40. エピローグ
「私はね、不老不死をやめてしまいたかったんです。でも、彼女とした約束があったからやめられなかった。そう……約束したんですよ。ずっとずっと待っている、と」
凪いだ双眸には悠久の星のまたたきがたたえられている。
わたしはエルフィのほうをみた。
エルフィは憶えていた。
それは生まれ変わりをはじめた当初よりもずっと薄れていたかもしれないけど。
少なくとも夏休みのまえまでは、エルフィは彼のことだけがすきだった。
生まれ変わりをくりかえすうちにいちどぜんぶ忘れて。それからソールさんがループをはじめて。ループをくりかえすうちに魔力と記憶が戻っていって。だけどそのあいだにソールさんのほうは人でなくなっていって……。
それで、これが最後のループ。
エルフィは彼との記憶を取り戻したうえで別の方向に進みはじめている。
「あなたなら、私を永眠らせることができる。あなたにしかできない。だから私は逢いたかったんです。私が、私の記憶のなかのあなたのもとへ逝けるように」
くりかえすだけの時間を、思い出のなかで遡って。
「でも、それではいまのあなたにとってなんのメリットもありませんよね」
彼はほほえんだ。
「私の願いをかなえてくれたなら、引き換えに、あなたに贈りものを差し上げましょう。あなたがいちばん求めているものを」
やかんの鳴る音で回想から現実へと引き戻された。
スプーンで測った茶葉をポットに移し、ゆっくりしずかにお湯をそそぐ。残りわずかとなった貴重なアールグレイ。前世では紅茶なんて優雅な趣味のなかったわたしでも、この香りに包まれているとなんとなく懐かしいような気分になる。
「なにかほかのもので再現できないか試してみましょうか」
「いいの。忘れていくから、思い出ってきれいなままでいられるのよ」
「姉上の場合は忘れすぎです」
辛辣にいって、弟は淹れたてのカップをわたしのまえに置いた。
結わいた黒髪がさらりとゆれる。開けはなした窓から吹きこむ風を追いかけて、黒曜石の瞳がしずかにまたたく。このすがたにもずいぶん慣れた。
魔法使いソールは、みずからの願いの代償として、自分が死んだあとの器にアルトの魂魄を容れて寄こしたのだった。
「遅いわね、エルフィ」
エルフィは今朝方作りためた魔導具を売りつけ……じゃない、行商に出かけていった。
器のほうにかかっていた制約はなかみが入れ替わっても有効らしく、アルトはこの森から出られない。
停学処分となったエルフィは3か月の謹慎期間をこの森でこころおもむくまま過ごしている。この分では卒業した後もここに戻ってきてしまいそうだ。
「ロキが付いているからだいじょうぶでしょう」
「信用できないわよ。あの困った猫……。ソールさんに頼んで本性に戻れない呪いだけは残しておいてもらったらよかったのに」
「必要ならエルフィがまたかけますよ」
エルフィは順調に魔法使いへの道を歩み出している。
昨日焼いたクッキーの残りをつまんでいると、ドアをノックする音がした。エルフィじゃない。彼女はソールさんから遺産を相続した家主さまなので、ノックなんて必要ないのだ。
「どうぞ」
ドアが開いて、閉じる。硬い足音。顔を上げると立っていたのは殿下だった。
制服ではないもののちゃんと貴族の子弟らしい格好をしているので、魔法陣のタペストリーや束ねたハーブが吊るされた背景からいちじるしく浮きまくっている。
殿下は魚の目玉が詰まった瓶や真鍮製の天秤、動物の骨なんかが雑多に積み上げられたなかを臆することなく入ってきた。いいかげん慣れたらしい。
「ひさしぶりだな」
「先週もおなじこと言ってませんでしたか」
「……」
殿下は無言で椅子に腰をおろした。アルトがお茶のカップをもうひとそろい用意するあいだ、室内にはなんともいえない微妙な空気がただよっていた。窓際で水時計に似たなにかがまどろむようにおだやかな音を立てている。
「なんでふたりきりなんだ。エルフィは?」
「魔導具を売りに行きました。会いたかったなら約束してから来てください」
「いや、まあ……」
殿下はきちんとお祈りを捧げてからカップに手をつけた。
「不思議な香りだな」
「そうかもしれませんね」
「あいつ、おまえにはこれのほうが懐かしいとかなんとか……」
言いかけて、殿下は迷ったようにことばを切る。
「すこし、そとに出ないか」
暦のうえで秋が深まっても針葉樹の森は緑のままだった。この森は紅葉することも枯れることもなく魔法をかけられたときのまま時間を止めている。
「その……戻ってくるつもりはあるのか」
「あまり。両親にはもうしわけないのですが、わたし、追放辺境ライフを満喫しているんです」
麻のワンピースをつまんでみせる。
住むところには困らないし、食べるものにも困っていない。朝起きて水汲みをして畑の世話をして、午後には内職したり保存食を作ったりして。おなじことをくりかえす毎日。
エルフィは薬や魔導具を作って売るのに熱心だが、莫大な遺産があるので売れなくたってべつにかまわない。ほとんど趣味の世界だ。
空を見上げれば青くすみわたっている。
ここには知らない人はだれもやってこないし、困ったことも……まったくとは言わないけど、ほとんど起こらない。
だれも傷つかない、なにも変わらない、やさしい世界。
「それでも、おれは待ってるから」
殿下はわたしのまえに跪いて手を取った。指先にくちびるが落とされる。背景に咲きみだれる薔薇の幻影をながめながら、こういうことがサラッとできる人ってどうよとつっこんでしまう。
つくづく、わたしはヒロインに向いてない。
手渡された天鵞絨張りの小箱の蓋をあけ、わたしはなかみをまじまじとみつめた。
「…………これって、売ったらいくらになるんですか」
殿下はあきれかえった。
「売るな。現金が必要なら取りに来てくれたらいくらでも渡すから、それだけは売るな」
「いまサラッとトラップしかけてきましたよね」
「ごまかされなかったか」
「ええ、まあ。長い付き合いですし。そんなせせこましい小細工にひっかかるわたくしではありませんでしてよ」
「……」
声には出さなかったが、おなじみの『おまえなんか大嫌いだ』の顔をしている。
「せせこましくて悪かったな。わかった、無理にでも連れて帰る。さっさと支度しろ」
肩をすくめる。
「しかたないですね」
そとの世界はやさしくない。
だけどひとりじゃないから、やりなおせないやさしくない世界も、悪くないかなと思った。




