21. 初恋は実らない
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「……お、お、おまえなんか嫌いだああぁぁーー!!」
おれは手で顔を覆うとアルトゥールに突進した。彼はとまどいながらもおれの肩を抱きなぐさめてくれる。
しばらくして彼が口を開いた。
「俺は殿下についています。先にホールに戻っていてください」
「え、だってあなた足を怪我してるしたったいま階段から落ちて……」
ゼラフィーネ・シュヴァルツヘルツは困惑しているようだった。無理もない。おれが知る限り、アルトゥールがこの姉に逆らうことなんてなかったのだから。
「というか、さっきわたくしを追いかけてきたのはなんだったの? なにか用事があったんでしょう?」
「もういいです。いいから戻っていてください」
アルトゥールはいつになく強い口調でいうと、ほんとうに姉を追い払ってしまった。
その顔は氷のように冷淡で。だからこそわかってしまった。おれは触れてはいけない部分に触れてしまったのだ、と。
夜の庭園は涼しかった。
ところどころに篝火が焚かれ、宵闇のなかに白い薔薇やうつくしい装飾の噴水がぼんやりと浮かびあがっている。噴水の水音に混じり、楽団の演奏と歓談する声が聞こえてくる。ホールの喧騒はやけに遠い。
「お見苦しいところをおみせしました。もうしわけありません」
「いや、それはべつにかまわないんだが」
それをいうならおれのほうが百倍見苦しい。この年齢にもなって「おまえなんか嫌いだ」ってなんだ。こどもじゃないんだぞ。
「……姉は半分しか血のつながっていない俺のことをちゃんと弟だと思ってくれているんです。それは厚意であって、俺はそのことをとても光栄に思っています」
「悪かった」
おれは素直に謝った。これはとてもデリケートな問題で、触れてしまったおれのほうに非がある。
「……よろしければお使いください」
ハンカチを差し出され、おれはようやく自分が泣いていたことを思い出した。
ああ、そうだ。さっき……。
ひとつ思い出すと連鎖で記憶がつぎつぎに押し寄せてくる。津波のような激情に押し流され、おれはひとしきり泣いた。泣きながら話した。はじめてギゼラに会ったときのこと、ピアノを聴かせてもらったときのこと、好きだと気がついたときのこと……止まらなかった。粉々に砕けた思い出が涙になって溶けて流れおちていく。
そのぜんぶを、アルトゥールは黙って聞いていてくれた。
かなりの時間をかけて話し終えたときには、ホールの喧騒もすっかり下火になっていた。そろそろお開きの時間も近いだろう。
「…………」
「…………」
会話が途切れる。
それをしおにして帰ってもよかったわけなのだが。
「……その、なかがいいんだな、おまえら」
迷いに迷ったが、結局は好奇心に負けてしまった。
アルトゥールは微妙な表情をした。
「姉上はおやさしいので」
一見答えになっているようで、ちがう含みをもたせたあいまいな回答。
それから意を決したようにぽつりぽつり話しはじめる。
「昨年の春、父に引き取られて、そのときはじめて姉上にお会いしました。それまでは自分に姉がいることも知らなかった……って、わけでもないんですけど。実感がなかったし。まさかお会いする機会があるとは思ってもみなかったので。知らなかったのとほとんどおなじですね」
「まあ、そうだろうな」
こいつの母は妾だったわけだから。
「姉上は俺に自分を姉と呼ぶようにおっしゃって、剣を教えてくれたり、勉強をみてくれたりしました。……厳しかったですよ。家庭教師の先生方よりもはるかに厳しかったと思います」
「おやさしいのか? それ」
よくふたりでいるからてっきりほほえましいエピソードが出てくるのかと思いきや、どんどん雲行きが怪しくなっていく。
「ノートのまちがってるところをめちゃくちゃ細かく赤で直されたり、一問まちがえるごとに宿題が一ページ追加されたり、剣の稽古をしていて倒れるまでしごかれたこともあります」
「……ちょっと待て」
「机に落書きされたり、苦手な食べものを口に詰めこまれたり」
「いじめられてないか、おい」
「そうかもしれません」
彼はさらりといった。
「でも、裏を返せばそんなものだったんですよね。母と暮らしていたころに近所のやつらにされたことって、とてもじゃないけどあんなもんじゃなかったですから」
