第10話 病院に行かせてもらえない
「え、精神科、行ったの?」
「うん、うつ病と睡眠障害だって診断された」
毒親同盟の日。千花が言ったことは美織には完全に想定外だった。
まさか本当に病院にい行くとは夢にも思わなかった。
千花は少し暖かくなったのでアイスのミルクティーのストローを刺した。
初めて見せる千花の笑顔に美織は動揺した。
「山瀬先生、とってもいい人だったよ。ちょっと遠いけど、美織も行ってみなよ。私は薬を飲んで少し眠れるようになった」
「……でも、私はうつ病か分からないし」
美織は自分のことが考えられなかった。
母の目、世間の目。それが気になって病気に蝕まれていく自分のことが浮かばない。
「最初はちょっと抵抗あるよね、分かる。でもとにかく山瀬先生はいい人だから考えてみて。私、もう少し落ち着いたらこれからアルバイト探そうと思うんだ」
美織もアルバイトをやめたばかりだ。
どうしていつまでも働かないのかと母に言われた。
病気のせいだと分かれば理解してくれるだろうか。
千花は頬が桃色で、少し浮き足立って見えた。
「山瀬先生、本当に色んなこと聞いてくれたよ。美織の話も聞いてくれると思う」
「そうなんだ、でも」
「ねえ、美織。私たち、もうすぐ二十六歳になるよね」
年齢のことを言われると美織はクラクラした。
毎日が精一杯で考えないようにしていたが三十歳が見えてきた。
父も母もそろそろ結婚しないかと言ってくる。
布団の上でぐったりとばかりしていて相手などいるはずもないのに。
「もちろん、年齢が全てじゃない。でも若い方がチャンスがあることもある。うつ病のことだって治すには早いに越したことないんじゃない?」
(うつ病、本当に私が?)
美織は二つのことを思った。
千花は本気で美織のことを心配していること。
一日中ぐったりして布団の上にいることを父になじられたこと。
「……考えてみる」
毎日、元気になれたら母も山下のおばさんも喜んでくれるのではないだろうか。
「全く……お前は……」
(ママ?)
美織が家に帰ると父と母が廊下に立っていた。
母は悔しそうな表情で下を向いている。目の前にいるのは冷たい目をした父だった。
美織は咄嗟に無邪気な表情を装った。
「パパ、ママ、どうしたの?」
意図的に甘い声を出す。まるで邪気を知らない子供のような無垢な表情。
こうすると父は毒気が抜かれると知っているのだ。
「美織、帰ったのか。また北川さんの娘か。働きもせずお喋りばかりして……まあ、寝ているよりはいい。お前、二度とそのことは言うな」
父は最後に母に言い捨てて自室に去っていった。母は俯いたままの角度でじっと美織を見上げた。
美織は無邪気なふりを続けた。
「ママ、何かパパに言われたの?」
「ああ、美織ちゃん……パパったら何も分かってくれなくて」
そのまま母の自室に直行する。
美織は今回はお菓子がないことを期待したが木製の大皿の中に揚げ煎餅がたくさん積まれていた。
最近は母は通販を覚えて全国のお菓子を注文する。
「食べなさい。美味しいわ」
「う、うん……ママ、大丈夫?」
「全然」
母は力任せに揚げ煎餅の袋を開けたので少し破片が飛び散った。
「パパったらあんなに頭ごなしに否定して……私はただおばあちゃんがデイサービスを利用したらどうかって言っただけなのに」
「デイサービス?」
美織は無邪気なふりをして聞き返したが実際は知っていた。
母がたまにその言葉を言っていたからだ。祖母の暴言に近い言葉に耐えかねてどこか家の外に居場所があれば母に当たることも減るのではないかと言っていた。
美織はそのあと自室でスマートフォンでデイサービスという言葉を検索した。
「おばあちゃんは暇すぎるのよ。一日中家にいてテレビに文句ばかり言っている。それどころか私にああしろこうしろって。だからデイサービスに行ってみたらどうかって言っただけなのに」
「うん、ママ。でもパパは……」
「ダメだって。まだおばあちゃんは七十代なのに早いからって、もう七十八歳なのに。世間体が悪い、デイサービスの送迎バスが来たら近所に何言われるか考えてみろって……どうすればいいの?」
「ママは悪くないよ、パパは酷いね」
「本当にそう。家にことは無関心なくせにいざとなると世間体を盾にして。ああ、ママには美織ちゃんだけ。美織ちゃんだけがこの家でママの味方だもんね」
「もちろん」
自分だけと言われると少し誇らしい。
美織は無邪気な表情を作り続けた。そうすると美織は幼く見えて子供の頃の面影がよぎった。
「本当、おばあちゃんは……」
「ママ、話したいことがあるの」
非常に珍しいことに美織は母の言葉を遮った。
今なら、言えるかもしれない。精神科に通うことを許してくれるかもしれない。
世間体のことを今は否定している。
(ママに黙って行くことはできない。だってママの味方は私だけだから)
美織から無邪気の仮面が落ちて年相応の真剣な表情に戻った。
「あのね、ママ。私、寝てばかりでしょ?」
「そうね。美織も怠けてばかりはやめて、そろそろ結婚でも……」
「私、うつ病かもしれない。きっとパパのせい。だから病院に行きたい」
母はポカンとした顔をする。
美織は期待して待った。するとすぐに大きな声をぶつけられた。
「うつ病って、何言ってるの!? あんたはただ怠けているだけでしょう?」
「ママ、聞いて。薬を飲めば私だってきっとアルバイト続けられる。私は病気で怠けているわけじゃ……」
「ああもう聞きたくない! とにかくダメよ、精神科なんて。キチガイだと思われる。世間が許さないわ」
「でも……じゃあ、私はどうすればいいの? そうだ、私、市外の病院を見つけたの。そこに行けば誰にもバレないよ」
さっき世間体を否定した母の言葉を期待した。
「絶対ダメ。世間体が悪い。美織ちゃん、絶対行っちゃだめ。そんなことしたら縁談にも差し障りがある」
(どうして。さっきママは世間体を悪く言っていたのに。私が寝てばかりのままでいいの?)
咄嗟に口に出しそうになったが、美織は俯いて五分ほど黙り「はい、ママ」と言った。
揚げ煎餅を十個ほど喉に流し入れて母の愚痴の続きを聞いた。
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