婚姻の前夜
「机をもう一つ入れろ」
「もう一つ、でございますか」
「一つでは足りん。これでは資料が全部広げられないではないか。棚も足せ。鍵は二重にしておけよ」
——ラウル公爵家家令補佐の記録
婚姻前日
花嫁支度としてはいささか実務的すぎる——と、私は欄外に書きました。
実際、そうだったのです。
伯爵令嬢エレノア・ヴァレニウスの婚姻に伴い、公爵家側で受入れの準備がありました。けれど、最初に確認されたのは装飾品目録ではなく、書類棚、閲覧机、鍵箱の位置でした。
帳場引継ぎ控え、工房融資整理簿、南門受入れ所照合控え——その写し作成が命じられたのです。
婚姻の前だというのに、見られているのは衣装でも宝飾でもなく、帳面と控えと書類棚。
けれど、その時点でもう、この婚姻が何でできていたのかはよく出ていたのだと思います。飾る話ではなく、回す話。休ませる話ではなく、この先もどう並ぶかの話でした。
ラウル公爵閣下の口調はいつも通りでした。特別やさしいわけでもなく、晴れやかな顔をしていたわけでもない。なのに、準備に携わった者たちは皆、妙な顔をしていました。花嫁を迎える部屋の支度としては、あまりに色気がなかったからです。
けれど見方を変えれば、最初から相手を客人扱いしていなかったとも言えます。一時預かるのではなく、そこに居続ける者として置いていた。
——家令補佐の記録 続き
ある方なら、もっと華やかに立たせただろうと思います。ふさわしい場へ連れ出し、その名がよく見えるようにしたはずです。それはそれで、たいそう美しかっただろう。
また別の方なら、もっと細やかに気を配ったに違いありません。冷えぬよう、疲れぬよう、少しでもやわらぐように整えただろう。それもまた、やさしい婚姻にはなったと思います。
けれど、ここで行われていたのは、どちらでもありませんでした。
——再構成会話
公爵家執務室にて
「書類棚まで移す必要はありません」
「あると俺は判断した」
「婚姻直後まで資料を見るつもりはございませんよ」
「まあ、三日は見んだろうな」
「はあ」
「四日ほど経てば、どうせ気になって開くであろう?」
「……否定しにくいお見立てですね」
「だから先に置いておこうと思ってな」
「私にまだ働けとお命じですか?」
「違う。働くのを止められんのなら、止めなくて済む形にしておこうと思ってな。無理に休ませて面倒になるよりよかろう?」
「私が面倒をかけると?」
「違うのか?」
「……よく見ておいでで」
「くくっ……だからいま決めている」
——家中証言
驚いたのは、むしろエレノア様のほうでした。
ふだんのあの方は、誰に対しても説明を削りません。根拠を述べ、反発を見越し、先回りして言葉を足す。
ところが相手がラウル公爵閣下だと、話が短い。短いのに止まらない。横で聞いていると不安になるくらい短いのに、当人同士はそれで済んでしまう。
あれは楽をしているというより、説明しなくても分かってくれると信じている話し方でした。
——再構成会話 続き
婚姻前夜
「最後に確認するが――」
「何でしょう」
「婚姻後も、お前の控えはお前が持っていろ」
「預かりではなく?」
「必要な時にすぐ見られん形は面倒だからな」
「……本当に、隠す気がありませんね」
「その必要がどこにある?」
「花嫁に対して、もう少し言いようがあるのでは――」
「今さら繕っても気味が悪いだけだろう」
その時、エレノア様は少しだけ笑われたそうです。大きくではない。いかにもあの方らしい、小さな笑いだったといいます。
「それは――そうかもしれませんね」
それから、しばらく二人とも黙っていたそうです。
書類の確認は終わっていました。もう話すべきことはない。なのに、どちらも席を立ちませんでした。
そして、ラウル公爵閣下が不意に口を開かれました。
「一つだけ聞く」
「何でしょう」
「――後悔はないか?」
あの方がそんなことをお聞きになるのは、初めてのことでした。
数字の話でも、帳面の話でも、配分の話でもない。ただ、後悔はないか、と。
あの短い言葉の中に、どれだけの意味が詰まっていたか——閣下ご自身がお分かりだったかどうかは分かりません。
「これが最善の選択だったと、珍しく自負しておりますもの」
エレノア様はそう答えられました。
迷いのない声でした。けれど、強がっているようにも聞こえなかった。本当に、そう思っていらした。
ラウル公爵閣下は「そうか」とだけおっしゃって、窓の外を見たまま、ほんの少し口元を緩められました。
あの方が笑ったのを見たのは、あれが二度目でした。一度目がいつだったかは、もう覚えていませんが。
——家令補佐の記録 末尾
ここでようやく、前から並んでいた三つの形が見えてきます。
高く掲げられること。やさしくいたわられること。重い話を、そのまま渡されること。
どれがいちばん正しかったか、などとは言い切らないほうがよいのでしょう。人によって、惹かれるものは違います。熱のある愛もいい。やわらかな愛もいい。
それでも最後にこの婚姻が成立したのは、別のところで噛み合ったからではないかと思います。
持ち上げられなくてもよかった。
休ませてもらえなくてもよかった。
ただ、自分が持っているものを軽くされないこと。重いまま受け取られること。そして、その先を一緒に回していけること。
エレノア様が欲しかったのは、案外その程度のことだったのかもしれません。
けれど、その程度のことがいちばん難しい。
だからこの婚姻は、打算だけにも見えるし、恋だけにも見えません。
もっと地味で、もっと深い一致だったように思えます。
派手な告白の代わりに机が二つ置かれ、飾った言葉の代わりに鍵箱が増えた。そういう形でしか示せないものも、たぶんあるのです。
ある家に伝わっている話では、この夜のことを「静かな夜だった」とだけ語ったそうです。
彼女が最後に選んだのは、自分を救う手ではなく、同じ重さを持つ手でした。
——セシリア




