35. 千年の孤独
帰宅してごはんとお風呂が終わってからも、エルフィはテキストから書き写してきたメモと首っぴきで魔法の練習をしていた。
使用人たちの目に触れないようにわたしの部屋にこもって、ベッドのうえで辞書だのスーツケースだの重たいものに挑戦している。
なんで一日でここまでできるようになるんだ……。
わたしは早すぎる展開にすでに付いていけなくなっていた。
頭上をくるくると旋回していた辞書が降りてきてベッドのうえでぽすんと跳ねた。ボールみたいに弾む動きがきにいったらしい。エルフィがベッドのうえで辞書をステップさせていると、ノックの音がした。
「さっきから物音がしていますけど、いったいなにを……」
あんまりうるさかったからだろう。返事をするまえがドアが開いて弟が顔をのぞかせた。独創的なダンスを踊る辞書をみて絶句する。
「これは……」
「な、なんでもない! なんでもないの! アルト、今日はもう寝たほうがいいわ。きっと疲れてるの。疲れてるからまぼろしがみえるんだよ!!」
「つまり、このまぼろしは姉上にもみえているわけですね」
えーっと。ど、どう答えたらいいの?
ことばが崩れているのにもきづかないくらいわたしは動揺していた。
弟はためいきをついてエルフィに説明を求めた。血のつながったお姉さまよりもぽっと出の女友達のほうが信頼されているらしい。あゝ無情……。
いつもの冷めた口調で流されるかと思ったが、意外にも弟は魔法に興味を示した。
「それって、空飛ぶベッドとかもできる?」
「練習すれば、たぶん」
エルフィは天蓋付きのベッドの柱に手を触れて呪文を唱えた。ベッドはブルブルブルッと水をかぶった犬みたいに身震いした。さすがに浮かび上がりはしなかったけど、わたしが身の危険を感じるにはじゅうぶんな動きだ。
「やっぱり、もうちょっと練習しないと難しいわね」
やるの? ほんきでやるつもりなの!?
エルフィがもう一度唱えると、ベッドはいっそう大きく身震いする。
「きゃっ」
よろめいたエルフィをアルトが抱き止める。
そのときだった。
ベッドがふわりと宙に浮いた。
「うそ……」
茫然とするわたしたちの目のまえで、ベッドは安定して浮いていた。絵本に出てくるほんものの空飛ぶベッドみたいに。感嘆する弟の手をいっそう強くにぎりしめ、エルフィはたしかめるようにつぶやいた。
「すごい。これ、アルトさまの分の魔力ね」
「え……?」
エルフィがアルトの手を離す。浮力を失ったベッドは音を立てて落下した。浮いていたといっても数センチのことだったから大事にはならなかったけど、わたしは衝撃に飛び退いた。絨毯のほこりが舞いあがる。
エルフィは昼間ヨアヒムさまから聞いたばかりのほかの人から魔力を借りる方法について説明した。
「それは興味深いな」
言いながら、アルトはエルフィに手を差し出した。エルフィが手に手を重ねると両手をつないで円にする。
「これで俺のこと浮かせてみて。だいじょうぶ、きみならできるよ」
こういうせりふもいえるのね。順調にストーリー進行してるじゃないの。
そのとき、わたしはふたりが恋に落ちる瞬間をみたんだと思う。
現実逃避するわたしにみせつけるように、ふわり、アルトのからだが浮いた。アルトが手を引くとエルフィのからだも浮かびあがる。
「すごい魔力量ね。ほんとうに自分では使えないの?」
「みたいだね。……残念ながら」
弟は肩をすくめたが、あまり残念そうにみえない。魔法なんて使えないのがあたりまえの世界で生きてきたわけだから、この奇跡をまぢかにみられるだけでじゅうぶん感動してるんだろう。わたしも右におなじ。まさか自分で使えるなんて思わないし。
「姉弟なのに、アルトのほうがゼラよりもかなり多いのね」
エルフィは不思議そうに首をかしげたが、わたしも弟も自分では使えないわけだから、それがおかしいのかおかしくないのかわからない。ヨアヒムさまが高位貴族なら魔力があるはずだといったということは、あるていどは遺伝するんだろうけど。
「それは王家の血だろうな」
数日後、エルフィにひっぱられてやってきたアルトをみて、ヨアヒムさまは断じた。
「髪の色をみればわかるよ。かなり濃いね」
そういえばこの白金色は王家の色だった。ただの金髪はそれなりにみかけるけれど、もっと淡くて繊細なこの色合いはめったにない。
わたしは弟の母を知らないんだけど、弟のほうがわたしよりも濃いということは、彼女は王家の人だったんだろうか。……お父さま、まさか危ない橋を渡っていらしたんじゃ。
「ものを浮かせるのはあるていどできるようになったから、ほかのもおぼえたいんです。なにかおすすめはありますか」
さらっととんでもない発言をするエルフィにヨアヒムさまは苦笑した。
「テキストの順番通りにやっていくのがいいんだとは思うんだけどね。きみ、そういうレベルを軽くこえちゃってるから。興味があるものから試してみるのがいいんじゃないかな。ほぼ独学でそこまでできるんだから、なんとでもなるよ」
まったくもって同感だ。あの学校が魔法学校だったら自信喪失して退学する生徒が続出するだろう。
「せっかくの夏休みだし、水系がいいんじゃないかな。いまから出れば中央公園の湖のそばでランチが食べられるし。あそこは広くておくのほうは人が来ないから、泳いでも潜ってもだれにもみつからないよ」
それはいわゆる水着回というやつですか?
