第11話 もう太りたくない、許して
母に精神科の話をしたのはもう九年前になっていた。
美織は完全に引きこもりになっていた。
母の愚痴を毎日大量のお菓子と共に飲み込んでいるとどんどん布団から動けなくなった。
夜もあまり眠れない。
この前、ドア越しに父にいつまでそうしているつもりだと言われた。
(まだコロナだからって言ったけど、いつまでもこうしていられない)
布団の上で寝返りをうつ。
東京で緊急事態宣言が出たのは何年前だっけ。
否定する一方で祖母も父も母も徐々にずっと寝ている美織を無視するようになった。
父は面倒そうに顔を背け、母は困ったような顔で美織はまだ若いんだからと言った。
母の許しがないのでうつ病の病名は貰えていない。病院の話もあの日以来していない。
(自分が情けない。千花はアルバイトを五年も続けているのに)
千花は変わった。
実家のことは相変わらずだが、精神科に通うことで知識を得ていた。
今度暴れるなら警察を呼ぶと言ったことが世間体を重んじる両親を封じることに繋がった。
県内のDVシェルターのことも教えてくれた。
弁当屋のアルバイトが五年続き、自信が元々整った顔立ちの千花をキラキラと美しくしていた。
この前、お金も貯まってきたと言っていた。
ハキハキと話すようになったのでゆっくり話す美織はテンポを合わせるのがやっとだ。
『山瀬先生とはなんでも話せるんだ』
毒親同盟は続いていた。
今は千花とのお喋りだけが外部との繋がりだ。
LINEでは牧子とも繋がっていたがどうもスマートフォンには慣れない。それでも不器用にスタンプなどは送るようになっていた。
それに年齢と共に牧子がさらに眩しく見えて苦しい。そう思う度に親不孝なのだからいつか牧子には不幸が起きると慰めのように思っていた。
(LINEって面倒だな。ママはまだガラケーだから何も送ってこないけど始めたらすごく送ってきそう。既読って本当に嫌。ママが始めたら毎秒毎秒、一体何を言われるか)
その想いがLINEから美織を余計遠ざけていた。
千花と話していると彼女は牧子と積極的にLINEで交流しているようだ。
美織には牧子はあまりにも眩しすぎて少し遠ざかっていたかった。東京への誘いはおとぎの城のように現実感がなかった。
「美織ちゃん、美織ちゃん、また寝てるの……早くおいで! 今度は東京からバターケーキを買ったんだから寝ているよりずっと楽しいわよ」
「はい、ママ」
倒れそうな身体を必死に支えて母の部屋へ向かう。
『美織、お母さんの愚痴ずっと聞く必要ないよ。きついなら休んでいいと思う。診断は受けていないけどやっぱり美織はうつ病だと思うんだ』
一秒だけ足が止まる。この前、会った時に千花はそんなことを言っていた。
ふとクローゼットについた鏡の前で立ち尽くす。
随分太ってしまった。毎日寝てばかりで、大盛りの三食に加えて母のお菓子ばかり食べているのだから当然だが、ここ数年体重計に乗っていない。
体質なのかニキビはほとんどない。
一体、何キロになっているのだろう。最後に測った時は七十キロだった。
痩せたままの千花を思う。千花は家のこともありほとんどお菓子を食べない。美織と会う時にカフェのクッキーを摘む程度だ。
「美織ちゃん」
さっさと来るのが当然のような母の声。
美織は山下のおばさんの孝行娘という言葉を思い出す。自然と足は廊下へ向かった。
廊下にはカレンダーが貼ってあった。
二ヶ月前、美織は三十四歳になっていた。誕生日には母がケーキを東京から注文した。
母のお菓子だけが現実的な東京への繋がりだった。
母の通販好きはコロナで加速して使いすぎを父に嗜められることもあった。
母の部屋に入ると美織は定位置に座った。
いつものように砂糖たっぷりのカフェオレが湯気を立てて甘い匂いをさせている。ピンクの花柄のカーテンと絨毯も通販のものだ。
黄色いケーキが三切れほど花柄の皿に盛られている。
母の皿には一切れだけ。これが東京のバターケーキなのだろう。いつも三倍の理由を聞くと「私は年だから」という。
「美織ちゃん、最近はどうしてる?」
珍しく母は祖母の愚痴ではなく美織の近況を聞いた。
しかし何も起きていないので口篭ってしまう。
布団の上と千花とのお喋り。いつもそれだけだ。
「なに、黙り込んで。私たち、母と娘じゃないの。なんでも言って」
「……ママ」
強烈な衝動が出てきた。衝動を飲み込むことで精一杯だ。
