22. 初恋は実らない
ピアノの音で目が覚めた。
部屋のなかは真っ暗。
カーテンを開けてみると夜空に星がまたたいている。どうやらそろそろ深夜らしい。
昨夜はひさしぶりの社交に疲れはて、帰ってきてそのまましたくして寝てしまったんだった。
無意識にくちびるに指をのばし、触れてからきがついてすぐに離す。あれは事故。
わたしは夜着のうえから夏物のカーディガンをはおって階下におりた。
音楽室のドアを開けると殿下が一心不乱にピアノを弾いていた。淡々としたフレーズがくりかえされるごとに悲壮感をましていくものがなしいソナタ。できるだけ音を立てないようにドアを閉め、窓際の椅子に腰をおろす。
弾きおわったところで、殿下がようやく顔をあげた。
「……悪い、うるさかったか」
「ここは防音室ではないんです。このような粗末な屋敷にお招きしてもうしわけございません」
「わかった、おれが悪かった。頼むからその嫌みな口調をやめてくれ」
わたしはおとなしく口をつぐんだ。
今夜の殿下はやけにしおらしい。傷はそうとう深いらしい。まあ、そうなるだろうなと思ってはいたんだけど。
こんな深夜にピアノなんて非常識のきわみだが、ここは高級別荘地。となりの家とは距離がはなれているし、うちに滞在しているのはわたしたち姉弟と殿下だけだ。使用人たちにはもうしわけないけれど、殿下は殿下なのであきらめてもらおう。
ピアノの音がなくなると夜は息苦しいほどにしずかだった。
「ショパンがお好きなんですか」
「……あいつがな」
「そういえばそうでしたね」
嘘です。ふつうに憶えてます。だっておなじ先生に師事してるんだもの。ショパンはもとをたどれば先生のご趣味だ。
「というか、それくらいしか知らないんだ。おれがあいつとふたりきりで話すことなんてないから、姉上といっしょに演奏してるのをきくだけで。あいつがどんな本を読んでるかとか、なにを考えてるかとか、まったく知らなかった」
「ヘタレなんですね」
そうじゃないかとは思ってましたけどね。
行動力があるのかと思ったら、それを本人に向けることはできないみたいだし。わたしに監視をつけるくらいならもっとやることあると思う。
「なあ」
声をかけられてハッとした。くちびるから指が離れる。それではじめて、自分がまた無意識に触れてしまっていたことにきがついた。
あれは事故。事故だから。
自己暗示をくりかえす。殿下はきまずそうに視線を逸らした。
「忘れるのって、難しいよな」
「え?」
「嫌いになるのはけっこうかんたんなんだ。嫌いな理由をひとつひとつあげつらって、嫌いだ、嫌いだってくりかえす。そしたら嫌いになれる。だけど、忘れるのは難しい」
いま、なにかヒントをもらった気がする。けれどそれは雲みたいにかたちがなくて、ちゃんとつかまえるまえにゆらゆらと溶けて消えてしまった。嫌いになるのはかんたんだけど、忘れるのは難しい……。
忘れないと。
――――消さないと。
「すこし代わっていただけますか」
ピアノを目で示すと、殿下は驚いたようにつぶやいた。
「いいのか」
「ええ。なにかリクエストがありましたらどうぞ」
殿下が首を横にふったので、わたしはついさっき殿下が弾いたばかりの曲を選んだ。
オペラ『千年の孤独』から、第一幕終わり近くのメヌエットを。
この曲はおなじメロディをくりかえすことで、ヒロインが何度でも生まれかわり前世の恋人とめぐりあうことを表しているらしい。
どこかで聞いたような話だ。
緻密なメロディを正確かつ繊細に。
おなじ曲をおなじ速度でおなじ弾き方で、けれどより技巧を凝らし表現にはばをもたせて、殿下がほんとうならこう弾きたかったんだろうなと思われるように弾いた。
圧倒的な力量差をみせつけられたせいだろう。殿下ははっきりと傷ついた顔になった。
「おまえ、ほんとうに嫌みなやつだな」
「だって、わたくしのほうがうまいですから。ギゼラさまもそうおっしゃったのでしょう?」
「おーまーえーはー……っ」
いつものように大声で叫びかけ、殿下はハッとして口をつぐんだ。声をひそめてささやくように吐き捨てる。
「おまえなんか大っ嫌いだ」
「そうですね」
わたしは笑った。やっぱり殿下はこうでないと。
「覚えてろよ。いつか絶対におまえをギャフンといわせてやる」
「たのしみにしております」
くすくす笑いながら殿下が広げていた楽譜を片付け、ピアノの蓋を閉じる。
「もう遅いですから、明日からまたがんばってください」
「だから悪かったといっているだろう」
ぼやきながら、殿下はわたしに追い立てられるように部屋を出た。階段を上がったところでふと足を止める。
「どうかなさいましたか」
「いや、いまアルトの部屋のドアが開いていた気がして」
「……アルト?」
「ああ、どうかしたのか」
「いえ」
ええぇぇー。その愛称ってヒロイン限定じゃなかったの!? 姉のわたしだって呼んだことがないんですよ。ずるくない?
