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誰が悪女を愛したか  作者: 十返香
それぞれの答え

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公爵の弁明

——ラウル公爵家家令補佐の報告

冬月末日


 あの日のことは、はっきり覚えています。


 財務顧問オーレンが、再び進言書を持ってきたときのことでした。


 前の進言書——「伯爵令嬢を公爵家に取り込むべし」というあの紙を、ラウル公爵閣下は破りもせず、かといって返事もなさらなかったのです。机の端に伏せたまま、何日もそこに置いておかれておりました。


 あれをオーレンは「考慮されている」と受け取ったのでしょう。


 今度はもっと踏み込んだ案を持ってきたのです。


 ――そう、婚姻について、です。


 伯爵令嬢エレノア・ヴァレニウスとラウル公爵閣下の政略婚。


 オーレンは資産の見通しと北街区の掌握図まで揃えて、実にきちんとした形で出してきました。



——再構成会話

公爵家執務室にて


「ラウル公爵閣下、お時間をいただけますか?」

「手短にしろ、オーレン」

「伯爵令嬢エレノア・ヴァレニウスの件です」

「……また、か」

「前回の進言を、お退けになっていなかったものと理解しておりましたが」

「退けてもいないが、進めてもいない」

「であれば、もう一歩踏み込んだ形をご提案いたしますが」


 オーレンは卓上に紙を広げました。


 婚姻による公爵家の勢力拡大、北街区の恒久的な掌握、伯爵家との結びつきによる宮廷内での発言力強化——数字と図を使って、手際よくまとめられていました。


「伯爵令嬢を公爵家に迎えれば、北街区のみならず、配分調停の主導権も安定いたします」

「――で?」

「令嬢の才を手元に置く最も確実な手段は、婚姻です。客分や顧問では、いずれ離れてしまいますからな」


 ラウル公爵閣下は、オーレンの紙を一通り見終わってから、静かに卓に戻しました。


 そして、こうおっしゃったのです。


「オーレン。おまえは伯爵令嬢を、駒だと思っているな?」

「駒とは申しておりません。適材を適所に置くと——」

「それを駒だと言っているのだ」


 声は低く、けれど怒りではありませんでした。


 もっと冷たい、呆れに近いものでした。


「伴侶を駒扱いにするのであれば、もっと扱いやすい相手を選べばよかろう」

「……では、なぜあの令嬢をこれほど重用なさるのです?」

「扱いにくいからだ」

「は?」

「己の信念に則って発せられた案は、こちらの顔色ばかり窺っている者の発言より、たいてい真意を突いている。耳の痛いことを敢えて発言する変わり者は少ない。だから手放せない」

「それは、政略として——」

「俺は(まつりごと)の話をしているのではない」


 そこでオーレンが黙りました。


 ラウル公爵閣下は、進言書を丁寧に折り畳んで、オーレンに返されました。


 捨てたのでありません。前回とは違い、今度はちゃんと突き返したのです。


 それは「もう持ってくるな」という意味だったのだと、私は気づきました。


「婚姻の話は、俺が決める。おまえが口を挟んで良い案件ではない。わかったな?」


 オーレンは青い顔をしながら、一礼して下がりました。



——家令補佐の所感


 あの方は笑いませんでした。


 いつもどおりの顔で、いつもどおりの声でした。


 けれど、「扱いにくいからだ」というあの言い方には、怒りでも呆れでもない、もっと別のものがあったように思います。


 何と言えばいいのでしょう。


 面白がっている、というのが近いかもしれません。


 あるいは——いえ、これは私の見すぎかもしれませんが——誇らしく思っている、に近い何か。


 扱いにくい相手を、扱いにくいまま認めている人の顔。


 そういうものが、ほんの一瞬だけ見えた気がしたのです。



——同日夕刻の記録


 その日の夕方のことです。


 伯爵令嬢エレノア・ヴァレニウスが、工房融資の最終照合のために公爵家執務室へ来られていました。


 帳面を三冊広げて、数字を突き合わせて、ずいぶん長い時間やっておられたようです。



 私が書類を届けに入った時、エレノア嬢は帳面の前で黙り込んでいました。


 眠っていたのではありません。目は開いていました。


 けれど、手が止まっていた。あの方の手が止まるのを見るのは珍しいことです。


 ラウル公爵閣下は、向かいの机で別の書類を見ておられました。


 エレノア嬢の手が止まっていることに気づいておられたはずですが、何もおっしゃいませんでした。



 しばらくして、閣下が立ち上がられました。


 棚のほうへ歩いて、茶器を取り出して、ご自身で茶を淹れはじめたのです。


 私は目を疑いました。


 あの方が茶を淹れるところを、この家で見た者はいないはずです。


 給仕を呼ぶか、私が淹れるか、そのどちらかしかなかった。


 それをご自身で——しかも、何も言わずに。



 出来上がった茶を、閣下はエレノア嬢の帳面の横に置かれました。


 「飲め」とも「休め」ともおっしゃらず、ただ置いて、自分の席に戻られた。



 エレノア嬢は少し間を置いてから、茶碗を手に取りました。


 一口飲んで、何もおっしゃいませんでした。


 ――ああ、濃すぎたのでしょう。


 あの方は茶の淹れ方など存じないのですから、当然です。


 けれどエレノア嬢は顔をしかめながらも、黙ってもう一口飲みました。


 そして——ほんの少しだけ、肩の力が抜けたように見えました。


 閣下は何も見ていないふりをして、書類に目を戻されていました。


 でも、ペンを持つ手が、いつもより少しだけゆっくり動いていたのを、私は見てしまいました。




——家令補佐の所感 末尾


 オーレンの進言を退けたあの言葉と、夕方の濃すぎた茶は、たぶん同じものの表と裏だったのだと思います。


 駒にするつもりなら、茶は淹れません。


 政略で囲うつもりなら、濃すぎる茶を自分で出したりはしません。


 あれは、淹れ方を知らない人が、それでも自分の手でやろうとした結果です。



 前にこの部屋で、閣下のお気持ちがわからないと書きました。


 今もわかったとは言い切れません。


 けれど、あの濃すぎた一杯だけは、算盤では出てこないものだったと私は思うのです。

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