彼女は泣かなかった
「先に帳面を持ってきてちょうだい」
「あ、あの、エレノア様――今夜は……あ、あんなことがあったばかりですのに」
「今夜だからなのよ、マリアンヌ」
——侍女マリアンヌの日記
夏季大舞踏会当夜
広間でのことを、私は少し離れたところから見ておりました。
まさか本当に、あんな場所で婚約を破棄されるなどとは思ってもおりませんでした。息をのむ、とはああいうことを言うのだろうと、そのとき初めて知った気がいたします。
まわりのご令嬢たちは、最初こそ言葉を失っていらっしゃいましたが、すぐにひそひそ声が広がりました。驚きよりも面白がっているような、あるいは「ほら、やっぱり」というイジワルな空気のほうが強かったように思います。
それなのにエレノア様は、取り乱しもなさいませんでした。
お顔は青ざめていらしたのに、背筋だけはすっと伸びたままで、見ているこちらのほうが苦しくなるほどでございました。
私はそのとき、やはりこの方は感情がない方なのかもしれない、と思ってしまったのです。女の身であれほどのことをされて、涙ひとつ見せなかったのですから。
でも、あとになって思い返すと、あれは違ったのかもしれません。
お嬢様は、感情を見せられなかったです。あの場で、あの目の数の中で、涙を見せてしまえば「やはり女は」と言われてしまいます。取り乱せば「弱さ」になる。あの方は、それを分かっていらしたのだと思います。
だから背筋を伸ばしたまま、立っていた――立つことしかできなかったのです。
——侍女マリアンヌの日記 続き
帰室後
お部屋に戻られてからのことを書きます。
エレノア様は、お召し替えよりも先に、帳面の所在をお確かめになりました。北倉の帳面がどこにあるか、南門受入れ分の鍵が返却されているか。婚約を破棄された夜に、最初に口にされたのが、帳面と鍵のことだったのです。
「今夜のうちに確認しておかなければ、明日の朝に間に合わないものがあるの。明日にはもう、私が何をしていようとも宮廷中の噂になっているでしょう? 泣いていた、取り乱していた、部屋に閉じこもっていた——何を言われるか分かったものではないわ。だったら、朝までに動かせるものは動かしておきたいの。噂なんかで時間を浪費する余裕はないのよ」
あの言葉を聞いた時、私はようやく分かりました。
エレノア様が泣かなかったのは、冷たいからではなかったのです。
泣いている暇がなかった。いえ、泣いてしまったら、翌朝の自分が動けなくなると分かっていらしたのです。
扇を置くお手も、耳飾りを外す指先も、ほんの少し震えていらっしゃいました。
なのに、お声はいつもと変わらなかった。
私なら、あの場で立っていることもできなかったと思います。泣いてしまうか、何も言えなくなるか、そのどちらかでございましたでしょう。
けれどエレノア様は、まるで夜会の続きのように静かに椅子へ腰かけて、明日までに動かす分を順に口になさいました。
まるで、ご自分のことだけをいちばん後ろへ回してしまうみたいに。
紅茶はいらないとおっしゃいました。湯だけでいい、と。
夜半までに使いを二件出されました。一件は北街区の帳場へ、一件は倉番の詰所へ。
私的な書簡は、一通もお書きになりませんでした。
——侍女マリアンヌの日記 末尾
夜も更けた頃、帳面を前にしたまま、エレノア様が小さな声でおっしゃいました。
「マリアンヌ」
「はい、エレノア様」
「気を使ってくれて、いつもありがとう」
「……」
「どう言ってもヘンに聞こえてしまうかもしれないけど……理解してくれている人が一人でもいると思えるから、私はまだまだ頑張れそう」
それだけおっしゃって、また帳面に目を落とされました。
私は何も言えませんでした。
お声は穏やかでしたが、あの一言だけが、あの夜のエレノア様のなかでいちばん正直な言葉だったように思います。
つらくないはずがないのです。
けれど、つらいと認めてしまうと、もう動けなくなることを、あの方は知っていらした。
だから鍵を握ったまま、帳面を開いたまま、朝を迎えようとしていらした。
泣くのは後でいい、と。
あの方はいつも、ご自分のことをいちばん後ろに置いてしまわれる、困った方なのです。




