第拾話 異変発生1
威嚇している悪霊は、文字通り手のひらサイズだ。
触ってみるとひんやりしており、柔らかく、弾力がある。
直巳が悪霊を面白がって観察していると、馨射が拳を直巳の顔を目がけて放ってきた。
回避は不可能。ガードは直巳程度では意味を成さない。死を覚悟した直巳はゆっくり目を閉じた。
「ー!...生きてる?私、死んでない?」
目を閉じても殴られた衝撃が来ない。何故か、とゆっくり目を開けながら自分の顔を触る。
一瞬死を覚悟した直巳だったが、どうやら生きているようだ。
馨射の拳が顔面に迫ってきた時はもうお終いだと思ったが、どうやら悪霊を狙っていたらしい。
悪霊は消滅しており、この世に痕跡を何一つ残さなかった。
「しかしなぜ悪霊が。ここは結界が貼られていたはず...」
疑問に満ちた声を上げる馨射。そんな結界が張られているなど初耳だ。別に初耳でも問題ないが。
(しかし結界かぁ...そんなもの、どこに張られているだ?)
美麗の神社にも結界は張られている。だが、それは作用する者を除き、見ることが出来ない。
それでも、何となく結界を探してみようと闘技場の外を見ようとした気がついた。総数二万近く居た観客が、三人と人形を除いて全員いなくなっていることに。
「なっ...これは一体」
たしかに、ほんの数秒前には観客席は満席だったはずだ。それが、少し悪霊で騒いでいた内に消えてしまっていた。
どういうことだ。それを相談しようと馨射の方を向いた時、馨射が消えた。
それに続き凜音も銀想人形と共に消えた。
ここは何かやばい。そう思い離れようとした時、直巳も円形闘技場から姿を消した。
そして、円形闘技場観客席には誰もいなくなった。
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突然場面が変わり三人と人形は何もない暗い空間で浮かんでいた。
いや、三人だけではない。周りにはもっと大勢の、少なくとも一万人を超える人々が浮かんでいた。
「ここは...?」
直巳は不安そうに周りをキョロキョロと見渡した。
「アタシはここを知っている。ここは...」
「御明答。そう、ここは僕の亜空間だよ」
馨射が話していたのを遮り、手を叩きながら歪んだ空間から道化師の青年と、軍服を着た男が現れた。
この二人を直巳は知っている。というか、ほんの一時間前に見たばかりだ。
「リヒトさん!...と、ワイズさんでしたっけ?」
リヒトは直巳に気がつくと軽く手を挙げて挨拶をした。
リヒトはその昔、軍人だったと聞いており、勝手に挨拶は敬礼でもするのかと思っていたが、そうではないらしい。
一方、ワイズはひざまづいて直巳の手を取り、手の甲にキスをして挨拶を始めた。
「初めましてお嬢さん。こんなに可愛い人に名前が知られているなんて、光栄だねぇ。そう、僕はワイズだ」
男にキスされるのは初めてだったが、はっきり言って不愉快だった。唇を軽く当てただけのキスだとしても。
体が少女になったので精神もそちらに引っ張られているかと思っていたが、どうやら違うようだ。まあ、普通の少女もこういうことで喜ぶとは思えないが。
だが拒絶するのも、それはそれで何だか子供っぽく思われてしまいそうなので、キスされたことは無視することにする。
「あ、私は直巳ですよろしくお願いします...」
「で、リヒトとワイズ。これ一体どういうことだい?」
馨射がすこし噛み付くような口調で質問をする。
すると二人はこちらに聞こえない程度の声で話し合いを始めた。
数分後には話し合いが終わり、ワイズは両腕を頭の後ろに回して目をつぶった。
察するに、どちらが状況説明するかの話し合いをしていたようだ。
「さて、お前達に今の状況を説明しておこうか。なに、短い話さ。数分で終わるよ。
今の状況なのだが、簡単に言うと円形闘技場に敷かれていた対悪霊用の結界が破られた。何故かは知らん。まあ、恐らく悪霊の仕業だろうな。
何故悪霊が円形闘技場に?それも知らん。だが、悪霊だからな。人の多いところを襲いに来たというので間違いないだろう。
それで今、円形闘技場には悪霊が湧いているわけだ。まあ、雑魚ばかりならよかった訳だが、今回は『憑人』が何体かいてな。即ち、もう既に憑かれた後なのだが、そいつらを放置はできまい?
そういうわけで、まずは観客の避難。次に排除という流れになる訳だ。そして今お前達はワイズの亜空間に強制避難中ということだ。
お前達で全員の避難は完了した。つまり、次は排除となる。これで説明は終わりだ」
簡素な説明を終えたリヒトは、ワイズの額を小突いた。一瞬ピクっとワイズの体が動き、目を開いた。どうやら寝ていたらしい。
「ん...。リヒト、説明ご苦労さま。そういうわけで、タイミングを見計らって君たちを元の世界に戻す。いいね?」
縦に首を振る三人。ちなみに、銀想人形からの反応はない。
亜空間で接続が途切れたのかもしれないし、寝ているのかもしれない。ただ、つねっても反応がないので同調させていないのは確かだ。
(全く...幸せな奴だよ。俺達はこんな目に会ってるのにな)
ーーーーーーーーーー
オーベロンの勿体ぶった指令...というか作戦が発表されようとした時、美麗はなにか奇妙な感覚を覚えた。
自分から離れた場所に置いた、自分と繋がりのあるなにかが途切れたような感覚。
美麗はこの感覚の正体を知っている。
「これは...結界が破られた?」
会議の途中に美麗がポツリと呟いた言葉は、その場にいたもの達を静かにさせるのに充分だった。
「結界が破られた...だと?それはどの結界だ!」
「『滅霊符』...対悪霊用の結界」
「バカな...それは本当か?」
オーベロンの驚きも無理はない。『滅霊符』による結界は、美麗の中でも数少ない、破られたことが一度もない結界だからだ。
『滅霊符』は対悪霊に特化した符である。悪霊以外の存在には一切害を与えない代わりに、対悪霊効果を極限まで高めている。この符は、美麗が百年前に作り出した割と新しいものだった。
だが、『滅霊符』は円形闘技場だけに留まらず、様々な場面で使用されており、ここ百年で最も使用頻度の高い結界用の符でもあった。
最も使用頻度の高いものであるにも関わらず、今まで一度も破られたことが無い。しかし、それが破られた。
すなわち、それは過去百年間、数千回に渡る悪霊の襲撃の中でも最大級の力を持っているということにほかならない。
「たしかに結界が破られていたよ。そして強力な悪霊、つまり『憑人』が数体と人型が数百匹が闘技場内に侵入しようとしていたね。リヒトとワイズに観客を避難させるように指示したからそちらは問題ない」
さすがは『刻神』にして最古の神だ。能力を活用して一瞬のうちに状況を把握、及び整理をしてきたらしい。
「それに闘技場出場予定だった四人と、既に出場した二人にも協力してくれるように頼んでおいた。...あとは任せるよ」
そう言ってクロノスは再び椅子に腰を下ろした。
神はあらゆる知性ある生物の間接的な手助けをするのが役目であり、直接的にトラブルと接触することは出来ない。
それに、悪霊の出現は自分達生物の撒いた種だ。ならば、自分たちで始末をつけるのが筋というものだろう。
その場にいた四人は立ち上がり、避難して誰もいなくなった闘技場へと向かった。悪霊達を掃討するために。




