32. レイニーブルー
殿下が弟の肩を抱いて出ていってしまうと、わたしとエルフィのふたりだけが残された。
「よかったら、少しいてくださらない?」
「いいんですか」
「もちろん。なにか飲む?」
「あ、いいです。わたしがやります。ゼラさまはそこにいてください。病みあがりなんですから」
エルフィは殿下が片付けていったティーセットをもういちど出してきてお茶を淹れてくれた。
数段上手だった。苦みも渋みもなくて、あっさりしている。味が薄いのは消費期限が切れているからだろう。
ちなみにエルフィは消費期限の存在を知っていたが、わたしにだいじょうぶか訊ねただけで、本人は気にしていないらしかった。
「……なかよくなったのね」
ことばはためいきといっしょにこぼれていた。
はんぶんほど飲んで、カップを置く。
エルフィがわたしをみた。
「ダメだなぁ、わたし……。エルフィのことがすきで、しあわせになってほしくて、それはほんとうのことなのに」
「あ、ありがとうございます……」
困惑するエルフィにもうしわけなく思いながらも、吐き出さずにはいられない。
「だけど、どうしてもやきもちやいちゃうんだよね。……すきなのに。だいすきなのに。自分で自分がいやになる」
とまどっていたエルフィの表情が徐々におだやかになっていく。
エルフィは今日、風邪で倒れたわたしのお見舞いに来ただけで、こんな重い話を聞かされるとは予想していなかったはずだ。
それなのにただクラスがおなじというだけのわたしの話をちゃんと聞いて、受け止めようとしてくれている。
うつうつとくりかえすわたしにエルフィはやさしくほほえんだ。
「ゼラさまがお気になさるようなことはなにもありません」
「……え?」
思わずかおをあげると、キャラメル色のひとみがひとりの心細そうな女の子を映している。
「もうしわけございません。わたし、殿下がゼラさまの婚約者だなんて存じあげなくて。でも、殿下にはちょっと授業でわからなかったところを教えていただいたりしたていどで、ゼラさまがお気になさるようなことはほんとうになにもないので……」
「なんでそこで殿下の話になるの」
「え?」
エルフィは目をみはった。
「あの……殿下のお話ではないのですか」
「ちがうわ。うちの弟のことよ」
「…………」
二の句が継げないらしい。まあ、姉弟の距離感としておかしいのは自覚している。
そういえば、本編ジークルートのエルフィは婚約者の存在を知らずに殿下と付き合いはじめて、いちおうは身を引こうとするんだけど、結局はオレサマ殿下との『運命の恋』に流されちゃうんだっけ。
今回は付き合いはじめるまえにわたしのことを知ってしまったわけね。
エルフィはわたしが本編からイメージしてたよりも常識人みたいだし、殿下はオレサマである以上にヘタレだから、このままいけばジークルートは阻止できるな。
「ゼラさまはアルトさまととてもなかがよろしいのですね」
わたしもほんとうはよろしくしたいんだけどね。そうするとまたループするから……っていうと頭おかしいと思われるよね。
ロキがエルフィにどこまで話してるのか知らないけど。
というか、そっか、もうアルトって呼ぶようになったんだ。思ってたよりも進行が早い。
「……ゼラ。ゼラって呼んでちょうだい。敬語もいらないから」
「よろしいのですか」
「もちろん」
エルフィはにっこり笑った。花が咲くようなって、こういうのをいうんだろうな。まさにヒロイン。守りたい笑顔。
「それじゃ、ゼラ」
試しにくちびるにのせてみて、エルフィはくすぐったそうに笑う。それだけでこころのなかにわだかまっていたもやが晴れていく。
「あのね、ゼラが話してくれたからわたしも話そうと思うの。……聞いてくれる?」
「ええ、ぜひ聞きたいわ」
当然アルトゥールとの恋バナが出てくるだろうと思ってわたしは身を乗り出した。ところが。
「わたし、殿下にもアルトさまにも恋愛感情はもってないし、このさきももつこともないと思うわ」
…………?
いまなんとおっしゃいましたか。
というかだったらなんでパーティにふたりで来たりするのよ。あれは十人中十人が誤解すると思うんだけど。
「おふたりがどうこうとかではなくて、これはわたしの個人的な問題なの。ええと、つまりね……わたし、この世界のどこにもいない人のことがすきなのよ」
「ごめんなさい、意味がよくわからないんだけど」
「そうよね。そうだと思う。話してるわたしじしん、よくわかってないんだもの」
こんなわけのわからない話をしてごめんね、といって、エルフィは窓のそとに目をやった。
雨はとっくにやんでいた。かわいらしい羊雲をうかべた、暮れなずむ夕日色の空。
「こういう話をするとき、いつも思いだす人がいるの。だいすきで、たいせつで、想うだけで胸が苦しくなって。もらった気持ちのひとつひとつがこころのいちばん深いところに響いていて……だけど、どんなに考えてみても会ったことがあるはずのない人なの。だって、わたしはあの人のことをこどものころからずっと想いつづけているけど、あの人といたわたしはいまとそう変わらない年齢だったはずなんだもの」
それって、まさか……。
わたしはエルフィをまじまじとみつめた。
からだの芯が冷たくなって、指先の感覚がじわじわとなくなっていく。
ロキはわたしのことをこの世界の人間ではないといった。
わたし以外にもこの世界のそとから来た人間がいるとはいわなかったけど。
まさか。まさか。まさか……。
「まえに友達に話してみたことがあるの。そうしたら彼女はいったわ。それじゃ、あなたは前世の記憶があるのねって」
――――前世の記憶があるのねって。
「あなたのたいせつな人の名前は、なんていうの」
声が震えた。
「うーん、そのあたりはわたしの記憶もあいまいで……顔とか声とかもやがかかったみたいに薄れちゃってるのよね。でも、ふんいきはとてもよくおぼえてるから、会えば絶対にわかると思う」
「どんな人だったの」
「料理がじょうずだったわ。パスタを麺から作れるのよ。すごくない? しかも、ちゃんとお皿を洗うところまで文句ひとついわずにやってくれるの」
「……そ、そう」
なんでそこだけそんな具体的なの?
