彼は庇えなかった
——近衛副官ルスラン・ベルデン卿書簡
旧友宛、北方駐留中、冬月七日付
おまえももう聞いただろう。
あの夜、殿下は伯爵令嬢エレノア・ヴァレニウスを切り捨てた、と。
世間はそういう言い方を好む。分かりやすいからだ。王太子が伯爵令嬢を捨てた。それで話は片づく。
だが、少なくとも俺は、あの方がまるで痛まずにそれをなさったとは思わない。
断を下された直後、殿下は広間の誰より青ざめておられた。
あの夜いちばん平静に見えたのは、むしろ切られた側のほうだった。
——夜会当夜目撃証言 断片
王太子アレクシス殿下は、言上ののち、一度だけ伯爵令嬢エレノア・ヴァレニウスのほうへ手を伸ばしかけたように見えた。
ただし、それが実際にそうであったかは断言できない。距離はあったし、すぐにその手は下ろされた。
けれど、あれを見た者なら、あの方がまったく何も感じていなかったとは言えないだろう。
「今、アレクシス殿下が、お手を……」
「見間違いでしょう。殿下がご自分でお決めになったことですのよ。未練なんてあるわけないわ」
「え、ええ……そうよね」
「もし本当だとしたら、それこそ悪女たる所以だわ。あの女はいつでも殿下のご判断を惑わせるのだから」
——王太子アレクシス覚え書き 未送信下書き
あなたに書くことを、許される立場ではない。
それでも書かなければ、私は今夜を抱えたまま戦地へ行くことになる。
私は、あなたが広間の誰より高潔であることを知っている。
誰より冷静で、誰より傷ついた顔を見せないことも知っている。
だからこそ、あの夜のあなたが、どれほど無理をして立っていたかもわかった。
本当は、あの場から連れ出したかった。
何も言わせず、何も見せず、ただ終わらせてしまいたかった。
けれど私は、あなたの手を取るより先に、王太子であることを選ばされた。
あなたはきっと、そんな言い訳をお嫌いになるだろう。
選ばされた、という言い方を。自分で選んだのでしょう、とあの冷たい声で返すだろう。
そういうところまで、私は知っている。
それでも一つだけ書く。
私があなたを軽んじたことは、一度もない。
あの夜も、その前も、そのあとも。
もし帰れたなら、もう一度あなたの前に立ちたい。
許しを乞うためではない。せめて私があなたをどう見ていたのか、それだけは誤らせたくないからだ。
——ルスラン・ベルデン卿書簡 続き
この下書きは封じられなかった。
殿下みずから火にくべられたが、最後の一枚だけ、端が燃え残った。
拾い上げた俺を、殿下は咎められなかった。
ただ、「捨て置け」とだけおっしゃった。
「なぜ燃やすのですか」
「送れないものを持っていても仕方がない」
「しかし、せめてお手元には——」
「手元にあれば、いつか送りたくなる。送ればあの女の迷惑になる。……だから燃やす」
あの方は本気だったのだと思う。
本気だったからこそ、あの夜の自分を、彼女のもとへ届けられなかった。
王太子アレクシスは、たしかにエレノアを愛していた。
華やかな気まぐれでも、意地でもなく、もっと深く、本人にも扱いきれない種類の感情として。
けれど、それだけでは足りなかった。
愛していたことと、選べることは、同じではなかった。




