29. レイニーブルー
五月、王宮で行われた殿下のお誕生日会にアルトはエルフィと現れた。
わたしは主役の婚約者として責務があったからほとんど観察できなかったけど、難攻不落だった氷の貴公子と平民出身の編入生のうわさはいっしゅんで校内を駆けめぐった。
よろこぶべき展開だ。
わたしはまさにいまのこの状態をめざしていたはず。
なのに……どうして素直によろこべないんだろう。
五年前、弟に反抗期が到来したときはロキがとなりでちゃちゃを入れてくれた。
いろいろと思うところがないでもなかったけど。
わたしが平常心でいられたのはロキのおかげだったのだといまならわかる。
いま、わたしはひとりぼっちだった。
春なのになんだか肌寒くて、昼食もさっぱりすすまない。
食堂のすみっこで芽キャベツをつつきまわしていると、目のまえにトレイが置かれた。
今日はよく晴れていてテラスのベンチで食べている人も多いから、なかはそこそこ空いている。なのに。
こういうときにやってくるのはクラウスだな、と思いながら顔をあげると、まさかの殿下だった。しかもひとりだ。
「どうなさったのですか」
殿下は首をかしげた。質問の意図をはかりかねたらしい。
「護衛なら、最近はいつもいつも連れてるわけじゃないからな。おれもずいぶん強くなったんだぞ。校内くらいだったらひとりで歩ける」
「つまり以前は弱かったとおみとめになるのですね」
「口が減らないやつだな」
殿下は苦笑した。おとなになったなと思う。以前の殿下なら大音量で「おーまーえーはー」がふってきたはずだ。
「食べないのか?」
殿下はわたしのまえの皿を指してたずねた。白いプレートのうえで芽キャベツが惨殺され、切れはしが干からびはじめている。
「…………」
黙っていると肯定ととったらしく、殿下はわたしの皿からバラバラになった芽キャベツを取って食べはじめた。
距離感おかしくない?
わたしだって弟以外からかってに食べものを取ったりしないぞ。
完全になめられてるな。
「殿下って食べものの好き嫌いとかなさそうですよね」
「アルトを基準にしたらだれだってそうなるだろ。おれも苦手なものがないでもないが、ひとにきづかせない程度にはとりつくろえる」
「ちなみになにが苦手なのですか」
「答えたらおまえは食べさせようとするだろうが」
ひっかからなかったか。ちぇっ。
「おまえ、最近ちょっとおかしくないか」
とうとつに指摘されおもわず手がとまる。
深紅のまなざしがまっすぐにわたしをみつめている。
わたしは凝然とみつめかえした。
この人、こんなにも鋭かっただろうか。
「クラウスさまですか」
「ああ……」
殿下はハッとしたように手で口を覆った。こほん、と小さく咳払いしてから続ける。
「べつに監視させていたわけじゃないからな。クラウスはあくまでもおまえの友人としてようすがきになると言ってきたんだ」
それ、わざわざ口にするとかえってあやしいと思うんですけど。あの人わたしのこと友人ではないようにいってたはずだし。
「だいたいみんなおまえのこと無表情とかなんとかいうけど、案外わかるものだからな。こないだのパーティとか明らかにおかしかっただろう。他のやつらはきづいてないみたいだったけど」
鈍いことにかけては定評のある殿下に指摘されるとか……。末期だな。
「なにかあったのか」
わたしはすこし考えた。
殿下だけなら口八丁でまるめこむ自信があるが、背後にクラウスがいるのならへたな言いわけはしないほうがましだ。
嘘をつくときはちょっぴりの真実を混ぜること。
「ロキがいなくなったのです」
「ああ、あの黒い毛の……」
「猫です」
「知っている! おなじネタでひっぱるんじゃない!!」
あ、いつもの殿下だ。
「春休み中にいなくなったのか? それとも寮に戻ってから?」
「寮に戻ってからです」
実家に帰っているあいだにいなくなったことにしたほうが後々都合がいいだろうが、わたしがロキを連れて戻ってきたところはクラスの子にもみられている。
「クラスのやつらには訊いてみたのか? おまえの黒猫はめだつからな。なにしろあの赤い目だ。みたやつがいればおぼえてると思うぞ。なんだったらおれから訊いてやっても……」
「いいんです。ロキは自分の意思で出ていったんです」
「はあ?」
殿下はあきれた顔になった。
「猫を相手に意思がどうこういったってしかたないだろう。そりゃあ動物なんだから出ていきたくなるときもあるだろうが、そういう問題じゃない。おまえの猫なんだろ」
「ロキはわたくしの所有物ではありません。友達です」
「いいたいことはわからんでもないが、飼い主としてどうかと思うぞ、その態度は」
たしかにロキがふつうの猫なら無責任このうえない話だが、あいにくとロキは魔物である。
わたしにはロキを思い通りにする権利なんてないし、そうしたいわけでもない。
ただ淋しい。
それだけだった。
午後の授業が終わり、校舎を出ると空はいまにもふりだしそうな鉛色だった。
もう今日は寮に帰ろうかな。
そう思ったはずなのに、足は無意識のうちに図書館へと向かっていた。
習慣っておそろしい。
並木道の桜は散って葉桜になっていた。
季節はゆっくりうつろっていく。
いつもの自習室のいつもの席でいつもとおなじように宿題をひろげる。
わたしの生活はリズムがほとんど一定に決まっていて、はずれることはほとんどない。……なかった。はずだった。三月までは。
寮に帰ってもロキはいない。
それだけのことがこんなにもこたえる日が来るなんて。思ってもみなかった。
淡々とペンを走らせる。
よぶんな思考が削ぎおとされて、数式だけになっていく。
中高の数学は嫌いじゃない。
それはきっと、ちゃんと正解が用意してあるからだと思う。
ちなみに大学以降の数学は正解がないから好きじゃない。
集中できないままに片付けて図書館を出ると、そとはどしゃぶりの雨だった。
……最悪。
かさなんて持ってない。
だって、朝、「今日は持ってったほうがいいよ。ボクのヒゲがぴりぴりするからね」っていってくれる黒猫はいなかったんだもの。
……もう、いないんだもの。
どうしよう。
カウンターに戻って司書の先生に貸してもらえるか頼んでみたほうがいいのかな。寮はそこまで遠いわけじゃないけど、この降り方だと鞄のなかみがぶじでいられるかあやしい。
そのときだった。
目のまえをなにか黒っぽいかげがよぎった。
「ロキ!?」
考えるまもなく、わたしは鞄を放り出しどしゃぶりの雨のなかに飛び出していた。
「ロキ! ……待って、ロキ!!」
必死で走った。
鍛錬でもここまでほんきで走ることなんてなかったってくらい、必死で。
足もとで水が跳ねる。
うえからも水が降ってくる。
靴下はあっというまにびしょぬれになった。
制服もぬれたし、髪も、顔も、全身ずぶぬれの濡れねずみだった。
喉がいたい。
胸がいたい。
灼けつくような衝動にかられてわたしは冷えて感覚のなくなった手足を動かした。
講堂のまえで、かげは足を止めふりかえった。
やっとの思いで追いついた黒猫の瞳は……きれいに透きとおった青だった。
「ロキじゃない……」
身体からいっきに力がぬける。
わたしはそのまま地面にくずおれた。
大粒の雨がほおをたたく。
容赦なく体温を奪っていく。
それはいつかみたスチルと重なった。
ここで死んだら、またやりなおしになるのかな……。
目を閉じる直前、視界のはしっこに、よく知った白金色がみえたきがした。




