セドリックの帳場
「エレノア嬢、第三区の追加要請はどうなさいますか?」
「退けてください。前週の分配控えに不備がある以上、要請は認められません」
「ですが、第三区には子どもが——」
「承知しています。それでも、不備のある帳面のまま追加を認めれば、次に崩れるのは南門のほうです」
——配分係書記補マルク・ヘッセンの報告書
冬月十五日付
本日、南門受入れ所にて在庫照合の立会いがありました。
伯爵令嬢エレノア・ヴァレニウス臨席。加えて、第二王子セドリック殿下が慰問の延長で同席されました。
殿下がこの種の実務に直接立ち会われるのは、私の知る限り初めてです。
最初は穏やかに進んでいました。
エレノア様がいつものように帳面を開いて、数字を読み合わせていく。南門係が報告し、私が控えを取る。殿下は少し離れた椅子に座って、黙って聞いておられました。
空気が変わったのは、第三区からの追加申請を退けた場面です。
——再構成会話
南門受入れ所帳場にて
殿下が、そこで初めて口を開かれました。
「エレノア嬢。少しだけ、よろしいですか」
「どうぞ、セドリック殿下」
「先ほどの慰問で、第三区の炊き出し小屋を見てまいりました。鍋が足りず、薪も残り少なく、子どもたちは朝から一度しか温かいものを口にしていなかった。……帳面の不備が理由で退けるには、あまりにつらい環境というもの。もう少し穏やかなやり方はできないものでしょうか?」
殿下のお声は、いつもどおり穏やかでした。
責めているのではない。ただ、見てきたものを伝えている。
あの方のやさしさは、いつもそういう形をしています。
エレノア様は帳面から目を上げて、殿下をまっすぐ見ました。
「殿下のおっしゃることは、よく分かります。要請に応えれば、あの場にいる人たちの暮らしは楽になるでしょう。けれど、それでは帳面は合いません。在庫管理が狂ったまま追加の品を出せば、その分はどこかから削ることになります。……削られた先にも、同じように子どもがいるのです」
「それは分かっています。けれど、帳面より先に、人の心が折れることもあるのです。目の前で困っている者に、数字の不備を理由に要請を認めないと知られれば、あの場にいた者たちは——」
「心が折れても春は来ます、殿下。けれど倉が空になれば、次の春は迎えられません」
殿下が黙られました。
怒りではありませんでした。もっと静かな、何かを呑み込むような沈黙でした。
私は横で控えを取りながら、息をするのも忘れていました。
王族と伯爵令嬢が、帳場の机を挟んで真正面からぶつかっている。声を荒らげてはいない。けれど、お二人の間に流れているもの――そして隔てているものは、数字より重い何かのようでした。
——マルク・ヘッセンの報告書 続き
殿下はそれ以上、何もおっしゃいませんでした。
照合はそのまま続き、第三区の追加は退けられました。
殿下は最後まで同席されましたが、口を挟むことは二度とありませんでした。
帰り際、殿下は私に一言だけおっしゃいました。
「マルク、今日の帳面の写しをもらえるかな」
「はい、セドリック殿下。どの部分を」
「全部だ。今夜、自分で読み直したい」
殿下が帳面の写しを求められたのは、初めてのことです。
——第二王子宮侍従エミール・ハザック私信
姉宛、同日夜
姉上、殿下が今夜、帳面を読んでおられます。
南門受入れ所の在庫照合の写しです。あの方がこういうものを読まれるのは珍しいことですから、私も驚きました。
灯りのそばで、一枚ずつ、丁寧にめくっておられました。
数字の読み方が分からないところは、控えと突き合わせて確かめていらっしゃいました。あの方は実務には明るくない。けれど、分からないなら分からないなりに、自分の目で確かめようとなさる。そういう方なのです。
しばらくして、殿下がぽつりとおっしゃいました。
「エミール。エレノア嬢の考えは、正しかったのかもしれない」
「……そうでございますか」
「結果的に間違いはなかった。第三区に追加の物資を出せば、南門の毛布が足りなくなる。南門が崩れれば、病が広がる恐れがある。あの方は、その未来を全部見据えていたのだな。私には、目の前の子どもしか見えていなかったというのに」
殿下はそこで帳面を閉じて、窓の外を見られました。
「正しかった。正しかったからこそ、あのように非情になれるのか。あの方は正しいことを言うために、やさしくあることを捨てているのではないだろうか。私にはそれができない。だから、あの方のやり方に口を挟む資格なんて、最初から無かったんだ」
姉上、殿下はそのあと、茶を一杯飲んで、もう一度帳面を開かれました。
読み直しておられるのです。何度も。
正しかったと分かったあとで、なお読み返すというのは、殿下なりの敬意なのだと思います。
納得できないけれど、認める。認めたうえで、もう一度自分の目で確かめる。
あの方のやさしさは、たぶんそういうところにあるのです。




