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誰が悪女を愛したか  作者: 十返香
婚約破棄後の冬

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30/40

数字の中の令嬢

「確保しておくだけでは駄目よ。動いていない金子(きんす)があるなら、流れる場所へ移さないと」

「……そんなにうまくいくものですか? エレノア様」

「成功させるために、私たちは帳面とにらめっこしているんじゃない」



——会計士の日報

冬月十六日付


 本日、エレノア様立会いのもと、工房融資先の検討を行いました。


 市内登録工房のうち、返済遅延の多いもの、今季受注のないもの、原料仕入れの続かないものを切り分け、冬に必要な四系統——織布、補修具、保存食加工、薬草乾燥——のみ融資を続けます。それ以外は凍結。余った金子は、織布反の増産や保存袋の補修、灯油輸送箱の補強へ回すのです。


 お貴族様たちは「切る」ことばかり考えますが、あの方は違います。


 とり潰す工房を定めるより先に、余った資産をどこへどう流せば回るかを深く思慮するのです。金貨一枚を惜しむというよりも、まるでダラダラと眠っているだけの資産すら『怠け者め』と働かせてやろうというように。



——会計士の日報 続き


 厄介だったのは、装飾工房の扱いでした。


「……? この装飾工房は、先代からの付き合いがあるみたいだけど……」

「その通りです、エレノア様。旦那衆からも口添えが来ています。長年の取引先ですし、戦が終われば需要も戻るはずです」

「戻るかもしれない――でも、それは春のあとの話でしょう? 今季の受注はなく、原料の仕入れも止まっている。この状態で融資を続ければ、返るアテのない借入金が毎週積み上がってしまうわ」

「し、しかし——」

「情で延ばして春にまとめて潰れるほうが悲惨でしょう? 路頭に迷う職人の数、回収できなくなる金子、その穴を埋めるために別のどこかを削らなければならないとしたら――考えてみて。今、ここで止めておくほうが、ずっとマシな未来が見えると思わない?」

「……仰るとおりです、エレノア様」


 あの方が「情」という言葉を退ける時、声は冷たくなるのではなく、むしろ静かになるのです。怒っているのではなく、無知な我らに数えているのだと思います。情で行動した末に何が起きるかを、自分たちの頭の中で考えてみるように、と。



——出納改善の記録


 この時期にエレノア様が手をつけたもうひとつの仕事は、帳場の書式統一でした。


 それまで、南門・北街区・工房宿直分の帳場はそれぞれ別の書式で受入れ控えを書いていました。同じ毛布の数字でも、書き方が微妙に異なるため突き合わせに半日かかることもザラにあったのです。


 エレノア様はそれを一つにまとめ、入庫・出庫・保留を同じ書式で書かせました。差分は日暮れ前に照合、翌朝への持越しまで禁止にされたのです。


 お役人仕事だと思われるでしょう? ですが、たったこれだけのことで、帳尻の齟齬が前旬比で六割も減ったのです。


「前に私が言ったことは、理解できたかしら」

「……ま、まだ半分ほどです。菲才の身を恥じるばかりであります」

「今はそれで十分よ。赤字だから切るのではないと、貴方も理解できたでしょう?」

「ええ。……ですが、エレノア様。浮いた金子の動かし先は、どのようにお決めになっているのですか?」

「資産が無駄飯を喰らわずに、きちんと働くかどうかよ。金子は持っているだけでは意味がない。腐っているのと一緒よ。使われなければ、ないのと同じ。いいえ、ないよりたちが悪い。帳面の上だけで残っている金は、あると思わせるぶんだけ判断を狂わせるし、根拠のない安心感を与えてしまうから」



——会計士の日報 末尾


 戦場での英雄は詩になります。

 婚姻や舞踏会に立つ令嬢もまた、人の噂になる。


 だがエレノア様が相手にしていたのは、返済遅延、原料単価、工房の歩留まり、保留在庫、翌朝までに腐る金のほうでした。


 誰も見栄えがいいとは言いません。

 それでも、冬の街に生きる住人たちの生命や財産を守っていたのは、あの方なのです。


 剣でもなく、恋でもなく、あの令嬢は数字で冬と向かい合ってきました。


 誰も詩にしない数字だけが、あの冬を越えさせたのです。

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