30. レイニーブルー
フィーネのようすがおかしい。
授業中もぼんやりと窓のそとをながめているし、いやみをいってみても反応が薄い。
食べものは残さず食べることが信条だったはずが、ちょくちょく残している。
昨日なんてあの縦ロールをひっぱってみたのにスルーされた。というより、きづいてすらないようだった。風がふいてもかってにもとに戻るくるくるぶりだからしっぽみたいなものかと思ったら、さすがに神経はとおってなかったらしい。
なにかあったのか訊ねたら、ペットの黒猫がいなくなったという。
そこまでへこむならちゃんとケージに入れて鍵をかけとけよと思ったが、それを以前フィーネにいったとき、ひどい虐待を耳にしたような顔をされたので黙っておいた。
とにかく、夕方に雨がふりだしたとき、おれがまっさきに思い出したのはフィーネのことだった。
あいつは放課後はいつも図書館にいる。
今日もぼんやりしていてかさなんて持っていそうにはみえなかったから、このどしゃぶりはこたえるだろう。
天気が悪いので今日の鍛錬はなしにしていた。
寮の自室で宿題を片付けていたおれは、ケヴィンを連れて部屋を出た。となりの部屋をノックする。
「クラウス、かさを借りるぞ」
「それはかまいませんが……どちらへ?」
「図書館」
当然ながらおれとケヴィンのかさは別にあるので、クラウスはおれの意図をあっさり看破したらしい。
「でしたら余分は持っていかないほうがよろしいかと」
「?」
よくわからないが、こいつが言うからには意味があるんだろう。おれは素直にかさを返した。
いってらっしゃいませ、とクラウスは慇懃に頭をさげた。
叩きつけるような雨だった。
石畳ではじけた粒が水しぶきになって、あたりは霧のように煙っている。日没まではまだすこしあるはずなのに、薄暮の空は厚い雲におおわれてすっかり夜の色をしていた。
近くまで来たところで、図書館から出てくるフィーネをみつけた。
立ちつくし、茫然と雨のなかをみつめている。その視線を追いかけて黒っぽい毛玉みたいなものをみつけ、おれはだいたいの状況を理解した。
おれが声をかけるよりも早く、フィーネは雨のなかに飛びだした。かさもなく、びしょぬれで。おれのことなんて視界に入ってもないみたいに。
「殿下はこちらでお待ちください」
ケヴィンのことばを無視しておれはフィーネを追いかけた。すぐに抜かされ、倒れているフィーネに駆けより肩を叩いたのはケヴィンのほうが早かった。
「もしもし、わかりますか?」
まぶたがわずかに震えて、けれど開かないまま沈黙する。銀色の長いまつげを雨粒がつたいおちる。
ケヴィンはフィーネの肩に手をかけ抱きおこそうとした。
「触るな!」
とっさに叫んでからハッとした。バツの悪いきぶんでみやると、ケヴィンは苦笑して一歩さがった。
「悪い。……その、なんていうか、……おまえが悪いわけじゃないんだ」
「わかっております」
ケヴィンは厳つい顔に笑みをうかべてうなずいた。おれはフィーネの横にひざをついた。
「フィーネ。……フィーネ、わかるか?」
返事はない。無意識にゆさぶってしまいそうになるのをやんわりと止められる。
「お嬢さんは図書館の入り口に鞄を置いておられましたね。自分が取りに行きますから、もうしわけありませんが、殿下に運んでいただいてもよろしいでしょうか」
「あ、ああ……」
鞄……。そういえばそんなものもあった。完全に頭から抜けていた。
おれはフィーネを抱きあげた。
思ったより重い。でも、これを口にしたらやっぱり殴られるんだろう。こいつは容赦ないからな。
さすがに抱っこで運べるきがしなかったのでケヴィンに手伝ってもらってせなかに背負い、肩にかさをひっかけて寮のほうへと歩き出そうとした。
