【取扱説明書のない彼女】─前編①〜⑦─
「木枯らし」と「旅」。
ふたつの企画に寄せて、ひとつの恋の物語を書きました。
幼い日の砂場での出会いから、少しずつ変わっていくふたりの距離。
分かっているつもりなのに、どうしても分からないこと。
そして、言葉にできない気持ち。
彼女を理解しようと、ひそかに彼が『取扱説明書』を書き続けるお話です。
果たして、その説明書は完成するのでしょうか。
どうぞ、ふたりの歩みを見守っていただけたら嬉しいです。(*人´ω`*)<長くなったので、前編後編に分かれています。
【取扱説明書のない彼女】─前編─
①プロローグ:あおいバケツ
──出会ったのは五歳か六歳のころ。近所の、小さな砂場のある公園だった。
西日の夕方、短い髪に泥だらけのオーバーオール。
膝小僧は擦り傷だらけだった。
男の子だと思った。
その子は、あおいバケツに砂を山盛りにして振り向いた。
「見て!」
瞳が、磨いたガラス玉みたいに光を返していた。
「……男の子?」
「女の子!」
即答だった。
「あ、ごめん」
「いいよ!」
そのあと彼女は、俺の砂のお城を「じゃあ、こうする」と言って、山盛りのバケツをひっくり返して、全部壊した。
「なんで!?」
「変やもん。バケツ持ってて」
「ええ……?」
「いっしょに作ってあげる」
そう言いながら、彼女は小さなシャベルの柄のほうを、俺に向けて差し出した。
「……うん」
受け取った柄は、彼女の手の温度で、まだ温かかった。
「任せとき!」
その一言だけ、聞き慣れない響きがした。
ただ、壊したのも作るのも彼女で、俺はバケツを持たされただけだった。
◆◆◆
②小学四年生:あかん!?
──小学四年の、給食の時間だった。
当番だった彼女が、配膳台で牛乳のパックを落とした。
「あか──ん!?」
白い液体が、床に丸く広がった。
教室が、静まった。
それから、どっと笑いが起きた。
「あかーん?」
「今の聞いた?」
男子が、真似をした。
俺も、笑った。
理由なんてなかった。
教室の空気に、体が先に動いた。
目が、合った。
彼女の瞳から、すっと温度が引いていくのが、見えた。
磨いたガラス玉が、曇った。
放課後、昇降口で、俺はすぐに謝った。
「ごめん、笑って」
「別にいいよ」
彼女は、笑っていた。
口の端だけで。
目は、俺ではなく、自分の上履きの爪先を見ていた。
「ほんとに?」
「ほんとに」
俺はほっとして、サッカーをしに走った。
それが、彼女の「別にいいよ」を聞いた最初の日だった。
そして、最初に間違えた日でもあった。
──翌週の音読で、彼女は小さな声で読んだ。
目は、教科書から上がらなかった。
あれは「別にいいよ」の目じゃなかったのに、後から気づいた。
その夜、俺は算数ノートの最後の使わないページに、書いた。
『彼女の取扱説明書』
【すき:ミルクティー、いちごのグミ】
【きらい:大きい声、笑われること】
【別にいいよ → ?】
『?』の先は、書けなかった。
それから俺は、一度も彼女のしゃべり方を笑わなかった。
彼女も、教室で「あかん」と言わなくなった。
◆◆◆
③中学生:半分こ
──中二の秋、彼女が近づくと、笑い声がぴたりと止むようになった。
きっかけは知らない。
誰かの「かわいこぶってる」という一言だったらしい。
いつも一緒に帰っていた子たちが、先に教室を出るようになった。
彼女は、ひとつ遅れて、昇降口に向かった。
昼休み、彼女は教室から消えた。
図書室の窓際に、ひとりで座っていた。
司書の先生が、貸出カウンターから、俺にだけ聞こえる声で言った。
「あの子ね、毎日、返却棚を揃えてくれてるの。頼んでもいないのに。背表紙の向きまで」
「……そうですか」
「誰かが見てなくても、そういうことのできる子よ」
俺は静かに歩み寄って、彼女の斜め前の席に腰を下ろした。
司書の先生のその言葉に、背中をそっと押された気がした。
「大丈夫?」
「別にいいよ」
「ひとりでいいの?」
「別にいいよ」
いつもと、同じ答えだった。
俺は何も言わず立ち上がると、返却台に積まれたままになっていた本を数冊、手に取った。
