出征前夜
——近衛副官ルスラン・ベルデン卿書簡
旧友宛、冬月初日前夜付
明日の朝には発つ。
北方戦線の第一軍へ、殿下とともに。
殿下は今夜、いつになく口数が少ない。
舞踏会ののち、壮行の挨拶も、軍務局への最終確認も、すべて滞りなく済まされた。手落ちはなかった。王太子としてやるべきことは全部やった。
それでも、何かを置き忘れた人のように、幾度か西のほうをお見やりになった。
あの方が何を望まれたのか、俺は問わない。
ただ、その方角に伯爵家の屋敷が並ぶことくらいは、俺にもわかる。
——所在記録 余白書入れ
王太子アレクシス殿下、第二鐘と第三鐘の間、一時所在不明。
記録漏れとして処理。
なお、遅延なく王太子宮へ帰還。
——ルスラン・ベルデン卿書簡 続き
所在不明、と書いたが、俺は知っていた。
「ルスラン卿、アレクシス殿下が見当たりません」
「探すな」
「ですが、出立前夜です」
「わかっている」
「しかし……」
「殿下とて一人になりたい夜がある。お心を乱すような真似はするな」
西廊下の窓辺に、殿下は立っておられた。
その先に見えるのは、伯爵家の屋敷が並ぶ区画だ。
勤務の女官が一人、遠くから見ていたらしいが、声を掛ける者はいなかった。
殿下はしばらくそこに立って、それから懐に手を入れた。
何かを取り出して、握りしめて、しばらくそのまま動かなかった。
何だったのかは聞いていない。小さなものだった。手のひらに収まる大きさの。
殿下はそれを長いこと見つめてから、もう一度握り直して、懐に戻された。
持っていくのか、置いていくのか——迷っていたのだと思う。
結局、持っていくことにしたらしい。
あれほど迷うお姿を、俺は見たことがなかった。
戦の前夜に怯えるのとは違う。命のことで迷っているのでもない。
もっと小さくて、もっと私的な、でも殿下にとっては命と同じくらい重い何かだったのだろう。
——ルスラン・ベルデン卿書簡 続き
王太子宮に戻られてから、殿下は佩剣の位置を自ら直された。外套の留め具も二度確かめられた。いつもなら人に任せるような細事まで、ご自身でなさった。
手を動かしていないと、考えてしまうからだろう。
そのあと窓の外をご覧になったまま、長く黙っておられた。
俺は背後に立っていた。口を開くべきではないと分かっていたが、開いた。
「アレクシス殿下、よろしかったのですか」
「何がだ」
「……お言葉を、残されなくて」
殿下はしばらく黙っていた。
それから、初めてひどく静かな顔をなさった。
怒りでも、悲しみでもなかった。もっと遠いところを見ている人の顔だった。
「残してどうなる、ルスラン。俺があの場であの女にしたことは、言葉では埋められない。手紙を一通書いたところで、許されるような話ではない。……それに、あの女は手紙よりも帳面のほうが好きだろう。俺の未練を読まされるより、北倉の数字を見ているほうが、あの女にはよほどましだ」
笑おうとしていた。笑えなかった。
あの夜会の時と同じだ。口元だけ形を作って、目がついていかない。
「朝には発つ」
それだけおっしゃって、殿下は外套の留め具をもう一度、三度目に確かめられた。
——壮行日程控え 末尾
王太子アレクシス殿下、払暁前起床。
第一軍随行のため、正門より出立予定。
翌朝、王太子は国境へ発つことになっていた。




