【取扱説明書のない彼女】─後半⑧〜⑬─
前編に続き、お読みいただきありがとうございます。m(_ _)m
彼女を知ろうと、取扱説明書を書き続けた彼。
けれど、人の心は、書き留めた言葉だけでは読み解けないようです。
個人企画「木枯らし」と、公式企画「旅」に寄せて綴る、不器用なふたりの恋の物語。
長い時間をかけて、ふたりが見つける答えを、最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
【取扱説明書のない彼女】─後半─
⑧見ることと、聞くこと
──彼女のことを、少しずつ知っていこうと思った。
好きなもの。苦手なもの。
嬉しいときの顔。機嫌が悪いときの声。
けれど、知っているつもりになるのは、もうやめようと思った。
──だから、分からないときは聞く。
それを決めてから、俺は彼女に何度も尋ねるようになった。
「疲れてる?」
「今日はどっちがいい?」
「それ、どういう意味?」
最初の二週間、俺は何度も彼女に聞いた。
そのたびに丁寧に答えてくれた。
──彼女は、押し入れの奥からタコ焼き器を出してきた。
「これ、母さんが持たせてくれてん」
手際よく油を引き、生地を流し込む。
「俺、初めてなんだけど……慣れてるな」
「そら、食べるん好きやもん」
そう言って、彼女は笑った。
俺にもピックを渡してくる。
「ほら、やってみ」
「これ、もうひっくり返していい?」
「まだやな」
「今は?」
「せっかちやなあ。もうちょい待ち」
縁がきつね色になったところで、彼女がうなずいた。
「今やで」
俺がひっくり返した一個は、見事に形が崩れた。
「あーあ」
「……悪い」
「ええよ。最初はそんなもんや」
彼女は崩れたそれを自分の皿に載せた。
代わりに、きれいに焼けた一個を俺の皿に置いた。
「……そっちは?」
「うちのは、これでええねん」
そう言って、崩れた一個を箸で割り、片方を俺の口元に持ってきた。
「はい。半分こ」
口に入れると、湯気が上がった。
「あっつ!」
「あほやなあ。ふうふうせな」
ソースとかつお節の匂いが、笑い合う部屋いっぱいに広がった。
──三週間目だった。
「……それ、毎回聞かれるのも、ちょっと違う」
彼女が、ぽつりと言った。
「……ごめん」
「ちゃうねん、責めてへんくて。ただ、分かるやん」
言ってしまってから、彼女はハッとして口を押さえた。
辺りを見回す。
すれ違う人の姿に気づいたのか、彼女の耳がみるみる赤くなった。
「……分かるでしょ、って言いたかったの」
「いま、『分かるやん』って」
「言ってない」
「言った」
「言ってへん!」
思わず笑ってしまった。
彼女は俺を睨んだあと、恥ずかしそうに顔をそらした。
「……もう、知らん」
その声まで、少しだけ関西弁に戻っていた。
俺は、笑うのをやめた。
彼女が人前で関西弁を話さなくなった理由を、俺は知っている。
知っているからこそ、今の言葉を笑うだけのものにはしたくなかった。
「……ごめん。嬉しかったんだ」
「何が?」
「今の」
彼女は、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐く。
「……変なの」
そう言いながら、彼女の口元は少しだけ緩んでいた。
──昼を過ぎたころ、俺たちは駅から少し離れたラーメン屋に入った。
引き戸を開けると、湯気と一緒に、醤油と豚骨の匂いが流れてきた。
カウンターの隅に並んで座る。
「何にする?」
俺がメニューを開くと、彼女は壁に貼られた品書きを見上げた。
「味噌ラーメン」
「じゃあ、俺は塩」
店員を呼んで注文を済ませる。
彼女は、まだ壁の品書きを見ていた。
「……どうした?」
「ん? なんでもない」
そう言って、彼女はメニューに目を落とした。
