兄と弟
「セドリック、ひとつ言っておくことがある」
「何でしょう、兄上」
「俺がいない間、王都で何か起きた場合、おまえが処理を託されることがあり得る。それは分かっているな?」
「勿論です」
——王宮日程記録抄
冬月前月三十日
王太子アレクシス殿下、出立前日。
午前、軍務局最終確認。午後、壮行関連の雑務。
夕刻、第二王子セドリック殿下と私的に面会。
所要約半刻。記録なし。
——第二王子宮侍従エミール・ハザック私信
姉宛、同日夜
姉上、今夜のことは書いておかなければなりません。
出立の前日になって、アレクシス殿下がうちの殿下を呼ばれました。
公式の面会ではありません。王太子宮の私室で、二人きりです。
私は廊下の外で待っていましたが、扉の近くに立っていたせいか、声が少し聞こえてしまいました。
最初は事務的な話だったようです。留守中の王宮の段取り、王族としての公務の引き継ぎ。そういうものは手短に済んだらしい。
問題は、そのあとです。
——再構成会話
王太子宮私室にて
「軍の話でも、宮廷の話でも、配分の話についてもだ」
「承知しています」
しばらく間があったようです。
それから、アレクシス殿下の声が少し低くなりました。
「兄上、エレノア嬢のことですが」
「……おまえから切り出されるとは思わなかったな」
「兄上がおっしゃらないので」
セドリック殿下のお声は穏やかでした。けれど、ここで引く気はない声でした。
「兄上がお発ちになれば、あの方に王族の後ろ盾はなくなります。婚約破棄の噂はまだ燃えている渦中――実務で結果を出していても、それだけでは宮廷の風当たりは防げません」
「分かっている」
「であれば、兄上から一言あってもよいのではないですか? あの方の立場を守るような——」
「俺があの夜にしでかしたことを棚上げして、『守ってやる』とでも? ふふっ、随分と勝手な話だ」
アレクシス殿下の声は、自嘲のようでもありました。
「兄上……」
「いい。おまえの言いたいことは分かっている。……だが、俺が今さらあの女のために口を出せば、それこそ余計な枷になるだろう。王太子が出征前に元婚約者を庇った、と。アイツがいちばん嫌いそうな光景だな」
「では、どうなさるおつもりですか」
「何もしない。俺にできるのは、黙って発つことだけだからな」
長い沈黙がありました。
扉越しでも、あの沈黙の重さは伝わってきました。
「おまえに頼むとは言わん」
「頼まれずとも気にかけておきますよ」
「……それも厄介だと思うのは、オレの狭量かな」
セドリック殿下は何もおっしゃいませんでした。
アレクシス殿下もそれ以上は言われなかった。
けれど、その沈黙の中に、前とは違うものがありました。
秋の夜会のあとに聞いた時は、お二人とも踏み込むことを避けていらっしゃった。あの令嬢の名前を、触れてはいけないもののように扱っていた。
今夜は違いました。
触れたうえで、そのままに――お互いの気持ちを知っていて、それでもどちらも退かずに、黙っておられたのです。
「兄上。ご武運を」
「ああ。……王都を頼む」
王都を、とおっしゃいました。
エレノア嬢を、ではなく。
けれど、そのふたつがどれほど重なっているかは、お二人ともお分かりだったと思います。
——第二王子セドリック私信
日付なし、宛先なし
兄上が発たれた後、私は王都に残る。
残るということは、あの方の近くにいるということだ。
それを兄上がどう思うか、私はとうとう聞くことができなかった。
聞けなかったのか、聞かなかったのか、それは自分でもよく分からない。
ただ、聞いてしまえば、兄上は答えなければならなくなる。
答えが何であれ、それは私たち兄弟のあいだにしこりとして残る。
だから踏み込めなかった。
私は卑怯者なのかもしれない。
兄上が戦地に赴くというのに、あの方のそばにいることが増えると思うと、私は喜びを抑えられない。
抑える理由がないからだ。あの方を気にかけることに、誰の許可もいらないのだから。
けれど、それが本当に「気にかけている」だけなのかどうか、私はもう自分に嘘をつけなくなっている。
そう――自分でもとうに理解しているのだ。




