36. 宮廷円舞曲
夏休みが開けて新学期。
本人に自覚はまったくないらしいが、エルフィは順調にゲームを進めていた。
休憩時間、わたしは殿下がエルフィに数学の問題を教えているところにとおりかかった。
「あっ。ゼラ、ちょうどよかった」
もしこれが隠しルートなら、エルフィは攻略対象4人みんなの好感度をあげる必要がある。わたしはじゃましないようにこっそり通りすぎようとする。なのに、なぜかわたしのすがたをみつけたエルフィのほうから声をかけてきた。
「ごきげんよう」
わたしはしかたなく足を止めた。
「おふたりでなにをしていらっしゃるの」
ついつい嫌みっぽくなってしまったのは、エルフィがみるからに困ってますオーラを出していたからだ。教室を見回せば女子の負のオーラがやばい。これにきづかないのは殿下くらいだろう。
「宿題を教えてたんだ。エルフィは問8があたってるっていうから」
「ごめんね、ゼラ。わたしはクラウスさまに訊いたつもりだったんだけど……」
わたしは殿下のうしろで優雅にふたりを鑑賞していたクラウスをみた。
「殿下がいつになくやるきを出しているようでしたので」
クラウスはふたりが囲んでいるノートを指差した。
それでおもしろがって傍観者に徹していたわけですね。うーん、あいかわらず……。
わたしはためいきをついてノートをのぞきこんだ。宿題だったので当然わたしも解いてきている。が。
「ずいぶんと計算式が多いのね」
ぽつりとこぼすと、殿下が「は?」と不満そうな声をあげた。
「ちゃんと解けてるだろ」
「それはそうですけれど」
いいかけてはっとした。そうだ。夏休みまえに殿下にもやさしくしようと決めたばかりじゃないか。
うん。これはみなかったことにしよう。
ごめんね、エルフィ。あてられてるあなたには悪いけど、答えはあってるからそこまで困ったことにはならないと思う。この積分をえんえんと板書するのはつらいだろうけど。
「わたくし、そろそろ席に戻ります」
「まだ時間あるだろ。言いたいことがあるなら言ってからいけ」
「言いたいことなどございません」
「わかった。それじゃ言いたくなくても言っていけ。命令だ」
「……」
暴君め。
わたしはためいきをついて鉛筆を取った。
「すこし書きこんでもよろしいでしょうか」
ふたりに確認して、数式ではなくとなりの作図のほうに線を引いた。
「この直線と直線y=f(x), y=g(x)との交点をそれぞれ点F, Gとします」
淡々と説明しながら図のなかに文字を書き入れていく。
「ここにもう一本補助線を引けば、三角形AB'Fと三角形CD'Gは直線AB'と直線CD'が並行であることから相似の関係だとわかります。相似比はAF:CGなので」
「あっ。それじゃ、積分しなくていいのね」
「そう。底辺かける高さわる2で求められるの」
「ありがとう、ゼラ。すごくわかりやすかったわ」
「……」
歓声をあげるエルフィのよこで殿下が無になっている。
ごめんなさい。だけど微積でゴリゴリやるのってわたしの美意識に反するし。
死んだ魚の目をしている殿下をみないようにしながら、わたしはエルフィに鉛筆を返した。
放課後、図書館に行くとめずらしく殿下が自習室で教科書に向かっていた。
あの表紙は数学だ。昼間のあれがよほどショックだったらしい。
うわぁ。悪いことしちゃったな。
でも、エルフィあてられてたしな……。
しかたない。
すんだことは忘れよう。前を向いて生きていかないと。
そそくさと踵を返そうとするよりも、殿下がわたしにきづくほうが早かった。
捨てられた仔犬のような目ですがられ、わたしはあきらめて殿下のとなりに鞄を置いた。
「……ごきげんよう。わたくしになにかご用でしょうか」
「用がないと声をかけちゃいけないのか」
「ここは自習室ですから。しずかに勉強に集中するための場所です」
殿下はみるみる萎れてうつむいてしまった。手のかかる人だ。
「……ですから、場所を移しましょうか。カフェテリアのケーキセットくらいでしたらおごります」
殿下はがばっと顔をあげた。
「いいのか?」
「はい」
「だ、だまされないぞ。おまえいったいなにを企んでるんだ?」
人聞きの悪いことをいわないでください。
「お見舞いをいただいたんですからお礼くらいさせてください」
「お見舞い……?」
「夏休みまえに本をいただいたでしょう。ほら、あの……ええと」
タイトルが出てこない。だだあま……じゃなくて、糖分過多……でもなくて。砂糖を吐きそうな、って表現がよろしくないことくらいはわかる。
「『王子様に溺愛されています(はぁと)』か」
口にして、殿下は顔から湯気を出して倒れた。
うん。そういえばそんなタイトルだった。