けれど、視線はすぐに俺のほうへ戻ってくる。
俺は、さっき彼女が見ていた品書きを思い出した。
「……塩も食べたい?」
彼女の目が、ぱっと丸くなった。
「なんで分かったん?」
「さっき、ずっと見てたから」
「……そっか」
彼女は、少しだけ嬉しそうに笑った。
やがて、味噌ラーメンと塩ラーメンが運ばれてきた。
彼女は味噌ラーメンをひと口すすり、満足そうに目を細める。
それから、俺の塩ラーメンに目をやった。
「……そっちも食べたい」
「じゃあ、交換しようか」
俺が丼を持ち上げると、彼女は待ってましたとばかりに自分の丼を差し出した。
「はい、半分こ」
俺たちは、丼を交換した。
「……最初から、両方食べるつもりだった?」
「さあ?」
彼女は塩ラーメンをすすり、いたずらっぽく笑った。
俺も、味噌ラーメンをひと口食べた。
「……こっちも、おいしいな」
「やろ?」
彼女は満足げに頷いた。
味噌ラーメンのチャーシューを一枚、俺の丼に移してくれた。
食べ終わって店を出るとき、彼女は店員に向かって言った。
「おおきに。ごちそうさんでした」と頭を下げた。
自然な関西弁だった。
「はい、また来てな」
店員は、何でもないことのように笑って答えた。
彼女は一瞬だけ、目を見開いた。
「また来てや、お姉ちゃん」
厨房の奥から続けて、おかみさんの笑い声がした。
彼女は、耳まで赤くして、俺の背中に隠れるように暖簾をくぐった。
それから、店を出てしばらく歩いたあと、ぽつりと言った。
「……笑われへんかった」
「え?」
「ううん。なんでもない」
彼女は前を向いたまま、少しだけ笑った。
俺は、その横顔を見ていた。
何かを聞いたほうがいいのかもしれない。
けれど、今は聞かないほうがいい気もした。
彼女は、「なんでもない」と言った。
それが本当に何でもないのか、そうじゃないのか。
俺には、まだ分からない。
だから、隣を歩いた。
──帰り道、公園のそばを通りかかった。
雨上がりの植え込みに、紫陽花が咲いていた。
青い花びらの端は、少し茶色くなっている。
「……枯れてるな」
俺が言うと、彼女は足を止めた。
「枯れても、きれいやな」
その声に、俺も立ち止まった。
彼女は紫陽花を見つめていた。
雨の雫を抱いた花びらが、風に揺れる。
「六月になったら、また咲くんよ」
「……今も六月だけど」
「そうやなくて」
彼女は、困ったように笑った。
「……雨の日の、一番きれいなとき」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
何かあるようにも思えたけれど、俺も、何も聞かなかった。
ただ、もう一度、紫陽花を見た。
枯れかけていると思った花は、さっきよりもきれいに見えた。
──見ることと、聞くこと。
──見て、分かるときは、見る。
──見ても分からないときは、聞く。
──聞いたら、答えが来るまで、待つ。
子供のころから、彼女の気持ちは、目に表れていた。
「別にいいよ」と言う口の隣で、瞳はいつも何かを伝えていた。
俺は、その目を見ていた。
見ていたのに、そこに何があるのか、知ろうとしなかった。
口にした言葉だけを、答えだと思っていた。
それだけのことに気づくのに、三か月かかった。
──隣を歩きながら、彼女はときどき俺の顔を覗き込む。
「……何?」
「んーん」
彼女は笑った。
「なんでもない」
その言葉の意味を、俺はまだ知らない。
でも、いつか分かる日が来るのかもしれない。
そのときは、きっと。
聞く前に、気づけたらいいと思った。
◆◆◆
⑨行き先は彼女が決める
──二月の初め、彼女は言った。
「旅行、行こ。来週。行き先はわたしが決める。あなたは何も調べないで」
「来週って、急すぎないか」
