13. 武闘会の後日談
殿下に呼び出されたのは週末のことだった。
土曜日の午後。
カフェテリアは部活やサークルの集まりで使う子たちもいてそこそこ混雑しているが、わたしと殿下の半径十メートルは結界でもはられているかのようにエアポケットになっている。
わたしは目のまえに置かれた紅茶とケーキのセットをじっとみつめた。
オレンジにグループフルーツ、レモンと柑橘類があしらわれたケーキは校内で出てくるものとも思えないクオリティ。シトラスの香りにちょっぴりのミントが混じってさわやかな初夏を演出している。紅茶も弟がきにいっているアッサムだ。
せっかくのすばらしいティータイムなのに……どうしてわたしのまえにいるのはかわいい弟じゃないんだろう。
いや、この際ただのクラスメイトでも通行人Aでもかまわない。
どうしてわたしは俺様殿下とお茶なんかしばいてるんだろう。
解せぬ……。
「その……なんだ。このまえは悪かったな」
殿下はわたしの目を見ずに切り出した。
わたしは顔をあげて殿下を視た。
赤い瞳がそらされる。
「お心にもないことをおっしゃるのはおやめください。かえって失礼かと存じます」
「おーまーえーはああぁぁ……っ」
なにか叫ぼうとしたらしい殿下は、それでも理性を総動員して押さえこんだ。
少しは成長したらしい。
「マルガレーテ殿下ですか? それとも……ギゼラさまですか?」
図星だったらしい。
殿下は愛憎入り混じった顔でくちびるをきつく噛みこぶしを握りしめた。赤くなった目元にはうっすらと涙が滲んでいる。
これは相当締められたようだ。
「おまえ、ほんとうにあいつに気に入られてるんだな……」
死んだ魚の目をしてる殿下にはもうしわけないけど、わたしとギゼラさまはもともとそこまで親しいわけではない。
父親同士はそれなりに交流があるはずだけど、わたしたちは五歳もちがうのでおなじ先生に師事しているという以上の接点はなかったのだ。入学後になにかとよくしていただいているのはたんに学級委員でいっしょになったから。
つまり、殿下がギッチギチに締めあげられたのはギゼラさまが殿下の日頃の行いをよく思われていらっしゃらなかったからであって、断じてわたしのせいではない。
これは重要なことだから二度いっておく。
断じてわたしのせいではないのだ。
「ご心配なさらずとも、わたくしは殿下の数々の失礼な発言をいちいちギゼラさまに言いつけたりはいたしません。そこまでひまでもありませんし」
「……調子にのるんじゃない」
「事実を端的に申し上げただけです。いまの発言からして典型的な悪役のせりふですし、殿下はもう少し語彙を増やされたほうがよろしいかと」
「……不敬罪だぞ」
「僭越ながら、そのようなところがギゼラさまのお気に召さないのではないでしょうか」
「…………」
殿下はテーブルに突っ伏した。
クリティカルヒットだったらしい。
大したこと言ってないのに……それくらい自分でわかれよってレベルのことしか言ってないのに……。
俺様殿下はギゼラさまのことになるとスライム並みに打たれ弱くなるらしい。
わたしは燃え尽きて灰となった殿下をながめながら優雅にお茶を飲んだ。
BGMはサティ『ジムノペティ』だ。
ケーキはおいしかった。
クリームのあまさにレモンの酸っぱさとグレープフルーツのほのかな苦みが合わさってアクセントになっている。
殿下とふたりきりなんて食欲も失せると思っていたはずなのに、気がつけばペロリと食べ終えてしまっていた。
殿下よりさきに席を立つわけにもいかずお茶のおかわりを頼もうか迷っていると、おもむろに殿下が口を開いた。
「……悪かった、と、思ってはいるんだ。…………謝罪する」
ありえないくらい殊勝な発言にわたしは殿下を二度見した。
ひたいがテーブルにつくくらい深く頭を下げている。
……!?
ほんとうに、ギゼラさまはこの人になにをおっしゃったんだろう……。
ちょっと怖いんですけど。
「それは謝罪をするという宣言であって謝罪のことばではありません」
「だから悪かったと言ってるだろう! おまえはほんっとうに嫌なやつだな!!」
反省モードは一瞬で終了した。
拳をふりまわしわめく殿下の大声に離れたテーブルに座っていた生徒たちがそそくさと席を立ちはじめる。
わたしはちょっと安心した。
よかった。いつもの殿下だ。雪でも降るのかと思った。
ほっとするわたしに向かって殿下は宣った。
「おまえ、そういう顔もできるんだな」
「……?」
「ふつうにみえる」
…………殴っていいかな?
