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「――撤退しろとは? どういう事ですか」
ダルマ型のシルエット。マルトリック・ゲイザーの放つ訝しげな視線の先にいるのはトランだ。
「ゼネラック警視の許可はとってます。事は急を要します。すぐに部隊を撤退させてください」
マルトリックの鋭い眼光を受け、それでも怯む事なく再度進言するトラン。自分よりもやや低い位置にある険しい表情を、黒瞳が真っ直ぐに見る。
「質問の答えになってない。クイロ警部。撤退しろとは? まさか。たったお一人でこの事態をなんとかするとでも言いはるつもりですか?」
初っ端こそ淡々と事務的な会話を繰り広げていた野太い声は今や怒声へと進化を遂げ、
「策があるとして、それが上手くいく保証はあるんですか、保証は! いつまでも学生気分で『すみませんできませんでした』じゃすまないんですよ!?」
唾を飛ばしながら、ものすごい剣幕でトランに詰め寄る。
叩き上げで伸し上がった……ノンキャリとしてはスピード出世の「警部」の地位は伊達ではない。辛うじて言葉自体は丁寧なのだが、言葉の端々がまるで罵声のようにビリビリと響き、無関係なはずの周りの警官隊が震え上がる。
「保証はありません」
今にも噛み付きそうな相手の迫力に、真っ向から対峙するトラン。
それみたことか、と、憤怒の形相が剥き出しになり――すっかり鬼と成り果てたマルトリックが口を開くよりも先に、
「魔族は四体いたと思いますが。その内、三体は始末しました。この結果で、なんとか納得していただけないでしょうか」
静かに、そう告げたトラン。
事も無げに口にしたその言葉に、マルトリックの目が大きく見開かれる。
「まさか……!」
彼だけではない。身の丈サイズの頑丈な盾を構えていた厳つい警官隊も一斉にどよめきだった。上がる驚愕の声、周囲の反応にしかし、強い双黒の光は揺るがない。
沈黙したまま、ただマルトリックの了承を待つトランに、
「……石化製品が止まっている今、事実確認は出来ませんが、それは……確かな……」
驚きをそのままに、早口で言葉を続けるマルトリック。
先程の剣幕はすっかり鳴りを潜めている。
「はい。確かに消滅しました。これが――」
トランは古びたコートのポケットから透明のビニール袋を取り出しマルトリックに差し出した。
手に取るまでも無い。透明なそれに入っていたのは、親指と人差し指とで丸を作った位の大きさの、赤と薄青、茶色に輝く三個の石――
「証拠になればと思い、持参しましたが」
――三つの魔石だ。
死した魔族の肉体は、この世から消滅してしまう。が、彼らが持っていた魔力だけは消えずに結晶化してこの世に残る。それを魔石という。
トランが持っていた魔石は、これ以上ないと言える程の証拠であった。
「~……っ」
マルトリックは開きかけた口を閉ざし、息を呑む。
その直前まで、マルトリックの視線は「どうやって」とトランに問いかけていたが、次の瞬間トランの背後に姿を現した人影に総ての気を根こそぎ持っていかれてしまったが為に、それを口にすることは叶わなかったのだ。
「~だぁら。なんとかしてみせる、責任はコイツ一人で取るっつってんじゃねぇか。いい加減聞き分けろよおっさん。いい歳こいてダダ捏ねてンじゃねぇぞみっともねぇ」
靴音と共に長身の影が闇の中からゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
「おまえは……っ」
やがて、魔族の背後から差す光に照らされたその背格好は、実際に対面した事のないマルトリックでも一目で判る程知られた有名人であった。
流れる銀髪。好戦的な青瞳。
非の打ち所のない程整った顔立ち。すらりと伸びた手足。
マントを翻し歩く姿はどこか人間離れした雰囲気と、圧倒的な存在感を放っている。
そんな彼の脇には、黄緑色の長い髪を頭の上で二つに結い上げた子供が一人。
「奴」については、これまでいろいろな目撃証言や噂を耳にしてきたが、その総てに少しの相違も無かった事に、マルトリックはいささか驚き――おかしな話だが、妙に感心してしまった。
成程、これでは世間がおもしろおかしく騒ぎ立てるのも無理も無い。
まるで作り物のようなソレを、彼はこの時、初めて視界に入れたのだ。
「リチウム・フォルツェンド、か……」