「別にいいよ、って言わないの?」
「……言わない」
「えらい。うちに、任せとき!」
──行き先は兵庫の城崎温泉だった。
雪の日だった。
蟹の季節だった。
特急の座席で、彼女は窓際を当然のように取り、俺の分のポッキーを開けた。
俺の分は、三本で終わった。
「なんで蟹の駅弁買ってないの」
「調べるなって言ったのはそっちだろ」
「あ、そっか。じゃあ半分こね。わたしの」
名物の駅弁を食べているのは彼女だけなのに、半分こ、という言葉の意味はあとで分かった。
蟹寿司の握りだけが、俺の口に入った。
特急が県境の山に入るころ、彼女の頭が、こつんと俺の肩に落ちた。
「……寝てへんで」
「まだ何も言ってない」
「寝てへん」
そう言って、三分後には、規則正しい寝息になっていた。
俺は、肩を動かさなかった。
腕が痺れても、トンネルの窓に二人の顔が映っても、駅に着くまで、動かさなかった。
目を覚ました彼女が、真っ先に言った。
「……ほんまに寝てへんで」
「うん」
「よだれ、ついてへん?」
「ついてる」
「うそ!?」
「うそ」
彼女は、俺の肩を、ぱしんと叩いた。
温泉街に着くと、彼女は浴衣の上に丹前を羽織って、下駄を鳴らして先を歩いた。
葉を落とした柳の枝に雪が積もり、冷たい空気の中に湯気の匂いがした。
「外湯、七つあるんだって。全部いこ」
「七つ?」
「うん。のぼせたら置いてくね」
──最初の湯から、彼女はなかなか出てこなかった。
石畳の端に座り、売店で買ったコーヒー牛乳を二本持って待っていると、三十分後、のれんが揺れて、彼女が出てきた。
隣に、小柄なおばあさんがいた。
「この子、ええ子やなあ。背中、流してくれはってん」
おばあさんは、俺の手に飴をひとつ握らせて、「彼氏さん、待たせてしもたな。堪忍な」と笑った。
「いえ」
彼女は、おばあさんが角を曲がるまで、ぺこぺこ頭を下げて、手を振っていた。
濡れた髪をタオルでまとめ、襟元を直しながら、まっすぐ俺を見る。
「待ってた?」
「三十分」
「そっか。じゃあ、はい」
彼女は俺の手からコーヒー牛乳を一本ひったくり、フタを外して、一口飲んだ。
「これ、わたしの」
「両方、俺が買ったやつ」
「だから、わたしの分も買ってたんでしょ。分かってたもん」
勝ち誇った顔だった。
俺が何も言えずにいると、彼女は小さく笑って、空いている方の手で俺の手をつないだ。
「次、行こ」
雪が、強くなっていた。
彼女は下駄のまま、石畳の真ん中に出て、両手を広げた。
「見て!」
──あの砂場の夕方と、同じ声だった。
掌に落ちた雪が、火照った身体で、すぐに消える。
それでも彼女は、何度も手を伸ばして、笑った。
「ちゃんと、溶けるんやなあ」
「雪だからな」
「雪やのに、えらいなあ」
やけに上機嫌な──彼女が笑うと、自分まで嬉しくなる。
気づくと、俺も笑っていた。
──宿は、川に面した古い旅館だった。
部屋に通されて、俺は初めて気づいた。
「……一部屋だけ?」
「うん。調べるなって言ったでしょ」
仲居さんが下がる前、彼女は「お世話になります。素敵なお部屋ですね」と、丁寧に頭を下げた。
仲居さんは、目尻を下げて、俺にだけ小さくうなずいた。ええ子やね、と言われた気がした。
仲居さんが襖を閉めて下がると、彼女は袖で口元を隠した。
その肩が小さく揺れていた。
「あなたの顔……」
「……何」
「すごい顔してる」
ひとしきり笑うと、彼女は窓辺に座った。
窓の外で、雪が川に落ちていく音がした。
食事を終えて、湯にも入り、布団が二組敷かれた。
俺たちは高校のころから付き合っていた。
──気づけば、十年を少し越えていた。
それでも、泊まりの夜だけは、いつも何かに間に合わなかった。
終電。実家。仕事。
本当は、そのどれでもなかった。
