第十一話 狭間に
イリスが目覚めると、小さな洞穴の中にいた。
状況を呑み込めずにしばらく考えこんで、やっと繋がる。ラルバによって気絶させられ、誘拐されたのだと。
自分の他には誰もいないが、持ち物が奪われた形跡はないようだった。拘束もされていないし、大した傷もない。
砂埃を払って、おもむろにイリスは立ち上がる。
とりあえず、逃げなきゃ。お姉様もフォルテもきっと今頃血眼になって捜しているに違いない。ラルバの事は後で考えよう。
いつのまにか外はすっかり明るくなっていた。雨が降っているようで、森に降り注ぐ水の音が洞穴内にこだましている。
イリスがフードを目深に被って外に出ようとした、そのとき。
「外に出るな」
突如通せんぼをするように現れたのは────他でもないラルバだった。
「ラルバさん……!! 一体これはどういうつもりですか」
「待って、違うんだ! オレはイリスを助けたかったんだよ」
「何がどう違うんです? こんな事して、何が助けたいですか! フォルテとお姉様は?」
噛みつく勢いのイリスに、慌ててラルバが「しーっ」と口元に人差し指をあてる。それでも無視して突き進もうとする彼女を無理矢理引き止めた。
「お前を匿ってる事を兄貴に知られたら、オレもお前もヤバいんだよ」
「私が狙われてるんですか? あのジェイドという人に?」
黙って頷くラルバはとても悲しげだった。
「何故あのとき私の事を言っちゃったんですか……」
「昔からちょっと警戒心が強くてひねくれてたけど、でも良い人だったんだ。でも、もう別人みたいで……兄貴……イリスだけ攫って後は皆殺せって……たしかに昔から人嫌いだったけど、こんな奴じゃなかった……!」
途切れ途切れで要領を得ていなかったが、これで腑に落ちた。
昨夜彼の手が小刻みに震えていたのは、ジェイドに怯えていたのだと。彼はきっと脅されていたのだ。慕っていたはずの人間に。
「差し支えなければ、詳しく話してくれますか」
「悪いけど無理。時間がないんだ」
「……時間?」
「……オレがイリスを連れ去った後……兄貴は別行動でフォルテとイデアさんを襲ったらしいんだ」
「嘘……無事なんですか?!」
「それが、兄貴からはそれしか聞いてなくて。だから今捜してるんだ。でも、イリスはここで隠れてて欲しい。それだけを言いに来た────大丈夫、二人共多分生きてるよ」
きっと、ずっと森を捜し回っていたのだろう。一晩ですっかり疲れきっている様子だった。マントや赤みがかった髪から絶えず滴り落ちる雫が、渇いた洞穴の地に水たまりを作っていく。
「じゃあな。すぐ終わらせてみせるから待ってろよ」
そう言い残し、ラルバはまた薄靄の中に消えて行こうとする。
まただ、とイリスは彼を見つめながら思っていた。
自分のせいで、何度罪の無い人間を巻き込んだことか。目の前にいるラルバだって、決して例外ではない。しかも結果としてイリスは何もしていないのだ。わけもわからぬまま何者かに勝手に狙われ、そして勝手に何者かに守られるのみ。
────もう、そんなのごめんだ!
思わず彼女は声を張り上げて叫ぶ。
「嫌だっ!!」
「ふぇ!?」
雷鳴の如く雨音を引き裂いたその叫びに、ラルバは間抜けな声をあげて飛び上がった。
「い、今なんて言った」
「こんなところで何もせずに引っ込んでるのは嫌って言ったんです! 私も一緒に行かせてください!」
「でも、だって、お前にもしもの事があったら、オレ守れる自信ないし……」
こんな事言われると想像もしていなかったのだろう。目を左右に泳がせながらしどろもどろと呟く。
イリスは更にラルバに詰め寄り、目を不気味に光らせる。
「守れる自信がない? じゃあ、こう言い換えましょうか。私は、証拠がないのであなたが嘘をついている可能性を否定できません。あなたの自作自演だってこともありえるんです。だから私があなたの見張りです。守るとか守らないとか、そんなの関係ありませんよ」
呆気にとられたように、ラルバが目を丸くしてイリスを見つめた。
「お前……大人しそうな見た目してるくせに時々怖いよ」
「そうでしょうか?」
「でも、ごめん。これはオレの問題だからさ……」
何も言い返す事ができなかった。
彼女達の目から見れば、殺そうとしてきたジェイドはただの悪者だ。しかし、ラルバにとっては兄貴と呼ぶ程慕っていた人間だったのだ。善悪だけで決められる程、人の心は簡単じゃない。
「イリス……お前らを巻き込んでごめん」
駆け出した彼はもう、振り返る事はなかった。
*
木から木へ伝いながら、ラルバは二人を捜している。だが、心は未だに揺れ動いていた。
最初から答えが決まっていたのなら、イリスをあんな乱暴に連れ去る事もしなかったし、ジェイドに見つからぬよう洞穴に匿う事もしなかっただろう。
ジェイドとイリス達の狭間を、ふらふらとコウモリのように漂っている。
イリスには二人を捜すと伝え、ジェイドには逃がしてしまったイリスを捜すと伝えた。
どっちかを裏切るしかないのか? オレはどうしたら……?