「いいわね。ゼラもそれでいい?」
「いえ、わたくしは日焼けには気をつけてるから。……興味深い本がたくさんあるし、先生さえよろしかったらもうすこしここで読んでいきたいんです。わたくしのことはお気になさらずにどうぞおふたりでたのしんでいらして」
いやみっぽくなってないよね。よね?
めちゃくちゃ見学したいんだけどここでついていったらダメでしょう。
満面の作り笑いでふたりを追い出したわたしは、買ってきたサンドイッチを広げてヨアヒムさまとランチにすることにした。大学の購買にはこのところすっかり遠ざかっていた庶民的なメニューが充実していて、わたしは転生して以来初のマスタード・タラモサラダ・サンドを遠慮なくほおばった。
「そういえば、先生はロキについても調べていらっしゃるんでしたよね」
わが家の客室でお菓子に埋もれているはずの黒猫のことを思い出す。エルフィはあの魔物にあますぎる。シュミット氏から送られてくるおこづかいのほとんどはロキのおやつに費やされてるんじゃないだろうか。
「いちおうね。資料がすくないからはかどらないんだけど……そうだ、いいものがあるよ」
ヨアヒムさまは食べ終わったサンドイッチの包みを片付けてデスクのうえから一冊の本を取り出した。文字はほとんどなくページの大部分が版画で占められている。画集らしい。
「最近手に入ったんだ。ほら、みて」
開かれたページには黒いローブをまとった男の人。ゆったりと椅子に腰掛けていてひざに黒猫をのせている。猫の瞳は赤。
けれど、それよりも。
まぶかにかぶったフードのしたからのぞく顔にわたしは見覚えがあった。どこだろう。ほんとうについ最近みたばかりだ。そう、たしか……エルフィの似顔絵だ。
この男性のローブをパーカーにしてなかに『働いたら負け』のTシャツを着せるとエルフィが描いてくれた前世の恋人の似顔絵になる。
それにこのゆったりとした黒いローブのシルエット。これ、たぶん、ゲームのパッケージの背景だ。顔は隠れていたけどたたずまいに見覚えがある。
「これ……このローブの人がロキの主人なんですか?」
「そう。大魔法使いソール」
「不老不死でかつての恋人が生まれ変わってめぐりあうのを千年のあいだくりかえしつづけたという方ですね」
「ロマンのある話だよね。千年もあればそのあいだに愛を語りあうことばだって変遷していったはずなんだ。文法はほとんど変わってないだろうけど単語の寿命っていうのはけっこう短くて……」
壮大な講義がいざはじまろうとしたところで、研究室のドアがいきおいよく開いた。
「フィーネ!」
ひさしぶりの殿下が肩で息をしながら立っていた。といっても、終業式以来だから半月も経っていないはずなんだけど。
「どうなさったんですか。というか、なぜここに?」
「屋敷をたずねたらアルトがおまえはここにいるというから……」
あれ? せっかくの水着回なのに帰るの早くない?