彼女が「別にいいよ」と言うたびに、俺は、それが本心かどうか分からなくなった。
分からないまま進むのが怖くて、いつも一歩手前で止まった。
そのまま、何年も過ぎてしまっていた。
灯りを一つだけ残して、俺たちは布団に座っていた。
「ねえ」
「うん」
「今日、楽しかった?」
「うん」
「ふーん」
彼女は窓の外を向いた。
横顔の、目が見えなかった。
見ても、分からない。
「それ、どっちのふーん?」
だから、聞いた。
俺を見た、彼女の瞳が丸くなった。
それから、彼女はふっと吹き出した。
「……ばれてるね」
笑いの余韻が消えたあと、彼女はしばらく黙っていた。
浴衣の裾を指でつまんで、離して、またつまんだ。
「あのね」
「うん」
「わたし、ずっと待ってたの」
何を、とは聞かなかった。
「でも、言うたら……わがままみたいで」
聞かなくても分かった。
「別にいいよって言うたら、あなたが選んでくれるかなって。そしたら、選んでくれへんかった」
「……ごめん」
「謝らんといて」
声が、はっきりと訛った。
「ほんまは、ずっと」
彼女は一度、息を吸った。
「ずっと、触ってほしかったんよ」
川の音だけが、部屋に残った。
「別にいい……やなくて」
俺の袖口を、彼女の指がキュッと引いた。
「今日は、いや、今日だけやなくて。……お願いやから。ちゃんと、うちを選んでや」
「……選ぶよ」
俺は彼女の手を握った。
「ずっと──、ずっと選んでる」
彼女は、少しだけ黙った。
「……なあ」
「うん」
「なんで、うちなん?」
彼女は俺の手を握り返していた。
「あんたなら、もっと素敵な人、おったやろうに」
「そんなことないよ」
「知らんかもしれんけど、高校のサッカー部でも、もててたんやで」
「知ってるよ……何回か、断った」
「……知ってる。見てたもん」
彼女は少し笑った。
けれど、目は笑っていなかった。
「それでも、なんでうちなん?」
俺は、すぐには答えられなかった。
どう言えばいいのか、考えたからじゃない。
──あの夕方のことを、思い出していた。
西日の差す、小さな砂場。あおいバケツ。
俺の城を壊した、泥だらけの膝の女の子。
「……最初に会ったときのこと、覚えてる?」
──彼女は、すぐにもう一度、作ろうとしていた。
「砂場?」
──うまくいくかどうかなんて、考えもしないで。
「うん」
「覚えてるよ。あんたのお城、変やったもん」
「そこは忘れとけよ」
彼女が笑った。
今度は、目も笑っていた。
「あのときの目が、ずっと好きだったんだと思う。──自分が楽しいってことしか、考えてないみたいな」
彼女は、何か言いかけて、口を閉じた。
「それから、いろんな顔を見たよ。悔しそうな顔も、泣いてる顔も。『別にいいよ』って笑う顔も」
俺は、握った手に少しだけ力を込めた。
「でも、『任せとき』って言ってくれた……最初のあの目は、一度も忘れたことがない」
「……そんなん、ずるいやん」
彼女は俯いた。
「うち、そんな顔してたん?」
「してたよ」
「……知らんかった」
ただ、俺の手を握り返した。
それから、彼女の指が、俺の指に重なった。
「消して」
残してあった灯りに、手を伸ばした。
「……うん」
──暗闇のなかで、川の音が少しだけ遠くなった。
彼女の指先が、俺の手のひらの中で、小さく震えていた。
握り返すというより、預けるという仕草だった。
十年分の「別にいいよ」が、ゆっくりとほどけていった。
──朝、障子の向こうが白んでいた。
隣で目を覚ました彼女は、天井を見たまま、ぽつりと言った。
「……あのな」
「うん」
「もう、『別にいいよ』て言わへんからな」
俺は笑って、彼女の髪に触れた。
「言ってもいいよ。そのときは、聞くから」
「……ほんま、ずるい人やわ」
