残された王子
「――やっぱり捨てられたのね、あの伯爵令嬢」
「出征前にわざわざ切るなんて、よほどだったのでしょう」
「もとから評判がよかったわけでもないし」
——第二王子宮侍従エミール・ハザック日記
冬月八日
王太子アレクシス殿下が発たれて、もう一週間になる。
王宮は妙に静かだ。あの方が不在というだけで広間の空気がこれほどまで変わるのかと、今になってからようやくわかった。
そんな中、うちの殿下——セドリック様は、いつもと変わらないように見える。
慰問の日程を確かめ、書簡に目を通し、茶を飲む。穏やかで、落ち着いていて、いつもの様子と変わらない。
けれど、ここ数日、殿下がひとつだけ気にしていることがある。
伯爵令嬢エレノア・ヴァレニウスの噂が、婚約破棄のあと、目に見えて悪くなっていることだ。
——宮廷内噂録 抜粋
「でも王太子殿下のほうから言い寄っていたのでしょう?」
「だからこそよ。あんなに簡単に婚約解消したのですもの、令嬢の側にも問題があったってことでしょ」
こういう声は、翌日からもう聞こえていた。
宮廷というのは、そういう場所なのである。
——エミール・ハザック日記 続き
セドリック殿下が表立ってエレノア嬢を庇うのは難しい。
兄が捨てた婚約者を弟が慰めに行くような姿を見せれば、噂はさらに燃え上がるだろう。殿下はそれがわかっている。だから動けない。
それなのに、毎朝、噂録に目を通しておられる。読み終わると何もおっしゃらずに紙を伏せるのだが、その手つきだけがいつもより少し丁寧だ。
怒っている……のとは違う。
あの方なりに堪えているのだと私は思う。
——贈答品控え
冬月九日付
第二王子セドリック殿下より、伯爵令嬢エレノア・ヴァレニウス宛。
茶葉一包。薬草束一。蜜漬け果実小瓶一。
添え書き一葉。
添え書きの文面は短い。
「寒さが続くようです。どうかお身体を大事になさってください」
差出人名は記載あり。ただし、公の贈答簿ではなく、私的控えにのみ記録。
つまり、殿下はこれを表に残すつもりがなかった。
——再構成会話
王宮東棟回廊にて
エレノアは帳面を抱えて歩いていた。
セドリック殿下は、たまたまそこを通りかかったという体で足を止められた。
たまたまではないことは、そばで見ていればわかる。
「エレノア嬢」
「セドリック殿下。ご機嫌よう」
「少しだけ、よろしいですか」
「手短にお願いできれば」
「……ええ、はい。手短に」
殿下は一度、言葉を探すように視線を落とされた。
「兄がしたことを、私が謝る立場にはありません」
「存じております」
「けれど——」
「セドリック殿下」
エレノアの声はいつもどおり静かだった。
けれど、その静かさで遮るのだから、やはりこの人は手強い。
「お言葉は不要です。それより、殿下にお願いしたいことがあるのですが」
「……何でしょう?」
「北街区の配分見直しの件で、王族のお名前が一つあるだけで話が通りやすくなる場面がございますの。お力添えいただけますか?」
「えっ? ……ええ、もちろんです」
殿下は一息にそう答えた。
けれど、ほんの一瞬だけ、傷ついた顔をされたのを私は見てしまった。
慰めようとした手を、実務で塞がれた。それを知っている顔だった。
ただ、殿下はそれを呑み込んで、すぐにいつもの穏やかな表情に戻られた。
——再構成会話 続き
回廊の別れ際
帳面の話が済んで、エレノアが会釈をして歩き出そうとしたとき、セドリック殿下が小さな声で言いました。
「エレノア嬢。一つだけ、聞いてもらえますか。仕事の話ではなく」
エレノアは振り向きませんでした。けれど、足が止まりました。
「貴女は、誰かに心配される自分自身が許せないのですね。兄上の件のことだけを言っているのではありません。あなたはいつもそうだ。仕事のときでも、自分のことをいちばん後ろに回してしまう。誰かが手を差し伸べようとしても、先にお願いごとで塞いでしまう。……それが、あなたのやり方なのでしょう。でも、それを見ている側の気持ちも、もう少し考えてみてください」
長い間がありました。
エレノアは振り向かないまま、静かに答えました。
「……自分を許せないのではありません。慣れていないだけです」
それきり、エレノアは歩き去りました。
殿下はしばらくその場に立っておられました。
——エミール・ハザック日記 末尾
殿下はあの方を救いたいのだろう。
兄がつけた傷を埋めたいとか、宮廷の風当たりから守りたいとか、そういうことではないのかもしれない。もっと単純に、あの方が一人で全部を抱えているのが、殿下には見ていられないのだ。
けれど、エレノア嬢は救われることを——どう言えばいいのだろう——恥じているようにすら見える。
誰かの好意で楽になることを、自分に許していないように見える。
殿下のやさしさは本物だ。
それは疑いようがない。
ただ、やさしさが届かない相手というのも、世の中にはいるのだということを、私はこの頃ようやく知りはじめている。