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土曜日の午後。
カフェテリアはそこそこ混雑していたが、おれとゼラフィーネ・シュヴァルツヘルツの半径十メートルは結界でもはられているかのようにエアポケットになっている。
おれは目のまえに置かれた紅茶とケーキのセットをじっとみつめた。
オレンジにグレープフルーツ、レモンと柑橘類があしらわれたケーキは校内で出てくるものとしてはまあ食べられなくもないクオリティ。シトラスの香りにちょっぴりのミントが混じってわざとらしいくらい夏を主張している。紅茶は知り合いがこのところはまっているフレーバーティーだ。
せっかくのティータイムなのに……なぜおれのまえにいるのはこいつなんだろう。
ゼラフィーネ・シュヴァルツヘルツの存在を認識したのは十一歳のときだ。
クラウスの話ではそのまえの誕生日会にもまえのまえの誕生日会にも出席していたそうだが、記憶にない。
ついでにいえばほかの令嬢たちの顔も名前も記憶になかったりする。まあいい。
十一歳のとき、たまたまギゼラのピアノを聞く機会があった。
ギゼラは姉という名の暴君マルガレーテの親友だ。
小麦色の髪に榛色の瞳をした見た目だけならかわいらしい女だ。
中身は良くも悪くもあの姉の親友だなといったかんじ。
おれが姉に押しつけられた本を返しに行ったとき、姉はギゼラとピアノを弾いていた。
定番中の定番、ショパンのポロネーズ。
素直に「うまいな」と思った。
……正確には「うまくなった」か。
ギゼラがピアノの名手だと姉の取り巻きの男たちのあいだで話題になっているのは知っていたが、実際に聞くのはひさしぶりだった。
前回聞いたときは鍵盤のうえでカエルが跳びはねているような音だったのに。
感想をたずねられたので正直に思ったことを述べた。
うっかり口が滑って余計なことまでしゃべってしまったがギゼラは怒らなかった。
それどころか「そうよね、あれはわれながらひどかったわね」と笑ってくれた。
こういうところがギゼラと姉のちがいだ。少しは見習えばいいのに。
それから、ギゼラはにこやかな笑顔で席を立っておれに示した。
「それじゃ、わたくしもジークさまがどれだけ上達したのか聞いてみたいわ」
あの演奏のあとで弾くのは気が引けたが、先に聞かせてもらったのだからここで弾かないのもかんじが悪いだろう。
五歳年上のギゼラほどではなくても、ピアノはそれなりにうまいほうだと自信がある。十一歳としては十分なレベルのはず。なんならいちばんうまいはずだ。
弾き終えるとギゼラは惜しみない拍手をくれた。
そして言った。
「すごいわね。その年齢でそれだけ弾けるなんて。ゼラの次くらいにうまいわ」
「……ゼラ?」
「ゼラフィーネ・シュヴァルツヘルツ。バーデン侯爵のお嬢さまね。おなじ先生に師事してるから何度かいっしょに練習させてもらったんだけど、なんていうか、次元がちがうの。ほんとうに十一歳なのかなって思うくらい……ジークさま?」
ギゼラが帰ってすぐ、おれはその名前を日記帳に刻んだ。
その日からおれの目標は打倒シュヴァルツヘルツになった。
十二歳の誕生日、おれは因縁のゼラフィーネ・シュヴァルツヘルツと対面することになった。
正確には五回目らしいが(勤勉な侍従が数えていた。やつはわざわざ招待客リストに参加回数と優先順位を記して寄こしたのだ)、おれにとっては初回である。
第一印象は重要なものだ。
おれは下に見られることがないよう入念にピアノの練習をして臨んだ。
「あんたが練習してどうするのよ」と姉には呆れられたが、これは負けることのできない闘いなのだ。
そうして対面した積年の宿敵は……足元に黒猫を連れていた。
「……おまえの足元にいるそれはなんだ」
たずねると、あいつは顔色ひとつ変えず淡々と答えた。
「猫という生きものでございます」
「そんなことは知っているっ!!」
おれは叫んだ。
あいつはやっぱり顔色ひとつ変えなかった。
どうやら冗談のつもりではなかったらしい。
真顔で続けた。
「食肉目ネコ科ネコ属に属する愛玩動物で、品種についておたずねでしたらノルウェージャンフォレストです」
「……よくわかった、もういい」
「はい。それでは失礼いたします」
淡々と礼を取って踵を返し、あいつはほんとうにそのまま去っていった。
愕然とした。
なんなんだあいつは……。
常識というものがまるで通じない。
その超然とした姿に、おれは得体の知れない恐怖に襲われた。
そのあとに行われた『王太子殿下のお誕生日に音楽の贈りものを』などというふざけた企画であいつはぶっちぎりの一位に輝いた。
建前上点数も順位もつけられなかったし、だれひとりとしてそこに言及する者はいなかったが、あいつの優勝だったのはその場にいた全員がわかっただろう。おれなんか足元にも及ばなかった。試してみるまでもない。
姉とギゼラは選考対象外としても、あいつより二つ三つ上だったりほかの楽器を習わずにひとつだけに集中していたりするやつは何人もいたはずだ。それなのにあいつは文句のつけようのないヴァイオリンを披露したうえであのピアノを弾いてみせたのだ。
無性にイライラしてステージから目を逸らしたおれは、よりにもよってあいつが連れていた黒猫と目があった。
黒猫は深紅の瞳でおれをじっとみつめていた。
みじろぎもせず、まっすぐに。
なんなんだほんとうに……。
名状しがたい感覚に囚われる。
自分が築きあげてきたものが足元から崩れ落ちていく恐怖。正体のみえない不安。それでいてあいつはおれのことなんて毛ほども気にしていないという苛立ち。
確実なのは、おれにとってゼラフィーネ・シュヴァルツヘルツは厄災だということ、それだけだった。