彼女がいつもそうしているように、背表紙の向きをきれいに揃えて、分類番号の棚へ一冊ずつ戻していく。
不器用な俺の手つきを、窓際の彼女がじっと見ている気配がした。
──俺は、押し入れからノートを引き出した。
小学四年の、『?』の先は、まだ空白だった。
【几帳面。】
【誰も見ていないところで、黙って棚を綺麗にする。】
新しく一行を書き加えてから、俺はペンを置いた。
俺は、彼女を『解こう』とした。
──ある日の昼、女子の輪の中に割って入って、言った。
「あいつのこと、無視すんなよ」
声が、自分が思ったより大きかった。
教室が、静まった。
次の瞬間、誰かが言った。
「うわ、彼氏じゃん」
笑いが起きた。
小四の給食の、あの笑い声と同じだった。
ただ、今度笑われているのは、俺のほうだった。
扉のそばで、彼女がこちらを見ていた。
「……やめてや」
小さな声だった。
彼女は、静かに教室を出ていった。
翌日から、彼女と俺のあいだには、ひとつ距離ができた。
俺のせいだった。
──十一月の夕方、校門を出る彼女の少し後ろを、俺は歩いた。
言葉を探しては、全部、間違っている気がした。
信号の手前の自販機の前で、足が止まった。
気づくと、俺は小銭を入れていた。
彼女は立ち止まった。
ガコン、と音がして、温かいミルクティーが落ちた。
俺は、それを黙って差し出した。
彼女は袖を引き伸ばして、手のひらごと缶を包んだ。
そのまま、缶の縁を顎の下に当てて、口元を隠した。
「……何も、聞かんといてな」
瞳が、揺れた。
「うん」
ゆっくりと一口飲んで、彼女は、缶を俺に返した。
鼻の頭が、赤かった。
寒さのせいだけではなかった。
「半分こ」
受け取って、飲んだ。
甘かった。
信号が青に変わった。
少し後ろにいたはずの俺は、いつのまにか、彼女の隣にいた。
俺たちは、並んで渡った。
──三か月後の二月、彼女は、別のクラスの子と笑っていた。
新しい輪の中で、元気そうだった。
俺が助けたのではなかった。
ただ、隣を歩いただけだった。
──その二月、俺は、地区大会の前にレギュラーを外された。
サッカー部、左サイドハーフ。
帰り道、彼女が横に並んだ。
何があったのかは、聞かれなかった。
「大丈夫?」とも、言われなかった。
ただ、ちらりと俺の顔を覗き込んできた。
その瞳は、静かに揺れていて、俺の胸の痛みをそのまま映し出しているようだった。
ボソリと「別に」とだけ言うと、彼女は「そっか」と答えた。
コンビニの前で、彼女は「待っとって」と言って、中に入っていった。
出てきたとき、肉まんをひとつ持っていた。
「半分こ」
彼女は肉まんを両手で割った。
立ちのぼった湯気に、「あつっ」と首をすくめる。
それでも、大きいほうを、先に俺のほうへ突き出した。
「……俺、肉まん好きって言ったっけ」
「言ってない。でも、今日、食べたそうな顔してた」
囓った肉まんは熱くて、旨かった。
少し目に湯気が沁みた。
「俺、向いてないのかな」
「知らん」
「そこは励ませよ」
「でも……サッカーやめたいん?」
「……やめたくない」
「ほな、向いてるかどうかなんて、今はどうでもええやん」
彼女は、肉まんが入っていた紙をくしゃっと丸めて、ゴミ箱に投げた。
キレイな放物線を描いて、中に入った。
「うち、コントロールうまいねんで」
振り返った彼女が、自慢げに笑った。
それだけだった。
それなのに、胸の重さが、半分になっていた。
──それから俺は、正解を探すみたいに上手くなろうとするのをやめた。
ただ、蹴りたかったから、蹴った。
肩の力が抜けると、ボールが足に吸いつくようになった。
──中三の春、俺は、レギュラーに戻った。
最後の夏、七月の地区大会。
準々決勝だった。
前半で、0対2になった。
蒸し暑かった。
スタンドの声が、遠かった。
そのなかで、ひとつだけ、聞き慣れた響きが、耳に届いた。
「行けえ!」
スタンドの端で、彼女がフェンスを両手で握っていた。
「あかん! 下がったらあかん! 前や、前!」
小四の給食以来、人前で「あかん」と言わなくなった彼女が、全力の言葉で叫んでいた。