こんなに太ったのだからもうお菓子は出さないでほしい。話なら聞くからお菓子のことは勘弁してほしい。
本当は美織は甘いお菓子がそんなに好きではない。
「ほら、早くケーキを食べなさい。寝てばかりいてこんなに美味しいもの食べられるなんて美織ちゃんは幸せだね」
「……」
「美織ちゃん?」
言ってしまおうか。母だって美織が太ったことは分かっているはずだ。
入る服が普通のショップでは手に入らず、全部通販で買っている。
分かってくれる。母なら分かってくれる……。
「ママ、あのね……私、もうお菓子食べたくない」
「……なんですって?」
やっとのことで声にする。すると母の声に怒りが混じったことを敏感に感じ取った。
しまった、と思うと母の声が石礫のように降り注いだ。
「美織ちゃん、何を考えてるの。あなたは幸せなのよ。寝てばかりいるのにこんな高級なお菓子が食べられるなんて私が若い頃ならあり得ない。それを食べたくない?」
美織はハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。
母を怒らせた。それ自体が恐怖だった。
しかし美織はなんとか踏みとどまった。
「ママ、私、すごく太ったでしょう? ダイエットが必要だと思うんだ」
「ダイエット? 芸能人にでもなるつもり?」
「千花を見てると思うんだ。私は太りすぎだって」
「北川さんの娘に何か言われたのかい?」
「違うよ、千花は言ったりしない。でも私、少し食べ過ぎじゃないかと……」
母は立ち上がった。美織のバターケーキの皿をむしり取るように奪い取る。
「この親不孝もの」
親不孝もの。その言葉が銀の弾丸のように美織の背筋を支えている力を砕いてしまった。
母は見せつけるように美織のバターケーキを一切れゴミ箱に捨てた。
「やめて、ママ!」
「私はこんなもの食べさせて貰えなかった! 母さんはいつも兄さんばかり食べさせて私は残り物だけだった! それを何、太りたくない? あなたが太っているのは寝てばかりいるからじゃない!」
母は二切れ目のバターケーキを美織の前でぐしゃりと握りつぶした。
バターケーキの破片が美織の頬に落ちる。
小さくなってしまった声を絞り出すように必死に奮い立てた。
「ご、ごめんなさい……千花と比べて太ったと思っただけなの。ママの気持ちをふいにしたわけじゃ」
「太ったのは運動不足のせいでしょう。寝てばっかりいるせい。私のせいじゃない。私のせいだって言いたいんでしょ?」
「違うよ! 私、入る服がどんどんなくなって……」
「それは美織ちゃんのせいでしょ? 私は娘のために東京のお菓子を取り寄せているのに」
じっと睨みつけるように三切れ目のバターケーキの皿を立って持っている。
美織は一筋の涙を流して、深く頭を下げた。
カフェオレの甘い匂いだけが鼻を掠めた。
「太ったのは私が運動しないからです……だから許してください」
「本当に心からそう思ってる?」
「もちろんだよ。だって……私はママが世界一大好きだから」
「……」
そのまま母は美織を睨み続けた。
あんなことを言うんじゃなかった。母はいつも娘のために気を遣ってるのに無下にしたと思われた。
思ったことを口に出すんじゃなかった。
「本当? ママが好き?」
「もちろんだよ。世界で一番だよ」
その言葉にようやく母は座った。バターケーキが一つだけ残った皿を美織の前に置く。
「食べなさい」
「……はい、ママ。さっきはごめんなさい」
美織は涙を拭い、細いフォークを握ってバターケーキを切った。
一口食べると濃い砂糖とバターの味がした。カフェオレの砂糖の匂いがした。
「美味しいよ、ママ」
「うん」
「大好きだよ、ママ」
「うん」
母は満足げに笑った。そこでやっと全身の緊張が解けた。
慌てて二口目のバターケーキを口にしてカフェオレで流し込む。
(私は馬鹿だ。外に出られない私のためにママは色んなものを買ってくれるのに。それを太っているからとか恩知らずなことを言うからバチが当たったんだ)
美織はにこにこと笑いながらケーキを食べた。孝行娘はそうでなければならない。
追加されたブラウニーも全て、本当の気持ちと一緒にカフェオレと飲み込んだ。
感想・ご意見など気軽にお寄せください。
ぜひまたお立ち寄りください。
よかったら星をポチッとしてくれると嬉しいです(^^)




