後にやっていたのは、核融合発電所のヤツだ。アレの開発なんざ、とっくに終わっているんだ。急いで、あの山奥の発電所に持って行かなきゃならない。あの新型炉の臨界環境は、これまでの実験炉とは比べものにならない位に厳しいはずだ。急がないと、融合炉のチタンの内壁が溶け出すかもしれない。もし、そんな事にでもなったら・・・。
「これは、多少、記憶が混乱しとるかもしれませんなぁ。無理に話掛けず、もう、ちびっと様子を見ましょ」
雨が、降っている。
俺の周りには、3人の女性が一様に不安そうな表情を浮かべている。それぞれ、藍色の髪、紅い髪、それに金色。何かやたら国際色豊かな感じだが、かつらなのだろうか? そうか、新型炉は実証炉の次は中東のある国が、潤沢なオイルマネーの尽きる前にと、既に輸出が決まっていた。だがロングドレスは良いとして、そのバドっぽいワンピースと全身タイツっぽいのは、余りそこいらでは見掛けないセンスだ。民族衣装でない事は確かだし、最近流行のコスプレというヤツなのかもしれない。日本のアニメのファンなのかも。まぁ、美人は得だよな、どんな格好をしても似合う。
「雨で視界が制限されているうちに、出来れば早く森の中まで移動した方が良い。マンティコアに再び襲われれば、次こそは全滅だ」
今のは俺の顔を覗き込む3人がしゃべっていないところを見ると、如何やら俺の視界の中の3人以外にも、もう一人いるらしい。続けて『大体、私を残して先に死ぬなど、許されん・・・』ブツブツと声が聞こえる。そのセリフのせいで、どことなくハスキーで魅力的な声が台無しな気がしないではない。
そうだ、森の中の山道を車で発電所に急いでいた俺は、途中マンティコアに襲われて・・・。
「マンティコアは!? ぐぅっ!?」
フィレンツェが思わず目を見開き、がばっと体を起こすと、背中に激痛が走った。いや、体中が痛い。思わず息が止まる。その隙に、周り中から延びた手が、強引にフィレンツェの上半身を元のソフィアの膝枕の上に押し戻した。
「マンティコアはアリシアが倒したわ。フィルは、マンティコアの毒にやられたのよ。でも、シャーリーの解毒薬を飲ませたから、もう大丈夫よ」
さっき、アリシアの声がした方を見ると、屈みこむ皆の向こうに、一人アリシアが腕組みをして立っている。俺を見つめる無表情な、爬虫類っぽい視線が痛い。
その隻眼で睨まれると、やたら怖いのですが。
アリシアの背後は灰色の雨にくすんで、まるで赤茶けた丘陵を洗い流している様だ。灰色の雨は、アリシアがマンティコアを倒したというのなら、きっと消火の代わりにもなってくれたのだろう。取りあえず、もう睨まないでね、という思いを込めてアリシアに頷いておく。
「そうか・・・。皆、ありがとう。今回は、如何やら命拾いしたらしいな」
だが、もう次はない。
自分が腹上死以外で死ぬのも困るが、皆を危険に晒すのも許されるものではない。如何すれば、あのマンティコアに勝てる? レーザーポインター代わりの電撃は、確かにヤツに効果はあった。だが、もっと遠距離からヤツを引きずり下ろす事が出来なければ、せいぜい相打ちでしかない。
今は如何やらソフィアの膝枕で寝かされているらしく、それはそれで良いのだが今はその感触を楽しんでいる訳にはいかない。それに、魅惑の太腿も胴当と腰当は外してくれているとはいえチェインメイルに覆われている訳で、どうせなら・・・。
いや。チェーン、長さのある、丈夫な電導体か。
「・・・ソフィア。脱げ」
一瞬途切れた会話の合間で、周囲の雨音が強まった気がした。如何やら俺は防水布を馬車の荷台の縁から地面に垂直に立てた柱に張り渡した、即席の天幕の下にいるらしい。馬車の車輪の横あたりだろう。
「えっ!? な、何言ってるのよ? ちょっと、今はそんな場合じゃ・・・。せめて日が暮れてからに・・・」
真っ赤になってどもるソフィアは可愛いが、そうだ、今はそんな場合じゃない。これは少し、説明が必要らしい。まだ、俺も頭が整理出来ていないのだが。
「いや、金属の鎖がいるんだ。マンティコアを倒すのに、ソフィアのチェインメイルを解して使いたい」
この先、何とかっていう伯爵の住むところまでに、二度とマンティコアに遭遇する事がないなどとは言えないだろう。アリシア曰く、雨じゃなければ今頃、二頭目に捕まっていたかもしれない訳だ。
「・・・。金属の鎖なら、私の『無限倉庫』に魔物の捕縛用のストックがあるわ。ええっと、・・・これで如何かしら?」
ソフィアが取り出したのは、おそらくは鋼鉄製の鎖だ。錆の浮いたところもあるが、人間の力では引き千切る事は望むべくもなく、マンティコア相手でも、何分か位ならばもつだろう。だが、それで十分だ。
やはりソフィアのチェインメイルを解いてしまっては、着てほしい時に着せられないしな。
結構、俺の好みだったりするんだよね、そのチェインメイル。
今は俺の頭の下にあって見えない、その秘密の結び目とか。
さて。
これからが、リベンジだ。