周りの生徒が、驚いて振り向く。
それでも、笑うやつは、いなかった。
みんな、試合を見ていた。
後半十分、俺は、左から中へ切り込んで、足を振った。
ゴールネットが、揺れた。
1対2。
流れが、変わった。
味方の足が動き、相手の足が止まった。
後半の終わり、俺の出したパスが、同点ゴールになった。
2対2。
スタンドが、爆発した。
彼女の声が、いちばん大きかった。
ロスタイム、相手のロングボールが、キーパーの指の先をかすめた。
2対3。
笛が、鳴った。
俺は、ピッチに座り込んだ。
悔しい、というより、心の中が空っぽだった。
整列して、挨拶をして、スタンド下の通路に戻ると、彼女が待っていた。
顔が、くしゃくしゃだった。
「なんで……あそこで……」
「……」
肩が、震えていた。
「あかんかったやん……あんなに、頑張ったのに……」
「……なんで、お前が泣くんだよ」
「悔しいもん!」
彼女は、俺以上に、悔しそうに泣いていた。
気づくと、彼女を抱きしめていた。
反射だった。考える前に、腕が動いた。
彼女の頭が、俺の肩口に収まった。
泣き声が、制服の布越しに、直接響いた。
その声を聞いているうちに、遅れて、俺の目からも、涙が落ちた。
どちらからともなく離れたとき、お互いの顔を、見られなかった。
「……ごめん。うち、あんたより泣いてしもたわ」
夕焼けだけが、赤かった。
「応援……ありがとな」
「別にいいよ」
彼女の瞳は、嘘をついていなかった。
本物の「別にいいよ」の目だった。
「……あ、お取り込み中?」
通路の角から、キャプテンが顔を出した。
「違う」
「違わへんやろ」と言う彼女の声は、鼻声だった。
「あの声、ベンチまで聞こえてた。『前や、前』で、全員走れた。……ありがとう」
キャプテンは、頭をかいて、彼女に深々と頭を下げた。
「え、うち、何もしてへん」
「した」
キャプテンの後ろで、部員たちが、がやがやと顔を出した。
「ありがとう!」「また来てくれ!」
彼女は、袖で顔をごしごしこすって、言った。
「……ほな、また来るわ」
照れ隠しの、ちょっと偉そうな声だった。
──その夜、俺は、また押し入れからノートを出した。
【別にいいよ → ?】の先に、何か書こうとして、やめた。
書かなくても、もう分かる気がした。
俺は、ノートを押し入れにしまった。
◆◆◆
④高校生:分かってる
──高校で付き合い始めたとき、彼女の髪は肩まで伸びていた。
それでも、あの夕方から変わらないものがあった。
冬の通学路で渡した缶ミルクティーに、彼女は「ありがとう」と目を細める。
そのくせ半分も飲まないうちに「あげる」と返してくる。
新作パフェの前では瞳を輝かせて、俺のフルーツまで先に取り上げる。
高校二年の冬、駅前の店で、限定のいちごグミを見つけた。
買って、渡した。
「……え?」
彼女の目が、大きくなった。
「いちご、好きだろ」
「……なんで知ってるん。うち、言うたっけ」
「……なんとなく」
彼女は袋を両手で包んで、本当に嬉しそうに笑った。
「……うれしい」
それだけだった。
ひねった台詞も、「別にいいよ」も、なかった。
【気持ちは全部、目に出る。】
それで、分かったつもりになった。
◆◆◆
⑤改札前の「別にいいよ」
彼女とは常に連絡を取り合う仲のままで──社会人四年目の十月、金曜の夜。
雨上がりの渋谷で、路面が街灯を滲ませていた。
大きめのニットにミモレ丈のスカート、履き古したレザースニーカー。
いつも真っ直ぐ引かれているアイラインが、今日は目尻でわずかに滲んでいる。
重そうなカバンを、彼女が片方の肩からもう片方へかけ直した。
「疲れてるなら、今日は早めに帰る?」
改札の手前で聞くと、彼女は口角だけで笑った。
ニットの袖口を指でキュッと引く。
「別にいいよ。どっちでも」
瞳が俺の鼻先あたりをふわっと泳いで、一度、やさしく瞬いた。
「……じゃあ、解散にしよっか」
「うん。じゃあね」
改札へ消える背中が、階段の手前で一瞬止まって、肩がほんの少し落ちた。
心がざわりと、引っかかりを覚えた。
