第9話 暗闇でもがく手
「ちょっと、またアルバイトを辞めたの?」
今回は頑張った。本当に頑張ったのだ。それでもダメだった。
母は目ざとく職場から送られてきた封筒を見つけた。
千花は俯いて黙っていた。
はあという溜め息が全身を針のように刺す。
「千花はいつも寝ているのにどうしてこれくらいできないの? 世間の二十五歳はもっと働いてるか、そろそろ結婚して子供を育ててるわ」
(あんたたちのせいじゃないか)
「あんた世間からなんて言われてるか知ってる? 北川の娘はいい歳して引きこもりだって」
(私だって、毎晩よく眠れて、ちゃんと食べれていたら)
「千花のせいで……」
「……るさい」
「は?」
「うるさい、うるさい! 全部、あんたたちのせいじゃないか!」
「親に向かってなんて口をきくの!」
千花はカバンを掴むと母を突き飛ばして外に飛び出した。
外は秋になっていて風が冷たい。冷たさを切り裂くように走っていく。
どこを目指していたわけじゃない。
それでもこの街にはいく場所は少ない。気がつけば駅の改札口に来ていた。
(どこへ行けばいいの? 東京?)
千花は改札から離れて、銀行へ向かった。
こっそりアルバイト代を貯めていた銀行で全額を下ろす。
また駅に来て、Y市に向かう電車に乗った。
精神科は予約を取らないと受けられないというインターネットの情報が千花を怯ませた。
電車が線路にぶつかる音だけが身体の奥に響いた。
「あの……もしもし、北川と言います。今から予約できますか?」
一度電車を降りてやませクリニックに電話をする。
すると予約はいっぱいだがさっき一人分キャンセルが出たという。すがるようにその時間に予約した。
時計を見る。予約の時間はギリギリになりそうだ。
(助けて、助けて、やませ先生)
千花はY市の駅を降りてバスに乗り換えた。
間に合え、間に合え。祈るように何度もそう思った。
バスが停留所に停まると自然と走り出した。
五分走ると「やませクリニック」という看板が見えた。千花は自然と息が深く漏れた。
クリニックに入ると優しい匂いがした。
受付で保険証を渡すと少し待つように言われる。
何時間だって待つ。もう千花に帰る家はないのだ。
(こんなに走ったのいつぶりかな……)
北川さん、と呼ばれるとハッと立ち上がった。
走ったせいで座ったという実感もなかった。
目がチカチカしたまま、診察室のドアを潜る。
「失礼します……」
「こんにちは」
「き、北川です」
山瀬医師は穏やかな中年の女性だった。優しげな声に身体の奥が緩むのを感じた。
「大丈夫ですか?」
「わ、私は……」
信じられないくらい柔らかい診察室の椅子に座ると頭が真っ白になった。
空調が適度に効いていて気持ちが緩む。
話すことをまとめていたはずの脳裏から言葉が消えていた。
「泣いていらっしゃるわ」
「……え?」
頬に触れると滝のような涙が出ていた。
山瀬医師はティッシュの箱を差し出した。千花は涙を隠すように腕で顔を覆った。
「わ、私、私、頑張らないといけないんです……」
「どうして?」
「だって……誰も助けてくれないから。牧子は東京へ行ってしまった。美織は動けない。だから頑張るしかない」
何を言っているのだ。ちゃんとうつ病の治療の話をしないといけないのに止まらなかった。
ティッシュをもらっても涙の方が多くて溢れてしまう。
「辛かったのね」
そう言われて初めて千花は辛かったのだと自覚した。
今まではただ仕方がない、自分が悪いのだと思っていた。
だから辛いと認識する余裕がなかった。
山瀬医師はじっと千花の目をみるとにっこりと笑った。
「今日は初診です。ゆっくり話が聞ける。誰も助けてくれないと言っていたわね。どうか私にあなたを助けさせて」
「お、親が……父が、母が……先生、助けて」
頭の中でバラバラになった言葉は形になるまで随分かかった。
「予約を取りました。またいらしてくださいね」
「はい……はい」
結局、診察時間いっぱい泣いていた。
千花は両親のこと、牧子の誘いのこと、毎日布団から動けないことを全て話した。
山瀬医師はじっとその話を聞いて、時折助言した。
そして安定剤と軽い睡眠剤を処方してくれた。
(こんなに話を聞いてくれたのは初めて)
千花は美織を思う。美織だって話を聞いてくれた。しかし美織はいつもどこかで母親のメールを待っていた。
だから山瀬医師には初めて本心を話せた。
これから薬局に行って薬をもらおう。
山瀬医師は薬は症状は緩和するだけで環境を調整する必要があると言った。
千花の家庭環境の話を聞いてD Vシェルターという場所があることも教えてくれた。
「山瀬、先生」
手先を温めるようにその名前を呼ぶ。
山瀬医師は千花を大切に扱ってくれた。それが医師の態度というものだとしても未来は最悪ではないかもしれないと思えた。
結局、どんなに帰りたくなくても千花はあの家に帰るしかない。
帰りの空が灰色に見える。
それでも今の自分はもう一人じゃない。これからもクリニックに通うと山瀬医師と約束した。
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