イデア達を殺そうとするのは、兄貴といえども見過ごすわけにはいかない。
とはいえ兄貴は疑心暗鬼の中で自分だけは信じてくれた。それを簡単に裏切るわけにもいかない。
と、むせ返るような異臭が俄に漂ってきた。
「うっ、ん……?」
なんの臭いか知っている。血と腐肉が混ざった臭いだ。森で時々死んだ鹿なんかが発していた……
マントで鼻を塞ぎながら下に降りてみると、そこで目を剥いたまま言葉を失ってしまう。
そこには、狼達の無残な死骸が転がっていた。どの身体にも蛆が湧き、狼の濁った目玉は憎悪に見開かれたまま。草木にも黒い返り血が染み付き、そこで起きた惨劇を物語っている。
よく見ると、ところどころに見慣れた黄色い砂が泥になって固まっているのが見えた。ここら辺にそういう砂はない。ということは。
「フォルテの奴、狼に襲われたんだ……!」
フォルテはたしかにこの場所にいたのだ。血痕や足跡を残していたのかもしれないが、全て雨が流し去ってしまった。
仕方ないからまた木によじ登って、適当な方向へ進むことにする。上からの方が見渡せると思ったからだ。太くて丈夫そうな枝から枝へ伝っていたのだが……
「!」
枝に右足を乗せた瞬間滑った。右足だけ宙に放り出され、自身もバランスを崩して落ちていく。しかも真下には大きな穴が口を開き、幾つもの血まみれた矢が落ちてくる者を待ち構えている。
「……! わ────っ!!」
夢中で身を捩らせ、ぎりぎり穴を回避して柔らかい地面に着地した。
危うく、串刺しになるところだった……!!
まだ動悸が止まらない。穴を見下ろせば、尚更。
これはジェイドの仕掛けた罠だ。あの枝には滑りやすいように大量の泥が塗られていたのだ。
ジェイドは山賊だ。数年に渡り、主に薬草目当てに森に訪れた商人を標的に襲って殺害、持ち物を奪って生きていた。しかし、それ以外の狩猟手段として彼は自分の家の周辺に得意の罠を張っていたのだ。
『家の近くはあちこちに罠を仕掛けてある。イリスを捜すのはいいけど、大体死ぬやつだからうっかり罠にかからないように気をつけろよ! はっはっは!』
ジェイドの家で彼と別れる前に言われた言葉。
ヤバい、と思わずラルバは顔を上げた。迂闊に歩いてはいけないのに、勝手に足が走り始める。想像以上にあの二人は危険な状況にあったのだ。
雨脚は強まり、周囲のあらゆる気配をかき消していく。
今頃、イリスはどうしているんだろう? アイツはよく考えれば、村にいたときでも脱走常習犯だ。あまり遅いと一人で捜し始めるに違いない。ああ見えて怖いもの知らずな奴だから────
「ラルバ、それ以上動くなよ」
「!」
振り返ると、ジェイドがいた。薄靄の中、真新しい短剣が彼の右手で鋭い輝きを放つ。
「兄貴……いつの間に」
一体いつからつけてきていたんだ? まさか……ずっと?
体温がみるみるうちに奪われていく。彼は怯えを隠しきれなかった。全身が震えて、思わず一歩後ずさってしまう。
「だから動くなっつってんだろうがドアホ!!!」
「え?」
ラルバが無意識に踏みつけていた細いロープが切れた。と、その刹那、木に吊り下がっていた斧がラルバ目掛けて落ちてくる。
「……!」
「ラルバ────」
ジェイドのその叫びがやたら遅く感じた。
世界から色彩が失われ、斧が残像を残しながらゆっくり迫ってくる。斧を払いのけようとした腕が虚空を切った、そのときだった。
ふいに世界に色が戻り、時もいつもどおりに流れ出した。気づけば斧は真横の木に深々と突き刺さっていた。
「お前今……何をした? 斧が一人でに吹っ飛んでったぞ?」
「いや? 何も……」
そういえば、以前にも同じような事が起こったのを思い出す。腕で自分を庇っただけなのに、襲いかかってきたミカエラが飛んでいった現象を。
「ラルバの力って、怪力だったよな?」
頷くと「……ふうん、変なの」とだけジェイドは言った。
「そういえば、どうかしたんですか?」
「決まってんだろ。イリスは見つけたのか?」
どきりとした。
「それが、どこかに隠れてるみたいで全く見つからないんですよ」
また脅されるかと、作り笑いを浮かべながら身構えていた。しかし、彼は「そうか」と薄く笑うだけだ。
「……じゃあイリスは後だ。ちょっと来いよ」
「……何ですか」
「面白いものを見せてやるよ」
嘘がバレたわけではなさそうだ……が、その《面白いもの》が嫌な予感しかしなかった。
*
対面したとき、お互いの表情に妙な緊張が走った。
「兄貴……!」
「滑稽だろ? さっき生け捕りにしたんだ」