そんなに重要なこと……だったんだろうな。エルフィにとっては。
まあ、わたしも現世では料理人さんがごはん作ってくれる生活してるけど、学生時代にひとり暮らししてたときはたいへんだったから気持ちはわかる。
「顔はまったく思い出せないの?」
「うーん……そうね。なんとなくだけど、髪は黒かったような。おだやかなかんじだったわよ。縁なし眼鏡にいつもくたびれたフードつきの服を着ていて」
エルフィは鞄から紙を取り出してサラサラっと似顔絵を描いてみせた。なにがどうしたのか『働いたら負け』と書かれたTシャツのうえにパーカーをはおっている。エルフィはなにかの意匠だと思ってるみたいだけど、どこからどうみても日本語である。
…………。
これ、日本人じゃないですかね。
「やっぱり容姿のこのみってあるんでしょうね。わたしがすきになるのっていつも黒髪の人なの。なんだか落ち着くっていうか……どうしてかしら、なつかしいかんじがしてしまうのね」
まあ、日本人ならそうだろうね。
「だからゼラは、わたしが殿下やアルトさまのことをそういう意味ですきになることは、心配しなくていいのよ」
よくないよ。
まったくもってよくないよ。
わたしは深呼吸した。
ロキ……あなたはこのことを知ってたの?
知ってたとしたら、どうしてわたしに教えてくれなかったの?
というか、あんたはいまどこで何してるの?
いや、もちろん女子寮のエルフィの部屋にいるんだろうけどさ。
わたしはエルフィが描いてくれた似顔絵をぺらりとめくった。
「この紙、かわった透かしが入ってるのね」
「あら、気がついた? これはわたしの養い親の方がくださったものなの」
「養い親……」
「わたし、両親がいないのよ」
エルフィは屈託なく告げた。ほんのすこし淋しさをにじませて、けれどだれに恥じるわけでもなく。こういうまっすぐなところにアルトゥールも魅かれたのかな。
わたしはこのまま聞いていていいものか迷ったが、エルフィは自分に身寄りがないことを隠すつもりはないらしい。
「わたしの学費を出すかわりに、学校でのようすを手紙で報告するようにって。毎月一通出すことになってるんだけど、ついついひんぱんに書いちゃうから、追加で送られてきたのよね」
そういえばそんな設定もあった。あれはゲームシステムの都合で組み込まれたセーブ&ロールのための時間と解釈してたんだけど。
「追加でって、レターセットが?」
「そう。よくわからないけど、かならずこれに書くようにっていわれてるの。紙が上質で裏写りしないからかしら」
「ふーん」
「変わってるでしょ。かわいそうな孤児に学費を出してあげて慈善にいそしんでるのに、自分の名前は出さないようにしているし。お名前をたずねたら『手紙はヨハン・シュミット宛に出すように』っていうのよ。そんなの偽名に決まってるじゃない」
この国でいちばんポピュラーな姓にいちばんポピュラーな名前だ。山田太郎的なかんじ。たしかに、この姓にこの名前をつける親はなかなかいないだろう。
そういえばヒロインは魔力をみこまれて養女になるけど養い親には会ったことがないんだっけ。あしながおじさんとかウィリアム大おじさま的な存在なのだ。フリーズするとえんえん手紙書きつづけてて、こんな頻繁に手紙書く子いないでしょってつっこんだことはおぼえてるんだけど、ほんとはどう思ってるんだろう。
訊きたいことは山のようにあるけど、どこまで訊いてだいじょうぶなのかな。
ヒロインが転生者ってのは悪役令嬢ものとしてはそれなりによくあるパターンだけど、その場合こっちが転生者だとバレるとよくないんだっけ?
でも、ここまでの会話からしてエルフィは自分が乙女ゲームの世界にいる自覚はなさそうだ。
そもそも彼との記憶が前世ってとこからしてあやふやみたい。
なんていうか、転生って概念がないかんじ?
気になる。
めっちゃ気になる。
えーい、ままよ!
「あのね、エルフィ。ちょっとへんな質問かもしれないけど、乙女ゲームって知ってる?」
「乙女……ゲーム?」
「そう」
「ごめんなさい。わからないわ」
マジですか。
乙女ゲーム世界に転生するのって前世で乙女ゲームをプレイしてた層じゃないの?
乙女ゲームの存在すら知らないリア充がヒロインに転生とかあっていいの?
あまつさえ前世の恋人の記憶があって、ハイスペチートな攻略対象たちが目に入りもしないくらい愛してるって……どんな徳を積めばそんな人生が送れるの!?
しかもその相手が『働いたら負け』。
ねえ、エルフィ。
わたしはあなたのことがだいすきだし、あなたが自分の話をしてくれてとてもうれしく思ったけど。
あなたのこと、どうしようもなく遠い存在に感じるわ……。




