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誰が悪女を愛したか  作者: 十返香
夜会と婚約破棄

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20/29

出征前夜

——近衛副官ルスラン・ベルデン卿書簡

旧友宛、冬月初日前夜付


 明日の朝には発つ。

 北方戦線の第一軍へ、殿下とともに。


 殿下は今夜、いつになく口数が少ない。

 舞踏会ののち、壮行の挨拶も、軍務局への最終確認も、すべて滞りなく済まされた。手落ちはなかった。王太子としてやるべきことは全部やった。

 それでも、何かを置き忘れた人のように、幾度か西のほうをお見やりになった。

 あの方が何を望まれたのか、俺は問わない。

 ただ、その方角に伯爵家の屋敷が並ぶことくらいは、俺にもわかる。



——所在記録 余白書入れ


 王太子アレクシス殿下、第二鐘と第三鐘の間、一時所在不明。

 記録漏れとして処理。

 なお、遅延なく王太子宮へ帰還。



——ルスラン・ベルデン卿書簡 続き


 所在不明、と書いたが、俺は知っていた。


「ルスラン卿、アレクシス殿下が見当たりません」

「探すな」

「ですが、出立前夜です」

「わかっている」

「しかし……」

「殿下とて一人になりたい夜がある。お心を乱すような真似はするな」


 西廊下の窓辺に、殿下は立っておられた。

 その先に見えるのは、伯爵家の屋敷が並ぶ区画だ。

 勤務の女官が一人、遠くから見ていたらしいが、声を掛ける者はいなかった。


 殿下はしばらくそこに立って、それから懐に手を入れた。

 何かを取り出して、握りしめて、しばらくそのまま動かなかった。

 何だったのかは聞いていない。小さなものだった。手のひらに収まる大きさの。

 殿下はそれを長いこと見つめてから、もう一度握り直して、懐に戻された。

 持っていくのか、置いていくのか——迷っていたのだと思う。

 結局、持っていくことにしたらしい。


 あれほど迷うお姿を、俺は見たことがなかった。

 戦の前夜に怯えるのとは違う。命のことで迷っているのでもない。

 もっと小さくて、もっと私的な、でも殿下にとっては命と同じくらい重い何かだったのだろう。



——ルスラン・ベルデン卿書簡 続き


 王太子宮に戻られてから、殿下は佩剣の位置を自ら直された。外套の留め具も二度確かめられた。いつもなら人に任せるような細事まで、ご自身でなさった。

 手を動かしていないと、考えてしまうからだろう。


 そのあと窓の外をご覧になったまま、長く黙っておられた。

 俺は背後に立っていた。口を開くべきではないと分かっていたが、開いた。


「アレクシス殿下、よろしかったのですか」

「何がだ」

「……お言葉を、残されなくて」


 殿下はしばらく黙っていた。

 それから、初めてひどく静かな顔をなさった。

 怒りでも、悲しみでもなかった。もっと遠いところを見ている人の顔だった。


「残してどうなる、ルスラン。俺があの場であの女にしたことは、言葉では埋められない。手紙を一通書いたところで、許されるような話ではない。……それに、あの女は手紙よりも帳面のほうが好きだろう。俺の未練を読まされるより、北倉の数字を見ているほうが、あの女にはよほどましだ」


 笑おうとしていた。笑えなかった。

 あの夜会の時と同じだ。口元だけ形を作って、目がついていかない。


「朝には発つ」


 それだけおっしゃって、殿下は外套の留め具をもう一度、三度目に確かめられた。



——壮行日程控え 末尾


 王太子アレクシス殿下、払暁前起床。

 第一軍随行のため、正門より出立予定。

 翌朝、王太子は国境へ発つことになっていた。

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