太い枝に、イデアがロープで宙吊りにされていた。野ざらしの彼女を、雨が容赦なく打ち付けている。
「オレ達が来る前に熊が来なくてよかったな」
ジェイドは彼女を嘲るように笑う。
「ええ、本当に。で、私をどうするつもり? ラルバ君まで連れて」
ラルバは目を合わせる事ができなかった。イデアが今、どのような表情で自分を見つめているのか知りたくもなかった。
きっと、オレに失望しているんだろうな……
「ああそうそう。コイツに忠誠の証に、お前の止めを刺してもらおうと思ってな」
「でも、ラルバ君顔色悪いわ。あまり乗り気じゃないみたいよ……貴方が彼を脅しているだけなんじゃないの? 指名手配中の殺人鬼さん」
そう、ジェイドは今やただの鬼でしかない。
鬼は高笑いした。
「そうさ! 今のオレは所詮殺人鬼さ」
「そこまでは薄々わかってたけど、まさか弟分の仲間である私達にまで手を出してくるとはね……」
「だがな、ラルバはオレが殺人鬼だと知った上で言ったんだぜ。何があっても自分はオレの味方だってな!」
「……本当に? ラルバ君」
無言で頷く。こんなはずじゃなかったのに。
殺人なんて、他人事だと思っていた。殺された赤の他人なんかより堕ちてしまったジェイドの方が大切だったから、何も感じなかっただけだった。大切な人にまで矛先が向くなんて思ってもいなかったんだ────
「ねえこっちを見て! 最初から誘拐目的でイリスを連れ出したの? 狼に私達を襲わせたのも計算なの?」
「ごめん」
ただ謝るしかできなかった。イデアは無言のまま。
勝ち誇った表情でジェイドがラルバの左手に短剣を握らせる。
「じゃ、そういう事だ。そいつから殺れ」
「まっ……待って! その前に教えて。イリスは今どこにいるの?!」
ふっと閃いた。
……どうなるかわからないけれど、その場しのぎにはなるかもしれない。
彼女は軽蔑するような目でも怒っている風でもなかった。ただただ、絶句しているようだ。ラルバは、形だけ短剣を構えて彼女に近づく。
「イデアさん、フォルテは無事?」
少し黙った後、彼女は答えた。
「正直……駄目かもしれない」
「えっ?」
ラルバが振り返ってもジェイドは語ろうとはしない。口角を歪めて様子を見ているだけだ。
想定外だった。
まずい、フォルテが生きてなきゃ話にならない。でもあんな奴が死ぬなんて、果たしてありえるのか?
「なんで、どうして」
「罠にかかったの……」
怒り狂った狼達を前に、基本的にフォルテ一人で戦ってくれたのだという。その辺りかららしい、彼の様子がおかしくなったのは。
雨が降り始めた深夜、やむなく狼達を全滅させた彼らはイリスとラルバを捜していた。その途中でフォルテの足取りが重くなり、ふらつきはじめたのだ。
「あの時、私は負傷したかと思ってフォルテを治療しようとしたの。でも、治療どころか休憩すら拒否された。時間がないって」
その上、彼らがいた場所は丁度ジェイドが罠を張り巡らせていた、いわゆる縄張り内だったのだ。
地面ぎりぎりに張られたロープが切れたら武器が落ちてくる罠は、なんなく回避した。
しかし、ロープを越えた直後────まるでその道を選んだ事自体が間違いだったかのように、足元が崩れ落ちた。
口を開けた深い奈落のような落とし穴が二人を呑み込もうとした刹那、すかさずフォルテが彼女を突き飛ばしたのだった。
「彼は一人で落ちていった。名前を呼んでも、返事は返ってこなかった……」
朝になる頃には彼らは罠にかかっていたということだ。やっぱり遅かった、とラルバはジェイドには気づかれぬよう小さく舌打ちする。
「……ラルバ君?」
「でも、落ちただけでまだ死んだとは限らないです……よね?」
ラルバはジェイドの方を振り向いて尋ねた。
「さあな? 自分の目でたしかめなきゃ信じられないか? それとも────仲間が死んだって事実を信じたくないとか?」
一瞬、心臓を鷲掴みにされたような錯覚に陥る。ジェイドは、疑惑の視線をこちらに向けていた。
「いや、その……アイツは、結構しぶといって感じ、だったから……」
「そうか。じゃあ、先にそのフォルテって奴の死体を見に行こうじゃないか」
「……はい」
空を覆い隠した灰色の暗い雲が、今にも落ちてきそうな程近づいている。
オレは何やってんだろう、そう密かに思った。
兄貴を裏切りたくもない、かといってイリス達を見殺しにもしたくなかったのに、迷ってる間に取り返しのつかない事になってしまった。
どうすればいいんだろう? どうすれば……?
馬鹿な頭じゃ考えたところで何も思いつくはずもなかった。