「まあ、ふつうに考えて音が気になったんでしょうね」
わざと冷たくいってみる。このくらいの意趣返しは許されるだろう。予想通り殿下は凹んだ。それはもうわかりやすく。
「うっ……。明日謝っておく」
「べつにいいですよ。最後に弾いたのはわたくしですし、わたくしから謝っておきますから」
それに弟はこのくらいの時間だったらいつも起きている。じゃまに思うことはあってもそこまで深刻な睡眠障害に悩まされたりしないだろう。
翌日、わたしは自分の見通しがあまかったことを知ることになる。
朝食を食べに降りると食堂にはわたしと殿下だけだった。めずらしいこともあるものだと思ってメイドにたずねてみると、弟は先に食べて出かけたという。
殿下とふたりして探しまわり、湖のほとりでやっとみつけた弟の反応は冷たいものだった。
「どうしたんですか。伝言はしてきたはずですけど」
「どうしたって……あなた、怪我をしてるのに」
左足を骨折しているうえ、つい昨日階段から転がり落ちたばかりだ。
「骨折のほうはもうほとんどいいんです。来週にはギプスがはずれます」
「来週には、でしょう。昨夜も足を引きずってたじゃないの」
返事はない。
黙って本に視線を落とす弟に殿下がいった。
「あー……ちょっといいか?」
反応はない。
「シュヴァルツヘルツ。おまえ、悪いけどクラウスと帰っててくれ。おれが話をしていくから」
「……はい?」
いまなんと?
「それでいいな?」
殿下はなぜか弟に向かって確認した。弟はうなずいた。
え、ちょっと待って……待って待って、おかしくない!?
こうして弟の反抗期がはじまった。
話しかけても「はい」か「いいえ」しか返ってこない、遊びに誘ってもそっけない、食べもので釣ろうとしてもいらないと拒否される。
ただでさえコミュ力の低いわたしには、どうしてこうなったのか、ここからどうしたらいいのか、さっぱりわからない。
思春期だし、殿下がいうように例のハプニングがよくなかったんだろうか。でも、あれは不可抗力だったし、ほかにどういう反応をしろと? わからない。
「よかったじゃん。ボクたちはまさにいまのこの状態をめざしてたわけだから」
冷たい反応でわたしを遠ざけたアルトゥールが裏庭で剣をふるっているのを開け放した窓から見下ろしながら、ロキは満足そうにうなずいた。
食べかけのいちごムースはわたしが弟を懐柔するために用意したものだ。
……拒否されたけど。
全力で突き返されたけど。この時期にいちごは貴重なんだぞ。ドライフルーツを戻したやつだけどさぁ。わたし、これ作るために今朝は早起きしたのに。むくわれなさすぎる。
「それはまあ、そうなんだけど」
どうしてこんなにもやもやするんだろう。
「わたしの努力はなんだったの」
「いま実ってるじゃないか」
「ロキ、あんたはいまの現実が本編に近づいてるのはわたしの努力のおかげだと思う?」
「全然」
「…………」
わたしは窓辺に立って裏庭で剣戟を交わす弟と殿下をながめた。よこからケヴィンがあれこれ指示を出しているようで、けっこう本格的な練習になっている。
足が治ったばかりの弟はからめ手であっさりと一本取ってしまったが、殿下はきぶんを害するようすもなくたのしそうに笑いあっている。いつのまにかずいぶん打ち解けたらしい。
「これ、ほんとうに『エルフリーデ』だったんだね」
「最初からそういってるじゃん」
「実はアニメ化してヒロイン不在の日常ものになってたり……」
「どこのダイナミックコ●ドだよ」
「……」
これは乙女ゲームでしたよね? BLゲームではなかったですよね?