そう言って、彼女は俺の胸に額を預けた。
◆◆◆
⑩缶コーヒーと、ポケットの中
──三月の、まだ寒い夜だった。
無茶な残業続きで、公園のベンチで頭を抱えていると、いつの間にか隣に座っていた彼女が、何も言わずに温かい缶コーヒーを俺の手に握らせた。
「……あったかい」
「そやろ」
それだけだった。
彼女の指のほうが、俺よりずっと冷たかった。
缶ごと、両手で俺の手を包んで、少しのあいだ、そのまま離さなかった。
彼女は理由を聞かなかった。
街灯の下で、穏やかな瞳が一度だけ俺を見て、すぐに前を向いた。
それだけで、肩が少し楽になった。
──そうか。
ずっと、わかりにくい彼女を俺が理解してやっている、と思い込んでいた。
──逆だった。
彼女はとっくの昔から、俺の声の高さや歩く速さの変化に気づいて、そのたびに何かを手渡してくれていた。
あおいバケツ。
半分こにした缶ミルクティー。
奢らされたアイスラテ。
半分にした崩れたタコ焼き。
ひったくられたコーヒー牛乳。
そして今夜の、あったかい一本。
──理解させられていたのは、俺のほうだった。
白い息を吐いて、彼女がコートの前を合わせた。
指先が赤かった。
「寒くない?」
「寒い」
「じゃあ、これ」
俺は彼女の手を取って、自分のコートのポケットに入れた。
「……あったかい」
「俺のポケットだけど」
「細かいこと、気にせんでええやん」
彼女はそのまま、ポケットの中で指を動かした。
「……ん?」
指先が、何かに触れた。
「なんかある」
「……何もない」
「あるやん」
彼女が笑いながら、ポケットの中を探る。
「箱?」
小さな箱を、指先でつついた。
「……タバコ?」
「吸わないだろ、俺」
「じゃあ、何?」
「六月、空けといて」
「……何が?」
「行き先は、俺が決める」
彼女が顔を上げた。
「それ、うちの台詞やんか」
「調べるなって言うなよ。もう押さえた」
「押さえたって、何を」
「チャペル」
ポケットの中で、彼女の指が止まった。
「……べっ」
言いかけて、彼女は黙った。
箱を握ったまま、俺を見る。
その瞳が、街灯を映して揺れた。
「……ううん」
小さく息を吐く。
「行く。行きたい。絶対に行きたい」
「うん」
「ずっと、行きたかった」
彼女は、それ以上、何も言わなかった。
ポケットに片手を入れたまま、反対の腕で俺を抱きしめた。
◆◆◆
⑪やっとか
──報告は、順番にした。
学生時代からの友人夫婦に話すと、二人は顔を見合わせた。
「……やっとか」
「十年だぞ」
「賭けてたんだよ、俺ら。いつ言うかって」
「誰が勝ったんだ」
「誰も勝ってない。みんな、とっくに忘れてた」
「……うるさい」
二人は笑った。
奥さんだけが、笑ったあとで、少し真顔になった。
「でもね、ほんとによかった。……あの子ね、うちの子が熱を出した夜、冷却シートとか簡単に食べれる物を持ってきてくれたの」
「……知らなかった」
「あんたには言わないでって、あとで言われてたんだけどね」
奥さんは、肩をすくめて笑った。
「いい子だよ、ほんとに」
──彼女の母には、電話をかけた。
「やっとかいな」
「はい」
「ほんで、式場はどこにしたん」
「神戸です。北野の、小さなチャペルで」
「……神戸かいな」
「はい」
少しの沈黙のあと、母が笑った。
「ええとこ、選んでくれたなあ」
「十年やで。うち、あんたが挨拶に来る日、赤飯炊く準備、三回してんねん」
「すみません……」
「ええんよ。……あの子な、四つのときに、うちと二人でこっちへ越してきたんや。あの人……前の旦那と別れてな」
「……はい」
「向こうでは普通にしゃべっとったのに、こっちでは、言葉がちょっと違うだけで笑われることがあってな。子ども同士やし、たいした意味もなかったんやと思う」
