公爵の署名
「ラウル公爵、私の名をここまで出す必要はございません」
「なぜだ、エレノア嬢?」
「――煽りをうけて、貴方が恨みを買うだけ、ですから……」
「そんなもの、今さら一つ二つ増えたところでなんだというのだ」
——ラウル公爵家家令補佐の記録
冬月二十八日
この日、ラウル公爵閣下が出された命令書は、異例尽くしなものでした。
南門受入れ所、北街区炊き出し、工房宿直分の配分再整理。薬草束、灯油、乾燥麦の三項について、伯爵令嬢エレノア・ヴァレニウスの進言案をそのまま採る、と明言されていたのです。
各帳場は異議を差し挟まず、暮刻までに控えを改めること。不足分は公爵家名義備蓄より仮充当。
署名は、ラウル・ディ・セルヴァン。
この種の文書では、ふつう進言者の名は表に出しません。
責任だけが下に落ち、功は上がかっさらう。それが通例です。
けれどラウル公爵閣下は違いました。案を出した者の名を隠さず、代わりに異論は自分が受けると示したのです。
——再構成会話
公爵家執務室にて
命令書の草案を前に、エレノア嬢とラウル公爵閣下がやりとりをされた場面を、私は横で冷や冷やしながら見ておりました。
「ラウル公爵、このような形式では反発が出てしまいます」
「出るだろうな」
「なら、もう少し言い回しを和らげるべきです。私の名を伏せて、公爵家の判断として出せば、ずっと通りやすくなるものでしょう?」
「お前の案を通そうというのに、なぜお前が曖昧な言葉を使いたがる?」
「余計な摩擦を減らすためです。私の名が前に出れば、案の中身ではなく、私個人への反感で議論が歪みます。それでは帳面が——」
「摩擦を減らして骨まで抜く気か、エレノア嬢」
エレノア嬢が一瞬、言葉を止めました。
あの方が言い返しそびれるのは珍しいことです。
「……それでも、通らなければ意味がないでしょう」
「通す。俺が署名する」
ラウル公爵閣下は、机上の文書を指で叩かれました。
「だから卑屈になるな。誰の案で、誰が通したか、分かる形にしておけ。お前が立てた案を、俺が公爵として通す。それだけの話だ。手柄を曖昧にするな」
「……ずいぶん買ってくださるのですね」
「買う買わんの話ではない。使える案を使っているだけだ」
「それは――光栄と受け取るべきでしょうか」
「好きにしろ。ただし失敗した時は、お前にも尻ぬぐいを手伝ってもらうからな」
あの最後の一言を聞いた時、エレノア嬢はほんの少しだけ目を見開かれました。
「手伝ってもらう」というのは、つまり、失敗の責任も公爵が持つということです。
案を通すだけでなく、失敗しても守る。そこまで書き込んだ命令書を、私はこの家で見たことがありません。
——公爵署名命令書 末尾
右案、伯爵令嬢進言のまま執行す。異論あらば私へ述べよ。
進言者本人への私的な詰責を禁ず。
——家令補佐の記録 末尾
王太子アレクシス殿下なら、彼女を称えただろうと思います。
第二王子セドリック殿下なら、彼女を労っただろうと思います。
けれどラウル公爵閣下は、褒めも慰めもせず、ただ決裁欄に署名されました。
それがどのような意味を持つのかなんて、あの頃の私はまだ分かっていませんでした。