取扱説明書なんて、もう暗記しているつもりだった。
──あれは「帰りたい」の目じゃなかった。
「あの日さ、もうちょっと歩きたかったんだよね」
数日後のカフェで、彼女はアイスラテの氷をストローでカラカラ鳴らしながら言った。
「……言えよ」
「言ったら『わがまま』じゃん」
彼女は氷をつつきながら、ちらりと俺を見た。
「だから、察してほしかったの……。察しなかった罰として、ここ奢ってね」
「……理不尽だ」
「うん」
そう言いながら、彼女はストローの袋を指二本で歩かせて、俺のコップの前でぱたんと倒した。
「でも奢ってね」
あの「別にいいよ」は拒絶でも妥協でもなかった。
俺に気を遣わせたくない、という小さな嘘だった。
──思えば、小四のあの日から、その嘘はずっとそこにあった。
しかも、その嘘の代金はきっちり請求される。
◆◆◆
⑥メモと、木枯らし
その夜、俺はスマホのメモに『彼女の新しい取扱説明書』という項目を作った。
・共感すると回復する(結論は後)
・冷たい態度に弱い
・疲れたら甘いもの
・小さな変化に気づくと喜ぶ
・準備に以外と時間がかかる
・話は最後まで聞く
・放置しすぎない。でも干渉しすぎない。
・「別にいいよ」は『要確認』
『要確認』と書いて、小四のノートの『?』を思い出した。
何も変わっていなかった。
メモに書いたことより、書かなかったことのほうが、多かった。
──残業帰りの自販機の前で、気づくと、ミルクティーを二本買っていた。
「二本も飲むん?」
「……一本、お前の」
「知ってる」
彼女は笑って、一本を受け取った。
いつからか、自分で買うときも、ミルクティーを選ぶようになっていた。
たぶん、好きになったのは、彼女の影響だった。
『彼女の新しい取扱説明書』は、最初の数週間は、面白いように当たった。
──髪を切った翌日に気づくと、彼女は目を丸くして「え、なんで分かったの」と笑った。
──愚痴を最後まで聞いたら、帰り際に「今日、楽になった」と言われた。
俺は、メモに◎を増やしていった。
──十一月の半ば、仕事終わりで珍しく黙り込んで来た夜があった。
玄関で靴を脱ぐ背中が、いつもより小さかった。
俺は、メモの通りにやった。
「大変だったね」と先に言って、買っておいたモンブランを出した。
彼女の新しい好物だった。
彼女は箱を見て、一度瞬きをした。
「……ありがとう」
瞳が、少しだけ陰った。
「疲れた日は、甘いもの。だろ?」
彼女は笑った。
「……それは、ちょっと違うかな」
「え?」
「ううん。なんでもない。いただきます」
──その夜、俺はメモの「疲れたら甘いもの」の横に、△を足した。
十一月の終わり、『木枯らし』が吹いた日の夕方だった。
並木道に、乾いた葉が音を立てて転がっていた。
彼女はマフラーに顎を埋めて、袖の中に両手を引っ込めている。
朝から口数が少ないことには、気づいていた。
「何かあった?」
「なんでもない」
俺は彼女の瞳をまっすぐ覗き込もうとした。
「……何かあったよな?」
「なんでもないってば」
すんなり引いてくれない俺に焦ったのか、彼女は視線を足元へ落としたまま、拒絶するように頑なに口を閉ざした。
その横顔を見つめていると、胸の奥で冷たい焦燥感がじわじわと広がっていく。
「言ってくれなきゃ分からないって……」
俺の言葉は彼女に届いていない。
今の彼女の瞳は、頑なに俺を映してくれない。
「『なんでもない』って言われたら、俺はどうすりゃいいんだよ……」
絞り出すような声は、自分でも抑えがきかないくらい、どんどん熱を帯びて大きくなっていった。
「俺なりに、ちゃんと分かろうとしてるのに!」
怒っているわけじゃない。ただ、取り残されるのが怖くて、必死だった。
風が、彼女の髪を巻き上げた。
びくりと肩が揺れて、顔を上げた瞳は、怒っているのではなく、ふっと静かに陰っていた。
「……分かろうと、してくれてるんやね」
風にまぎれて、語尾が、いつもと少し違う響きをしていた。
「ごめん。私が考えすぎてただけ。……今日は、ひとりで帰るね」
唇が、かすかに震えていた。