「そやけど、あの子は気にしてしもたんやろな。いつの間にか、人前では標準語で話すようになってしもて。……家では、ずっとあのままやったけどな」
「……小四のとき、俺も笑いました」
「知っとるよ」
即答だった。
「その日、家で泣いとったわ。……せやけど、次の日、こう言うてた。『あの子、あやまってくれて。あれから、いっぺんも笑わへんねん』て」
言葉が、出なかった。
「そういや、中三の試合でな。あの子、スタンドからえらい声で叫んどったやろ」
「……覚えてます」
「あれからやわ。外でも、少しずつ大阪弁が出るようになったんは」
受話器の向こうで、母が声を落とした。
「あんたの前やと、いちばん出てまうんやて。……ええ顔して言うてたで」
「……はい」
「あの子の『任せとき』と『別にいいよ』な。あれ、もとはあの人の口癖なんよ」
「……え」
「電話のたんびに、あの人が言うてたんや。あの子、それをよう真似しとってな。……今はもう、すっかりあの子の言葉やけどな」
「ほんでな、これは、あの子には内緒やけど」
母が、少し声を潜めた。
「去年の秋、会社から大阪の話があったんよ。向こうの支社に来んか、て」
「……聞いてません」
「そらそうや。『別にいいです』て断ったんやて。……ほんまは、迷てたんやろうにな」
──あの木枯らしの日が、頭に浮かんだ。
マフラーに顎を埋めて、「なんでもない」と言った彼女。
「ひとりで帰るね」と言った背中。
──あの日、彼女は、ひとりで何を断ってきたのだろう。
「……なんで、俺に言わなかったんでしょう」
「言うたら、あんた、『行ってええよ』て言うやろ。……ほんまは、『行かんといて』て言うてほしかったんかもしれんけどな」
言葉が、出なかった。
「向こうには、あの子のおばあちゃんもおるし、あの人もおる。……それでも、こっちにおる、て決めたんや」
「……」
「ほんで、神戸や。大阪から三十分やろ。おばあちゃんも、あの人も、来れるわ。……あんた、知らんと、ええとこ選んどったんやなあ」
「……偶然です」
「それが、ええんよ。……ええご縁よ」
母が、小さく笑った。
「……大事にしたってな」
──あの砂場の「任せとき」を、俺は思い出した。
聞き慣れない響きだと思った、あの夕方。
あれは、誰かからもらった言葉を、彼女が自分のものにして、最初に俺にくれた素顔だった。
◆◆◆
⑫六月、チャペルの控室
──六月の朝は、梅雨の晴れ間だった。
受付に向かう廊下で、友人に背中を叩かれた。
「やっとかよ」
「聞き飽きた」
「何度でも言うわ。賭け、返せよ」
「誰も勝ってないって言っただろ」
友人たちの笑い声が遠ざかると、受付のほうから、関西弁の笑い声が聞こえてきた。おばあちゃんと、彼女の──お父さんだ。
控室の扉の前に立った。
窓の外では、あおい紫陽花が雨粒を載せて咲いていた。
遠くに、雨上がりの街が光っていた。
パイプオルガンの音が、壁の向こうで低く響いている。
大きな鏡の前に、純白のドレスの彼女が立っていた。
裾を両手でぎゅっと握りしめている。
砂場でバケツを握っていたころと、同じ握り方だった。
「緊張してる?」
振り返った彼女の、ベールの奥で瞳が揺れた。
「……別にって、言いたいけど……」
歓びと、少しの不安と、あふれそうな何かが混ざった、澄んだ目だった。
「──なあ。こんな扱いづらいうちやけど……」
彼女はゆっくり歩み寄り、俺のタキシードの袖口を指先でキュッと引いた。
──あの城崎の夜と同じに。
「愛してくれるん? ……死ぬまで、ずっと」
いつもの標準語は、どこにもなかった。
ぽろりと一粒、涙が頬を伝った。
──取扱説明書は、最後まで完成しなかった。それで、よかったのだ。
俺は笑って、親指で涙をぬぐった。
「扱いづらくなんてないよ」