これ以上はずかしい会話を続けると明日から自習室を使えなくなりそうなので、わたしは殿下をせかしてさっさと図書館を後にした。
カフェテリアのすみっこに陣取って季節限定のタルトと紅茶のセットを注文し、わたしは殿下に向き直った。
「おいしそうですね」
「あ、ああ」
だいじょうぶかな、この人。さっきからずっと赤くなったままなんだけど。まあ、たしかに男子が人前で口にするには非常にこっぱずかしいタイトルではあったけども……。そこまでダメージ受けるなら、わたしに渡したりせずさっさと図書館の寄贈箱につっこんどいたらよかったんじゃ。
ちなみに『王子様に溺愛されています(はぁと)』はいまエルフィの手元にある。感想を聞いてみたくてなかば無理矢理押し付けてしまったのだが、ひとのいいエルフィはふつうにたのしんでくれているらしい。あれを読んでこの世界での恋愛にめざめてくれたらいいんだけど。
「その、殿下にはたいへんお世話になりまして……」
わたしは胸ポケットから柘榴石のネクタイピンをはずして殿下のほうに差し出した。
「これをお返ししようと思います」
「どうしてそうなる!?」
赤かった殿下がいっしゅんで青ざめた。
「これはもともと殿下への貸しの手形としていただいたものですし」
まあ、五年もまえのことだからこの人がおぼえてなくても無理ないか。
「いやそれはおぼえてる。おぼえてるが……それは婚約指輪のかわりでもあっただろう!?」
「そういえばそんな設定もありましたね」
「設定って……あのな。おれが指輪をつくらせようとしたら、おまえがすぐにサイズがかわるからこれでいいといったんだろうが」
そこまでいって、殿下ははっとした顔になった。
「それじゃ、今度こそ指輪を受け取るんだな?」
「どうしてそうなるんですか」
「いや、その……」
「あと一年足らずで婚約解消するのに、いまから指輪なんてもったいないと思うんですが」
「……そこだけはおぼえてるんだな」
殿下はうつむいた。
うーん。またへこんだか。どうしてあげたらいいんだろう。ちょっと考えてから、わたしは以前ほど殿下のことをめんどくさいと思っていないわたしに気がついた。慣れって怖い。
「そうだ。もうすぐ学園祭ですよね。後夜祭のパーティですけど、ドレスは何色がいいですか?」
「お、おまえ……だいじょうぶか? 今日はもう帰って休んだほうがいいんじゃないのか」
「どういう意味でしょう」
「おまえがそんな気をまわすなんて病気でおかしくなったかなにか企んでるかの二択じゃないか。だいたいおまえは青か紫しか着ないだろうが」
「そうでもありませんが」
殿下はしばらく迷っていたが、結局は「白がいいな。白にしろ」とのたまった。
たしかにエルフィは白が似合う。そういえば本編で殿下がエルフィに贈ったドレスも白だった。さっそく仕立て屋に連絡しないと。わたしのはすでにできあがってるから、いそがせればじゅうぶんまにあうはずだ。
学園祭の三日目、後夜祭の夜は学校行事とは思えないくらい本格的な舞踏会だった。
エルフィのドレスは結局まにあわなくて、急遽わたしのおさがりを仕立てなおしてもらった。おさがりといっても昨年のパーティで一度そでをとおしただけのほぼ新品で、デザインがかわいらしすぎてわたしには似合わないからクローゼットの肥やしになっていたものが、ようやく日の目をみたかたちになる。
「やっぱりよく似合うわね。石をはずしてレースに変えたのは正解だったわ。あなたのイメージって、真っ白なカスミソウの花の妖精なんだもの」
花言葉は「清らかな心」。
ちなみに本編でこれをいったのは殿下である。あのシーンは背景に一面のカスミソウが描かれていて、エルフィの清楚さを印象づけた名場面だったんだけど……現実の残念な殿下を知っていると苦笑いしか出てこない。
「よろしかったんですか。こんなに高価なものを貸していただいて……」
エルフィは純白のシルクを心配そうに見おろした。飲みものをこぼしたら一発でわかる色だ。
「かまわないわ。いただきものだし、わたくしには似合わないものだから」
このデザインは殿下の趣味だ。ふんわりと広がったそでにスカート。胸元に繊細なレースを重ねて、ウエストにはリボンをあしらって。たぶんあの人はこういうのが似合う女の子が好きなんだろう。
「いただきものって、どなたからですか?」
「殿下よ。だから気にしないで」
「……まあ、ゼラがそういうなら」
エルフィは不安そうにつぶやいた。今日はずいぶんと口数が少ない。緊張しているにしても、ちょっと暗すぎるような。
「なにかあったの?」
「いえ。たいしたことじゃないんです」
でも、あとからふりかえるとこれは予兆だった。