「あの、殿下。どちらへ向かわれるおつもりですか」
「どこって、寮に戻る」
「医務室のほうがいいと思います。まさか男子寮にお連れするわけにいかないでしょう」
いわれてはじめてきがついた。
べつにクラウスがなんとかしてくれると期待したわけではなく、単純にそこまで思考が及ばなかったのだ。
ケヴィンはすぐにフィーネの鞄を持って戻ってきて、おれの肩からかさを取りあげて差しかけてくれた。
「助かった。……やっぱりおれは考えが足りないんだろうな。表面をとりつくろうだけでせいいっぱいで」
「そんなことはないと思います。むしろよく気がまわるといいますか、ほんとうに気のまわらない方は、その表面をとりつくろうこともできないものですし」
「……ありがとう」
声の調子で落ちこんでいることにきづいたのだろう。ケヴィンはめずらしくことばを重ねた。
「自分はよくわかりませんが、殿下はかなりうまくやってらっしゃると思います。あなたが……その……苦手にしていらっしゃるのは、そういう方面にかぎりますから。演習中に怪我人がでたときも、迅速かつ適切に対処していらっしゃいましたし……」
「そういうって……フィーネだぞ?」
……これ以上考えるのは危険だな、とぼんやり思った。
医務室に到着すると先生は冷えきったフィーネをみて渋い顔になった。
おれとケヴィンをパーテーションのそとにつまみだすと、意識の戻らないままのフィーネをてきぱきと乾いた服に着替えさせ、濡れた髪をタオルでぐるぐる巻きにして、すっぽりと毛布でくるんで湯たんぽをいくつもいくつもつっこんだ。恐ろしいくらいの手際のよさだった。
「その上着もこっちにかけとくんだね。そのままにしておくとシャツまで滲みてしまうよ」
いわれてはじめて、おれは自分の上着がびしょぬれになっていることにきがついた。濡れねずみ一匹背負って歩いてきたのだから当然のことだ。もっと早くにきがついてよかったはずなのに。
「嬢ちゃんは今日はもう動かさないほうがいいだろう。あたしゃ女子寮に行って寮監に話をしてくるよ。あんたたちを信頼してまかせるんだから、くれぐれもへんなことをするんじゃないよ」
「もちろんです。ちゃんとみておきますよ。おまかせください」
優等生らしく請けあって、おれは椅子をひきずってきてフィーネの枕もとに腰をおろした。
先生はさっさと出て行った。
沈黙がおりる。
「…………」
音もなく毛布がめくれて白い手があらわれ、わずかに空をつかみ、ぱたりと落ちた。
「フィーネ?」
毛布からはみだした手を取るとひんやり冷たい。両手で包みこんでみて思う。
こいつの手、こんなに小さかったっけ……?
白い肌に青くうかぶ静脈を指のさきでなぞる。
冷えきった手はまるで蝋かなにかでできているように精彩を欠いていたが、手首に触れるとたしかに脈うっていた。
にぎる手にそっと力をこめると青ざめたまぶたがかすかに震える。
こうしていると人形みたいだ。もともと姿かたちは精巧につくりこまれた人形みたいに繊細にととのっているし、表情も変化にとぼしいから、ふだんから無機物じみているといえば、まあ、そうなんだけど。おなじ無表情でもいやみをいわないこいつはこいつらしくないというか。
……なんだろう。みていて不安になる。
嫌いになるのはけっこうかんたんなんだ。嫌いな理由をひとつひとつあげつらって、嫌いだ、嫌いだってくりかえす。そしたら嫌いになれる。
……はずだったのに。
ほおに貼りついた銀の髪をそっとはらい、指にからめる。うっすらと開いたくちびるに指をのばしかけてはっとした。『大嫌い』で蓋をしていたすきまからあふれだした憂鬱は、見て見ぬふりをするには大きくなりすぎていた。
……きづかないほうがよかったのに。




