第52話:鉄の帳簿と「理不尽」の先触れ
地平線の彼方から、大地を震わせる軍靴の響きが届き始めていた。
ヴォルガ帝国先遣隊、五千。それは帝国の版図を広げるために訓練された精鋭たちであり、その背後には、空を埋め尽くすほどの砂塵を上げる数万の本隊が控えている。
だが、彼らが目にした「グラナポート」の姿は、彼らが予想していた「逆賊の要塞」とはあまりにかけ離れていた。
「……何だ、あれは。壁が、呼吸しているのか?」
斥候として先行した帝国の隠密兵たちが、高倍率の魔導双眼鏡を覗き込み、戦慄に声を震わせた。
カイルが設計し、対価騎士団が築き上げた積層型魔導防壁「バビロン」。それは単なる石の壁ではない。表面を流れる魔導数式が紫電を帯びて明滅し、大気中の魔力を吸い込んでは、重厚な駆動音を立ててその硬度を増している。
そして、その防壁の上を、音もなく巡回する影があった。
「……白金騎士団か? いや、違う。あんな漆黒の装備は知らん。だが、あの動き……」
斥候の一人が息を呑んだ。双眼鏡の先に映るのは、かつて「聖王国の盾」と呼ばれたデトモルト将軍、そして彼と共に死んだはずの精鋭たちだ。
彼らはもはや、騎士の礼装も、国を象徴する羽飾りも纏っていない。ガリウスが鍛え上げた、機能性のみを追求した「対価騎士団」の黒鉄の装甲。
彼らは一切の無駄口を叩かず、まるで精密な機械の部品のように、一定の歩幅、一定の速度で、魔導重銃を構えて壁を歩いている。
「……あいつら、俺たちの接近に気づいている。なのに、警告も、挑発もしてこない……」
「まるで、我々を『敵』ですらなく、ただの『処理すべき不良在庫』とでも思っているかのような……」
対価騎士団の一人が、ふと斥候の潜む岩陰に視線を向けた。
バイザーの奥で光る、冷徹なまでの「合理の眼」。
次の瞬間、騎士の手にある重銃の銃口が、数キロの距離を無視して正確に彼らを捉えた。発砲はない。ただ、「お前たちの命の価値は、一発の魔力弾にも満たない」とでも言うような、圧倒的な無視と、逃げ場のない実力の差。
「……ひ、退け! 報告だ! あそこには人間ではない、『鉄の論理』が詰まっている!」
斥候たちは、戦う前に精神を圧し折られ、命からがら本陣へと逃げ帰った。
一方、グラナポート司令室。
アルスは、ミラが展開したホログラム状の「戦場収支表」を見つめていた。
「……主様。斥候の敗走を確認。敵先遣隊、予測よりも300メートル手前で進軍を停止。恐怖による行軍コストの増大を検知しました」
「順当な見積もりだ。デトモルトたちには、一発も撃つなと言ってある。……弾丸を消費するまでもない相手に、無駄な経費をかける必要はない」
アルスは手帳を開き、ペンを走らせる。
その隣では、レオンが巨大な「プラグイン・ユニット」を背負わされ、セリアがそのバイタルを調整していた。
「……アルス。いつでも行けるぜ。あいつら、俺を見て『勇者だ!』って叫ぶかな?」
「いいや、レオン。お前は今日、勇者として現れるのではない。……帝国の経済を粉砕するための、『理不尽な天災』として君臨してもらう」
アルスは冷徹に、ミラへ指示を飛ばす。
「ミラ、コアの出力をレオンへ直結。……ターゲットは敵の先頭部隊ではない。彼らの背後――本隊から伸びる『兵糧と給与(ヴォルガ金貨)』を積んだ中央運搬車両だ。……兵士は生かしておけ。金と飯だけを、この世から消し去る」
「了解。超長距離魔導投射システム『エクス・カリバーン』、充填開始。……カウント、10」
管理局の床が、心臓の拍動によって大きく震え始めた。
それは、帝国の「常識」が、アルスの「見積もり」によって上書きされる終わりの合図だった。
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