──俺は、追いかけなかった。
追いかけて、まだ『正解』の言葉を探している自分に、気づいたからだ。
◆◆◆
⑦手ぶらの日曜日
『――ごめん。ちょっと考える。』
返信は、一言だけだった。
一週間、俺はメモを開かなかった。
また『正解』を考えそうな気がしたからだ。
その代わり、日曜の夜に、最初から読み返した。
◎のほとんどは、当たっていた。
それなのに、彼女はあの夜、笑って「ちょっと違うかな」と言った。
──当たっているのに、違う。
その理由が、俺には書けなかった。
──俺は、手ぶらで彼女の部屋へ行った。
ケーキも、飲み物も持たずに。何も持たずに彼女を訪ねたのは、初めてだった。
ドアを開けた彼女は、袖から指先だけを出していた。
目が、少し腫れている。
「……手ぶらやん」
「これ、読んでほしい。……かっこ悪いけど」
スマホを差し出すと、彼女は玄関の段に座り込んで、自分の隣の床を、袖の先でぽんぽんと叩いた。
「……玄関、寒いで。ここ座り」
俺は、拳ひとつぶん空けて、隣に座った。
彼女は、黙って、その拳ひとつぶんを詰めた。
それから、画面を見た。
指が、ゆっくりスクロールする。
「……『「別にいいよ」は『要確認』?」
「うん」
「要確認、て」
肩が震えた。
笑っているのか、泣いているのか、分からなかった。
「確認の仕方は、書けなかった」
「そやろな」
次の行で、指が止まった。
「……『疲れたら甘いもの △』」
「あの日、違ったんだろ」
彼女が顔を上げた。
「半分は、当たってるんよ」
「半分?」
「ケーキは、ほんまに嬉しかった。でもあの日は、ケーキより……横におってほしかってん」
「……言えよ」
「……言えたら、こんな面倒くさい女してへんわ」
鼻をすすって、彼女は笑った。
「責めてるんちゃうで。……あんたが、こんなん書いてくれてたん、嬉しいんよ。中学のときもそうやったやん。何も言わんと、隣におってくれた」
「……あれは、何も思いつかなかっただけだ」
「それでええねん。あれが、いちばん嬉しかったんよ」
彼女の目は、まっすぐ俺を見ていた。
「でもな。これ、全部当たってても、うちはうちやで。……昨日のうちと、今日のうち、ちゃうもん」
「……うん」
「うちかて、うちのこと、全部は分かってへんねんから」
彼女は親指で、メモの一番下に、一行だけ打った。
『分からんときは、本人に聞くこと。』
「これだけ残して。あとは、消して」
「全部?」
「全部。……でないと、あんた、またそれ見て、うちのこと解こうとするやろ」
──図星だった。
俺は、その場で全部消した。
画面には、彼女が打った一行だけが残った。
「……手ぶらで来てくれて、ありがとう」
そう言って、彼女は俺の指先に、自分の指をそっと重ねた。
その指が、少しだけ震えていた。
俺は、彼女の顔を見た。
泣いたあとの目が、まっすぐ俺を見返していた。
何か言おうとした。
「……キスしても、ええよ」
彼女が、小さく笑った。
「……まだ、何も言ってないだろ」
「顔に書いてあるで」
「……そういうの、ずるいな」
彼女は答えず、重ねた指に、ほんの少し力を込めた。
俺は、ゆっくり顔を近づけた。
彼女も、ゆっくり顔を近づけ、目を閉じた。
──触れるだけのキスだった。
離れたあと、彼女は額を俺の肩に預けた。
「……ほんま、遅いねん」
「……悪かった」
「ううん」
彼女の指は、まだ俺の指を握っていた。
玄関は寒かった。
それでも、もう、どちらも立ち上がろうとはしなかった。
(後編につづく)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。m(_ _)m
彼は、彼女のことを知ろうとしてきました。
好きなものも、苦手なものも、言葉に隠れた気持ちも。
それでも、どうしても分からないことがある。
長い時間をかけて書き足してきた『取扱説明書』は、いったいどこへ向かうのでしょうか。
木枯らしの吹く季節を越えて、ふたりの旅は、もう少し続きます。
後編も、どうぞよろしくお願いいたします。(*人´ω`*)