抑揚のない口調に背筋がひやりとする。アルトゥールの瞳はこれといった感情もなく静かだった。穏やかにすら感じられた。胸のおくがざわざわする。こいつはこんなやつだっただろうか。
そして気づく。おれはこれまでこいつのことなんてほとんど知らなかったし、他のやつのことだってほとんど知らないんだ、と。
ゴツゴツした岩のすきまからわずかに顔を出したサファイアの原石をのぞきこんでいるようだった。
「あいつらとちがって、姉上には俺のことを恨む正当な理由があるはずなのに。おやさしいからちょっとした嫌がらせ程度のことしか思いつかないし、できないんですよね。それで、いつも最後は俺のことを庇ってくれるんです。……あのときみたいに」
彼のいう『あのとき』におれは心当たりがあった。それはもう、存分に。弟のかわりに試合に出てきたあいつはおれを完膚なきまでに叩きのめし、まっすぐ弟のところに行ったのだ。
「俺たちがなかがいいんじゃないですよ。姉上がおやさしいんです。俺はそれを利用してるだけです」
淡々とまとめて、アルトゥールは杖を取り立ち上がった。
もう少し深くつっこんでみたい気もしたが、こいつの性格からしてこれ以上は問い詰めたって吐かないだろう。むしろ今後に差し障る。おれはおとなしく引き下がった。
夜空を見上げると星が一面に散らばっていた。
王都を離れると天体はこんなにも明るいのだと、おれははじめて知った。
バーデン侯爵の別荘に戻るとあいつは既に床に就いていた。
護衛にアルトゥールを部屋まで送るよう頼み、客室のベッドに寝転がったおれはおれが脱ぎ散らかした服を片付けている側近にたずねた。
「……なあ、クラウス」
「なんですか」
「実らないほうがいい恋の相手って、どんな相手だ」
アルトゥールとあいつの話をしたせいで、おれは数日前のあいつとの会話を思い出していた。あいつはたしか、婚約するならできるだけ自分の趣味にあわない相手がいいといったんだ。
クラウスは服をたたむ手を止めずにすらすらと淀みなく答えた。
「身分違いか、すでに決まった相手がいる場合でしょう。恋人がいる、婚約者がいる、なんなら妻子がいる……本人がまじめな性格なら、友人の想い人なんかも含まれます。あとは政敵とか、異教徒とか。最近の小説だと同性どうしなんかも人気です」
「……やけに詳しいな」
「女の子となかよくなろうと思ったら流行りの雑誌や小説くらいは読んでおかないと。親しくなっておけと命じたのはあなたでしょう」
そういえばそうだった。完全に忘れていた。
「あいつ、そんなものを読んでるのか」
おれが意外に思っていると、クラウスはなぜか冷めた目でみた。
「ゼラさまでしたら恋愛小説には興味がないようですよ。これはクラスの女子の対策用です」
そういえばそっちも頼んでいた。忘れてた……といったら怒るだろうな。怒って噴火するならまだましなほうで、こいつは黙って恨みを蓄積させていくタイプだから性質が悪い。
「つまり、いまのはゼラさまのお話なんですね」
「……まあ、そうだな」
おれがうなずくと、クラウスはたたみ終わった服をしまいながら淡々といった。
「深入りしないほうがいいと思いますよ。あの方があなたの手に負えるとはとても思えません」
「そういうつもりで言ったんじゃない。だれがあんなやつ好きになるか」
ゼラフィーネ・シュヴァルツヘルツにはかわいげというものがかけらもない。
アルトゥールと話したせいで思い出したのだ。ついさっきまで忘れていた。正直それどころじゃなかったし……って、それはもう終わったことにしようと決めたんだった。
「こういうことは最初に忠告さしあげたほうがお互いの時間をむだにせずに済むかと。今日のことで十分痛い目をみられたかと思っていたんですが」
「おーまーえー……おれがせっかく考えないようにしてたことをっ!!」
彼に聞いてもらったことで落ち着いていた感情がみるみる曇りはじめる。
「ああ、やっぱり意識的に考えないようにしていらしたんですね」
怪しくなる空模様にクラウスがためいきをついた。
「飲みものを用意してきます。なにかリクエストはありますか?」
「……ホットミルク」
「はちみつも入れたほうがいいですか?」
「…………うん」
「かしこまりました」
足音が階段を降りていく。
目を閉じると涸れたとばかり思っていた涙がまたあふれた。
今夜は長くなりそうだった。




