任せるということ
「ラウル公爵、北街区分の控えはこちらに」
「そこに置いておけ。で、エレノア嬢の案は?」
「すでに届いております」
「ならばそちらの確認から済ませておこう」
「……北街区の控えより先にですか?」
「当然だ。大本が定まれば、自然と残りも決まっていくのが道理であろう?」
——ラウル公爵家家令補佐の記録
ラウル公爵閣下は、人に仕事を任せるのがうまい方ではありません。
正しく言えば、任せる相手をほとんど選ばない。自分で見たほうが早いと思えばそうなさいますし、危ういと見れば容赦なく差し戻される。
だからこそ、伯爵令嬢エレノア・ヴァレニウスへの扱いは、家中でも目を引きました。
北街区の控えより先にエレノア嬢の案を寄越せ、とおっしゃった場面が、たぶんいちばん分かりやすい例でしょう。
ふつうなら、まず現場の報告を見て、それから進言案を読む。順番としてはそちらが自然です。
けれど閣下は逆でした。エレノア嬢の案を先に読めば、残りの判断も決まる——つまり、あの方の判断を起点にして全体を組んでいるということです。
そのことに、閣下ご自身が気づいていらっしゃったかは分かりません。
——家令補佐の記録 続き
驚いたのは、エレノア嬢のほうも同じでした。
ふつう相手が公爵なら、説明はより丁寧に、分かりやすくしなければなりません。数字の根拠、先回りした弁明、反発への備え、そういうものを重ねる必要があるのです。
けれどラウル公爵閣下が相手だと、そうした心配りは不要でした。
「ラウル公爵、南門は維持、第三区は据え置き、工房だけ半刻増です」
「理由は?」
「南門が崩れると病が回ります。第三区も影響を受けますが、今なら軽微です。工房を止めると来月の補修が――」
「分かった。それで事足りるなら、それで良い」
そのやりとりを横で聞いていた若い書記が、あとで本気で首を傾げていました。「理解が追い付いているのか、今ので?」と。ふつうであれば、その数倍の説明が要るだろう、と感じていたのです。
ですが、足りていたのです。
閣下は、事情を分からぬまま採択しているのではなく、必要なところだけ掴んで決めていらっしゃいました。エレノア嬢もそれを分かっているから、余計な言葉を省いたのでしょう。
話が短くて済む相手にしか見せない、相談の進め方でした。
——再構成会話
別日、公爵家執務室にて
「ラウル公爵、この再整理まで私に任せていただけるのですか?」
「当然だ」
「反発が強うございますよ」
「知っている」
「では、差し戻しも――」
「くどい。其方は心配性だな」
その時、ラウル公爵閣下は少しだけ笑われました。
笑った、ように見えました。あの方の笑みは分かりにくいのです。口元がほんのわずかに動くだけで、目は変わらない。けれど、あの瞬間だけは、いつもより機嫌がよいように見えました。面白がっているようですらあった。
「使える価値があるから其方に任せる。それだけだ」
口ぶりはいつも通りでした。
けれど、もっとも、そんなことは当のエレノア嬢には伝わっていなかったでしょうが。
「ラウル公爵、以前に承った件ですが――」
「何だ、今さら確認が必要か?」
「齟齬があっては手間ですから、要所要所は確認をしていただきませんと」
「其方は問題ないと思っているのであろう? であれば――」
「ご確認をお願いします」
「……む、わかった」
エレノア嬢はそこで一度だけ、公爵のお顔を見たそうです。
いつものように言い返してもよさそうなものでした。軽率だとか、言い切りすぎだとか、責任が重いとか。
けれど、その時だけは何も返されなかった。
「任せる」と閣下が言った時、あの方が初めて言い返さなかった——そのことの意味を、私はあの頃まだ分かっていませんでした。
けれど今なら分かります。
言い返さなかったのは、黙らされたからではありません。返す必要がなかったのです。
あの一言が、あの方にとってどれほどの重さだったか。それを受け取るのに、言葉はいらなかったのだと思います。