やっぱり夏休みだし人が多過ぎたのかな。デートするならともかくエルフィがしたいのは魔法の練習である。屋敷の庭の池なら不特定多数の目に触れることもないだろうし、さっさと撤収してしまったのかもしれない。
それにしても顔色が悪い。わたしは殿下の動揺の原因を察して内心すこしだけ同情した。
「あれをみればだれでもびっくりしますよね。ベッドが空を飛ぶんですもの」
「……は?」
口をあんぐりと開けたままフリーズしている。
「なんだそれは」
「え、ちがうんですか? それじゃ真夏に池が凍るところでもご覧になりました?」
「なにがどうまちがったらそんな非常識なことになるんだ」
そうそれ。わたしもそれは盛大につっこみたい。エルフィもアルトもあの非常識な現象に順応しすぎてる。
ヨアヒムさまは苦笑してわたしの手から画集を取り上げた。ぱたんと軽い音を立ててページが閉じる。みえなくなる。
「お迎えにいらしたようだから帰りなさい」
「え?」
わたしは殿下をみた。
「なにかご用事でしたか?」
「いや、その……」
赤い瞳がそらされる。それからなにかいいかけて、結局は飲みこんでしまう。
「おじゃましました、フェラー先生。失礼します」
殿下はわたしの手を取って研究室を後にした。
帰りの馬車のなかで黙りこんでいた殿下は、しばらくしてようやく口を開いた。
「アルトの出自を知ってるか」
「どうしたんですかいきなり」
「ここに来るまえにアルトから聞いたんだ。あー……その……なんだ……ヨアヒムはあいつの髪の色が王家の色だと話したらしいな」
「ああ、それであんなに動揺していらしたんですね」
わたしは得心したが、殿下は微妙なかおになる。
「ご存じのとおり、アルトはわたくしの弟です。母とは血がつながっていないかもしれませんが、父の子である以上、アルトのお母さまがどんな方であったとしても、アルトがわたくしの弟であることに変わりはありません」
殿下のあごが窓にほおづえをついていた手からすべり落ちる。
「おまえ……それ、ほんきで言ってるのか」
「当然です」
「あのな、おれにはごまかさなくていいんだ。無意味だし」
「なにがですか?」
「だから、おれは最初から知ってるんだからはぐらかさなくていいんだよ」
「おことばの意味がわかりかねます」
「冗談だろ……」
なにをそんなに驚くことがあるのか、殿下は愕然としたかおでひたいに手をあてる。
「ほんとうに知らなかったのか。――――なんで知らないんだよ。おれは絶対にギゼラがかんちがいしてると思って……」
懐かしい名前が出てきた。というか、呼べるようになったんですね。さすがに五年も経ってると。
「ギゼラさまがどうかなさったんですか?」
「……おまえはどうせおぼえてないだろうけど、中等部の一年のときに武闘会でおまえと対戦してギゼラに締めあげられたんだよ。ゼラは知らないから巻きこむなって。あんだけ弟べったりで知らないとかありえないだろって……ほんと、なんでおまえが知らないんだよ」
「はあ」
おぼえてないよそんなの。うちのかわいい弟が殿下のせいで怪我したのはおぼえてるけど。絶対に忘れないけど。
ていうか、さっきから知らない知らないってくりかえしてるけど、なにを? 具体的な内容が出てくる気配が一向にない。話の流れからしてアルトは母方に王家の血が入ってるとかそういうかんじのことだろうと見当はつくんだけど……。
「おれはてっきり、おまえは知っててなかったことにしてるんだと思ってた。おれもそうだし」
「?」
「おまえ、頭はいいのに勉強しかできないっていうか……教科書暗記して応用までできるけど教科書がまちがってるかもとは思わないタイプだろ」
なんかよくわからないけどすごい失礼なこと言われてる気がする。
「殿下はアルトのお母さまをご存じなのですか? というか、わたくしが知っていると思っていらしたのなら、わざわざ来なくてもよかったんじゃ……」
「おまえの解釈はいろいろとまちがってるし、来たのはアルトにはめられたんだ」
「はい? その言い方ではまるでわたくしの弟が悪いようではありませんか」
「………………」
白金色の頭ががっくりとうなだれる。
「おまえなんか、おまえなんか……」
いつもの「大嫌いだ」は出てこなくて、殿下は弱々しくつぶやいた。
「フィーネのばか……」
――――それ、あなたがいってもかわいくないですからね?