わたしはこのところめっきり冷たくなってしまった顔をほころばせ殿下にタオルを差し出す弟と、それを素直に受け取る殿下とをみながら考えこんでしまった。
……どうしよう。目覚めてしまいそう。
「ちょっと、ゼラ。いまなに考えてたの?」
「アルトゥールと殿下って、おにあいよね」
メインヒーローとしてデザインされた正統派王子さまと、彼と対になるようにデザインされた氷の貴公子。
髪の色はおなじだし、顔立ちもどこかにかよったところがある。ほかの攻略対象はしっかり描き分けされていたから、あえてそういうキャラデザにしてあったんだろう。うちは十何代かさかのぼったら王家の血が入ってるらしいし、いちおう血のつながりもあるから。安い飲み屋の水割りレベルだけど。
「ゼラ、ゼラ、帰ってきて。その世界は危険すぎる」
「そう?」
「そうだよ! 腐りきって戻ってこられなくなっちゃうよ!!」
「わたし、常々思ってるんだけど、性根が腐りきってるのはわたしなんかよりロキのほう……」
「そういう『腐る』じゃないから! そっちの意味で『腐る』のはほんとしゃれにならないから!!」
ぐったりしたロキはからになったいちごムースの皿を舐めながらぼやいた。
「ねえゼラ、きみと組むのは疲れたよ。もう、いっそのことリセットにならないかな」
奇遇だね。わたしもいまちょうどおなじことを思ってたの。
お皿を返しに階下におりると、クラウスがお茶の準備をしているところだった。
「お疲れさまです。よろしければ、私が返却しておきましょうか?」
わたしの手元に気づいてたずねてくる。あいかわらずよく気がつく。
「ありがとうございます。でも、すぐそこですから」
そう答えると少し驚いた顔をされる。まあ、ふつうのご令嬢は厨房までお皿を返しに行ったりしないものだから。
ちなみにわたしが使用人を呼ばないのはロキと話しているところをみられたくないからだ。これまでの数々の失敗から学習した結果である。
「ゼラさまは働き者ですね」
「それをあなたがいうんですね」
わたしはワゴンの上に並べられたティーセットをみた。茶葉が二種類あるところをみると、ふたりの嗜好をちゃんと押さえて準備してあるらしい。それにこの別荘に滞在しているあいだにわたしの嗜好もだいたいは把握されてしまった。すごい。わたしは弟のしかおぼえてないし、おぼえるつもりもない。
「弟がご迷惑をおかけしていないといいのですが」
「とんでもない。殿下もお友達ができてたのしそうにしていらっしゃいます。とくに剣は、まともに相手をしてくださる方は貴重ですから」
そういえば、さっきも負かしていたんだった。
「ご気分を害されたりとかは」
「あの方は手加減をされるほうがお嫌いですから」
「そうなんですか」
中間試験の成績が殿下よりもほんの少し上だっただけで目の敵にされたことは記憶に新しい。
「実力で負ければたしかに不機嫌になられますが、手加減されて勝ったとなればお怒りはその比ではありません」
「苦労されていらっしゃるんですね」
クラウスは薄く笑った。
「そうでもないですよ。暴君っぽくふるまわれるのは防衛本能なんでしょう。何回か暗殺されかけてますし。一度信頼されるとふつうにおやさしい方です」
そういう視点はなかった。単純にめんどくさい人だと思ってた。
「そんな重大そうなこと、サラッと話していいんですか」
「あなたのことは信頼していらっしゃるようなので。いずれ上のほうからお話があるでしょう」
わたしは殿下の婚約者候補筆頭だ。
……嫌な予感しかしない。
「わたくし……もしかして、試されていたのですか?」
今回ここに来た経緯を思い出す。てっきりわがまま殿下の独断だと思ってたんだけど。そういえばうちの親も一枚噛んでるんだった。
クラウスは薄く笑った。
「だって、あの、ギゼラさまは……」
「それとこれとは別ですよ。ご自分の意思が通らないことには慣れていらっしゃいますし。ご自分の役割も理解されていますから、必要なことは必要なことしてこなされます」
クラウスの見解はわたしのとはだいぶ乖離してるけど、このところいっしょに過ごしていた感覚としては合っている。めんどくさいのはめんどくさいけど、殿下はそこまで理不尽な人でもない。
「他人を見る目はある方ですよ。ご存じのとおり、私はほんらい殿下のおそばに置いていただけるような家の出ではありませんから」
「あなたが優秀なのはだれがみてもわかると思いますけど」
クラウスは謙遜するでもなく淡々と返した。
「それでは、あなたもおなじように選ばれたのでしょう」