細い手を、包むように握る。
「たぶん俺、一生かかっても君のこと全部は分からない」
「……え」
「だから、一生かけて分かっていく」
彼女の瞳が、大きく揺れた。
「……それ、ずるいわ」
「何が」
「そんなん言われたら……」
俯いて、ドレスの袖でそっと目元を押さえる。
それから、ゆっくり顔を上げた。
何度も見てきた、あの笑顔だった。
砂場の日より、ほんの少し大人になった瞳で。
「……ほな、よろしゅう頼みます」
◆◆◆
⑬エピローグ:二冊のノート
──新居の荷造りをしていた日、押し入れの奥から、古いノートが一冊出てきた。
俺のではなかった。
小学生用の算数ノート。
表紙の角が丸くなっていて、ひらがなの多い、丸い字が並んでいた。
「……あ」
後ろから覗き込んだ彼女が、声を上げた。
「見たらあかん」
「もう見た」
最初のページには、小四の、あの給食の日の日付があった。
『きょう、あかんて言うたら、みんなわろた。
あの子も、わろた。
でも、あとで、ごめんて言いにきた。』
その下には、少し間を空けて、こう書かれていた。
『あの子のこと、もうちょっと知りたい。』
ページをめくる。
『好きなもの。』
『苦手なもの。』
『サッカーのこと。』
『何も言わずに、そばにいてくれる。』
『落ち込んでいるとき、いつもより歩くのが遅くなる。』
『ミルクティーよりもコーヒーが好きになった。』
短いメモが、何ページも続いていた。
「……これ、いつまで書いてた?」
彼女は耳を赤くした。
「内緒」
「俺のノートと、同じようなこと書いてる」
「……知らんかったもん」
俺は、自分のノートを思い出した。
──あの日から、彼女も俺のことを知ろうとしていたらしい。
「分かった?」
「うちも全然」
彼女は、ほっとしたように笑った。
俺たちは、二人で笑った。
彼女はノートの最後のページを開き、少し考えてから、鉛筆を走らせた。
『分からんときは、本人に聞く。』
それから、俺の手を取った。
「……これでええやろ」
「うん」
俺は、その手を握り返した。
──引っ越しの翌日、段ボールはまだいくつも残っていた。家具も、そろってはいない。
窓から差し込む光の中で、彼女が部屋をぐるりと見回していた。
「……なあ」
「ん?」
「ここ、うちらの城やな」
「城?」
「そう。城」
彼女は窓の外に目を向けたまま、そう言った。
横顔を見ていて、思い出した。
西日の差す砂場。あおいバケツ。壊された、俺の城。
「……壊すなよ」
「知らんで? 変やったら、また壊すかもしれへん」
「おい」
「そのときは」
彼女は、こちらを向いた。
「一緒に作り直したるから……任せとき」
磨いたガラス玉みたいな瞳に、午後の光が映っていた。
(了)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
彼は、彼女の心を理解しようと、取扱説明書を作り、何度も答えを探しました。
けれど、人の心は、いつも同じではありません。
昨日分かったことが、今日も正解とは限らない。
それでも、分からない相手を知ろうとし、言葉を交わし、隣に居続けること。その試行錯誤のなかにこそ、人と人が分かり合おうとする尊さがあるのかもしれません。
木枯らしの季節を越え、ふたりの旅は、ひとつの場所へたどり着きました。
取扱説明書は、最後まで完成しませんでした。
それでも、ふたりはこれからも、何度でも一緒に城を作り直していくのでしょう。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。(人*´∀`)。*゜+
(追記)
久しぶりに連載書いたもので、完結設定するの忘れてたよ……(@_@;)<完結サギじゃないねん……ごめんやす……。