石化製品が使えなくなるという未だかつて無い非常事態に加え、魔族に続き、大盗賊までもが自分の前に姿を見せた。
全くなんて日だろうと、マルトリックは心の中で密かに舌打つ。
リチウムの名に、再び沸き起こる警官隊のざわめきを一喝してから、マルトリックは改めて、さも面倒臭いと言わんばかりに整った顔を歪ませているリチウムを……次いで、正面から自分に向けられた真摯な眼差しを見た。
状況からして、この歳若くして自分と同じ階級を持つなんとも生意気な黒髪黒瞳の青年は、リチウムと通じているのであろう。
いや、奴だけで三体もの魔族を倒した、というのは幾らなんでも信じがたい。ひょっとしたら目の前の青年も、所持する事を禁止されている魔石――禁術封石を有しているのかもしれない。……いや。十中八九、所持しているのだろう。
しかし、この眼差しはどうだ。
大盗賊が味方として姿を現すという、刑事にとっては最悪な状況下で、未だ自分に進言した時と変わらぬ、どこまでも真っ直ぐで力強い黒瞳で自分を射抜く。
そこには、自分に対する後ろめたさなど微塵も感じられない。
「……クイロ警部」
「はい」
短い間。
だが、両者の間には恐ろしく重く濃厚な空気が流れた。
周囲の警官隊の何人かが、思わず息を呑む。
人も殺せそうな鋭い眼光で追いつめるその先にあるのは、やはり変わらぬ強靭の黒。
――この男の意思は、本物だ。
その光は意思と共に、少しも揺るがない。
「……先程ご自身が口にした言葉を、決して忘れぬように」
突き刺さるような、強烈な視線。
トランが深く頷くのを見届けると、マルトリックは咆哮した。
「~総員、退避だ! 署に戻るぞ!」
「トラン。返して、それ」
マルトリック・ゲイザー率いる警官隊が居なくなったのを見計らって近寄ってきたリタルが、トランを見上げて小さな手の平を伸ばす。
「あぁ、サンキュ。おかげでなんとかゲイザー警部を説得できたよ」
リタルに、魔石の入ったビニール袋を渡すトラン。
そんな光景を横目に、リチウムが欠伸をする。
「何寝ぼけた事ぬかしてんだよ? ダルマのおっさん退かしたのは、俺様の輝けるお言葉があったからだろ」
「しっかし、本当に居るもんねー。あんな、いかにもドラマに出てきそうな眉間に皺癖つけた、おっさん刑事っ」
感心したような表情でマルトリックが通っていった路を見遣るリタル。つられ、トランもそちらに視線を移す。
「ニタさんと違って一筋縄ではいかないのは予想出来てたけどね。……それにしちゃ、やけにあっさりひいてくれたけど」
「ま、本当に恐いのは事件解決後ね。色々と突っついてくるでしょう。トラン、覚悟しといた方がいいんじゃない?」
言ってリタルが首を切る動作をしてみせると、トランが苦笑した。
ちなみに、先程見事にスルーされたリチウムは、二人の会話の間で「お~い」とか「こら~」とか小声でほざいていたりする。
「ま、なんとか頑張るよ……それよりも」
言葉を切って、正面に向き直るトラン。
「……また。判りやすい容姿してんわね。早めに対策練られて楽っちゃ楽だけど」
リタルも右手を腰に当て、挑戦的な視線を正面に投げた。
「残るザコは後一匹。始めのは赤い目した炎系の魔力で、その次は茶色の目をした土系の魔力。さっきのは薄い青色の目の風系の魔力を持った――全部、おんなじ犬頭。ンで今度のは……黄色の目、か。これまでの流れからして安直に考えると……雷系の魔力ってところかしら?」
目を細め魔族を『観察』しつつ、ふふんと鼻で笑うリタル。いつの間にか彼女の右手――指貫手袋の甲に取り付けられた石が黄緑色の光を放っている。『魔眼』使用時のリタルの瞳は、肉眼ではとらえる事の出来ない視覚情報を感知する事ができる。
人間の存在しない街。見慣れた光景が、人気がないというそれだけで全く別の顔を見せていた。路の中央には犬頭魔族。それが放つ複合した魔力と、はるか上空に天使の気配が……百人程。肉眼では確認できぬ位置にいる為、リチウムとトランは気付いていないだろう。そして。
別種の魔力によってコーティングされた雷の魔力が、正面の犬頭からホームの辺りまで細く伸びている。
「――コイツの魔力もホームに流れてる」
「やっぱりか。ってことは、あの魔族を追っ払えば……」
「グレープは助かるって事だ。よーし。いけ! 子分ども!!」
いつのまにやってきたのか、二人の背後で踏ん反りがえって、ずびしぃっと魔族を指差すリチウムに、
『おまえがいけ!!』
怒れる二匹の怒りの咆哮が飛んだ。




