アレクシスの帰還
——近衛副官ルスラン・ベルデン卿書簡
北方駐留中の旧友宛、帰還翌日付
おまえに知らせておくべきことがある。
昨日、王太子アレクシス殿下とともに王都へ帰還した。
無事、という言い方をしていいかは分からない。体は五体ある。けれど、戻ってきた殿下は、出立した時とは少し違う人になっていた。
戦のことは今は置いておく。
伝えたいことは、帰還の日の出来事についてだ。
——帰還記録 抄
王太子アレクシス殿下、冬月末日、王都正門より帰還。
随行近衛十二名。負傷者多数、重傷者なし。
出迎えは王宮側近および軍務局使者。
第二王子セドリック殿下は東棟にて待機。
帰還後、王太子宮にて着替え、軍務局への報告、王への謁見。
私的面会の記録、なし。
——ルスラン・ベルデン卿書簡 続き
殿下が婚姻の報せを聞いたのは、着替えの途中だった。
側近の一人がうっかり口を滑らせたのだ。
伯爵令嬢エレノア・ヴァレニウスが嫁いだ、と。
殿下は、外套のボタンに手をかけたまま動きを止められた。
長い沈黙だった。
怒りではなかった。もっと静かな、諦めとも違う、何かを確かめるような顔だった。
自分がいない間に世の中がきちんと動いていたことを、初めて目の当たりにした人の顔、と言えば近いかもしれない。
「……そうか」
仰られたことは、それだけだった。
そのあと、外套のボタンを最後まで留めて、何事もなかったように軍務局への報告に出られた。
俺は何も聞かなかった。
聞いてはいけないと思った。
——再構成会話
王宮西棟廊下にて、帰還三日後
ラウル公爵と王太子アレクシス殿下が言葉を交わしたのは、帰還から三日後のことだった。
公式の場ではない。西棟の廊下で、たまたますれ違った——という体だったが、それが偶然だったかは分からない。
俺は少し離れた場所にいた。声は聞こえた。
「公爵」
「殿下。ご帰還、お慶び申し上げます」
「相変わらず堅いな」
「――では、お帰りなさいませ」
「……ああ」
一拍、間があった。
殿下は公爵の顔をまっすぐ見た。
公爵も逸らさなかった。
「公爵、其方は彼女を幸せにできるのか?」
ラウル公爵は眉ひとつ動かさなかった。
けれど、答えるまでに一呼吸あった。
「幸せにする、という言い方は似合わないかと存じますが――」
「……そうかもな」
殿下は、そこで少しだけ笑った。
笑った、というのが正しいかは分からない。口元がほんの少し緩んだだけだ。
けれど、あれは戦地では一度も見なかった顔だった。
苦いのに、どこか安心しているような。
自分が渡せなかったものを、渡せる人間がいたと知った人の顔だった。
「彼女は、守ってやろうとすると怒るぞ。俺は何度もそうされた。手を伸ばすたびに、自分で立てますと言わんばかりの顔をされた。あの冷たさは、慣れるものではない」
「存じております」
「数字の話しか聞かないぞ。帰れたなら伝えると泥の中で書いた言葉も、あの女の前では帳面の一行に負ける。……俺の手紙より、北倉の在庫のほうが大事なんだ」
「承知しております」
「それでもか」
「だからこそ、です」
殿下は黙った。
長い沈黙ではなかった。けれど、重かった。
「……任せたぞ」
ラウル公爵は何も答えなかった。
ただ一度、深く頭を下げた。
殿下はそのまま歩き去った。振り返らなかった。
——ルスラン・ベルデン卿書簡 末尾
殿下はそれ以上、何もおっしゃらなかった。
王太子宮に戻られてからも、伯爵令嬢の名前は一度も出なかった。
俺はあの時、初めて思ったのだ。
殿下はあの方のことを、本当に分かっていたのだと。
幸せにする、という言い方が似合わない女だということ。
守ろうとすると怒る女だということ。
数字の話しか聞かない女だということ。
全部知っていた。
知っていて、それでも自分の手では渡せないものがあると分かっていた。
遅すぎたのかもしれない。
いや、遅い早いの問題ではなかったのだろう。
殿下は王太子で、あの方は王太子の隣には立てない種類の人だった。
それだけのことだ。
けれど、「それでもか」「だからこそ、です」というあのやり取りを聞いた時、殿下の目が一瞬だけ揺れたのを、俺は見た。
あれは嫉妬ではなかった。
もっと正直な、もっと痛い種類の納得だった。
自分には言えなかった言葉を、あの男はたった一言で言い切ったのだ。
それを聞いて、殿下は「頼む」と言った。
王太子が公爵に頭を下げさせた、などという話ではない。
あれは、もっと私的な、もっと小さな言葉だった。
声は低く、誰にも聞かせるつもりのない声だった。
俺が聞いてしまったことを、殿下はたぶん知っている。
けれど咎められなかった。
あの夜の手紙を拾い上げた時と、同じ気持ちだった。




